悩ましき翻訳
テレビニュースなどを視聴していて、英語を母国語としない(英語を公用語としていない)国の人も英語でインタビューに答えている例が多いと気付いた。
ああ、そうだよなあ、グローバル時代、世界に出て働こう、発信していこうとしたら英語は不可欠だろうし、それができないと不利だろう、などと思う。世界的に活躍する日本のスポーツ選手たちだって英語でインタビューを受け、それに答えている。脳筋だの運動バカだの言っては失礼だ。ジャーナリストやアーティストも海外に行く人たちは同様だ。
海外に行く予定はないし、どちらかというと日本語の表現や資料の読み解きに専念するからいいもんね、と開き直りつつ、言葉の持つ不思議さや奥深さに底なしの魅力を感じる。
英語ついてはアメリカ英語が世界標準なのかな?
丸谷才一のコラムだかエッセイ集で、イギリス英語に慣れるとアメリカ英語は名古屋弁のように聞こえる、なんて英語の学者さんの話があったように記憶している。ロックバンドのクイーンのスタッフのピーター・ヒンス、通称ラッティの書いた『クイーンの真実』(ピーター・ヒンス著、迫田はつみ訳、シンコーミュージック・エンタテイメント刊)では、アメリカ合衆国でツアー中、イギリスのアクセントで話すのがカワイイと女の子にモテたエピソードがあった。日本で京ことばに魅力を感じるものなのだろうか。
こちらはその差を実感して理解できず、アガサ・クリスティーのミステリで、ポワロがイギリスとアメリカで単語や言い回しが違うのを謎解きのヒントにしてたよな、程度である。
わたしと一歳違いのフィンランドの女性、ミア・カンキマキの『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』(ミア・カンキマキ著、末延弘子訳、草思社刊)を読んだ。日本は翻訳の面で実に恵まれている、とつくづく思った。
日本人は何故英語が話せないのか、と、日本語と英語はあまりにかけ離れた言語だから、日本人は文法を重視しすぎて会話できるように学ばないから、などなど、色々と言われている。
いきなり外国人から英語で話しかけられて、何を問われているか理解できたけど、何と答えたらいいかとっさに言葉が出なかったわたし、適当に流す度胸もなく、その建物の正確な英語の名称が浮かばなかったからである。
いやあ、なんていったって、日常生活にも学習をするにも、英語ができないとまずいという状況ではないんだもの。だってさ、日本は敗戦後にGHQに占領はされたけど、英語が公用語になりはしなかった。文学の方面なら、英文学に限らず、独文学、仏文学、各欧羅巴文学、印度、阿弗利加、亜細亜、翻訳された本に不自由しない。たまに翻訳されていないので原書を手に入れないといけないといった例がたまにあるけど、それだって専門書、研究書の類が大半で、学究の徒でなければ求めない。(アン・ライスのヴァンパイア・クロニクルのシリーズが未翻訳だけど、原書で読んでみようと願うほど熱心でない)
日常でカタカナ言葉の氾濫にモヤモヤした気分にさせられるが、それでも原語を直接聞いたり読んだりする必要に迫られているのとは違う。
さて、『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』の著者ミア・カンキマキだが、大学時代に日本文学講座か何かで、『枕草子』を知り、好きになったと書いている。三十代終盤に差し掛かり、フィンランドの長期休暇制度を利用して、日本の京都に行こう、清少納言の暮らした京都を体感し、調べて本を書こうと決めた。とこの時点で、実はフィンランド語訳の『枕草子』はまだ存在せず、著者は英訳版で読んだのみ、そしてほどんど日本語ができなかった。
大丈夫か? と読者は大抵そう思っただろう。
そういうことに躊躇していては人間、冒険はできないのだろう。著者は日本に渡り、京都で暮らした。京都の寺や御所、桜の季節にはその名所を見学をし、十二単を纏う体験もあった。『源氏物語』と比較して英語の研究本が少ないのを嘆いたり、来日してすぐの九月の京都の暑さに参ったりと、こちらも肯き、微笑ましくなる場面もあった。
『枕草子』の英訳の題名は“Pillow Book”。著者が日本で南アフリカ出身の青年と京都で会話していて、「勇気がある!」と言われた。話が嚙み合わないと思ったら、その青年は春画の研究をしに来たのだと思ったのだ。確かに英語で寝物語を“pillow talk”というけど?
著者も疑問に感じて調べ、官能的な木版画、いわゆる春画、その他東洋の愛のハンドブックを英語で“pillow books”と呼ぶと突き止めた。“s”の一字があるかないかだけど、充分誤解される。
辞書を引くと、どうも英語の“pillow”——枕は性を連想させる単語になるみたいで、悩ましい。
確かに清少納言は東洋、日本の後宮女官で、『枕草子』は後宮での生活の随筆だが、愛の技法なんざ載せていない。殿上人の遣り取りや気の利かない男性をやり込めた話はあっても、それは閨房の出来事ではない。宗教や道徳、習慣が違うからであって、彼の女たちの振る舞いがふしだらだからではないと、著者は理解している。清少納言や紫式部、小野小町が年を取って落ちぶれたとか、地獄に落ちたとかいう、日本の伝承も困ったものだけど。
英語の“pillow”——枕は、往年のフランス大女優ブリジット・バルドーの愛称が頭文字“B.B”からフランス語のアルファベーの発音で呼ばれるのを、日本のとある地域で忌避されたのに似ているのかも知れない。
外国に行ったら、日本語の〇〇は口にしちゃいけないよ、なんて単語みたいな印象になってしまった……。
著者、ミア・カンキマキは清少納言とその著書『枕草子』への愛情から未知の国に飛び込んで、東日本大震災の及ぼした不安を乗り越え、長いラブレターをしたため、日本の読者を大いに感嘆させた。




