騙される快感
まず表紙に騙された。この本の表紙は赤と黒が基調になっている。大胆なポーズで座る人物。物憂げな瞳はしっかりとした化粧で彩られている。赤く塗った唇。長い黒髪には大きな赤い花の飾りが一つ。表紙の人物は赤のレースのオールインワンの下着を身に着けているようだ。下着の胸元は黒のレースで縁取られている。黒のガーターストッキングに赤のピンヒール、片足を上げて、実に危うい角度で、太腿が露わになっている。
本の題名は『ジュリアン・バトラーの真実の生涯 The Real Life of Julian Butler』(川本直 河出書房新社)で、このわざとらしく入っている英語の人名が、“Julianne”でも“Julianna”
でもないところがミソある。フランス文学の『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは男性である。表紙で挑発的な視線を投げ掛け、誘惑するがごときの人物がジュリアン・バトラーなら、女性の名前としておかしいではないか。
疑問を抱きつつページを捲ると、「知られざる作家——日本語版序文」と著者の川本直が語っている。更に次のページには、「本書には今日の観点から見れば考慮すべき表現がありますが、時代背景を考慮し、当時の用語・用法のままとしました。(編集部)」と右ページに小さく入っており、左ページは「ジュリアン・バトラーの真実の生涯 The Real Life of Julian Butler」の中表紙になっている。次のページには、ジョージ・ジョンなる人物の自分の名前に関する不満が短く載せられている。
誰だ、こいつ? 期待と疑問、勿体付けられ、焦れてくる。
物語の冒頭、ニューヨークのカーネギーホールのボックス席で、ニューヨークフィルハーモニー管弦楽団とピアニストのホロヴィッツのチャイコフスキーのピアノ協奏曲の生演奏をBGMにしながら、女装の少年——同伴者からジュリーと呼ばれる——と同伴のクリスは淫行に及ぶ。興奮冷めずそのまま、男子トイレに飛び込んでの過激なBLのポルノシーン。
ええええ! この調子で続くのかと思ったらジュリアン・バトラーの小説から引用、とポンと説明が差し出される。
そこからジュリアン・バトラーがどんな小説を書き、どんな個性の持ち主で1940年代終わりから70年代にかけてアメリカ合衆国の文学を彩る小説家の一人であると紹介されていく。
地の文の「私」――語り手は――は、ジョージ・ジョンだとようやく解ってくる。
ジュリアン・バトラーとジョージ・ジョンの出会いはフィリップス・エセクター・アカデミーの寮で、ジュリアンは十七歳、ジョージは十六歳だった。
ジュリアン・バトラーにジョージは困惑するが、あることをきっかけに深い関係となる。
アカデミーの同窓に、また世に出てから芸術家仲間にゴア・ヴィダル、トルーマン・カポーティ、アンディ・ウォーホール、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・バロウズら実在の人物が出てくる。
アメリカ文学というと『若草物語』どまりのわたしでも、何となく、雰囲気や熱気が伝わってきて、長いながらも面白く、ページを繰るのをやめられなくなる。
ジュリアン・バトラーはジョージ・ジョンと出会った時から、自分の個性を一切隠さない。学生寮での飲酒と喫煙から始まり、男性ながら女性の衣服を纏い化粧をし、女性らしく装う為の美容を怠らない。ジュリアンの装いは完璧で、少年時代から三十くらいになっても、一見して男性とは解らないくらい、美しく、また贅を凝らした恰好をしている。性的な好みも同性に向かっている。ジョージ視点で、ジュリアンは自身のアイデンティティーに悩んでいる様子は見えない。人生楽しまなくっちゃと何事にも自分の欲望に忠実だ。
一方ジョージは同窓のゴア・ヴィダルから「最後の清教徒」と綽名される真面目な文学青年で、本の虫と言えた。ジョージは雑誌編集者を経て作家デビューし、大学の教員となる。アメリカ合衆国は性や家庭の面で宗教に忠実であろうと保守的で、同性愛は社会的に葬り去られる醜聞となり得る時代だ。
それでも二人は結び付き、長年共に暮らした。
ジュリアンとジョージの関係をなんと呼んだらいいのだろう?
確かに二人は同性の愛人同士とか、パートナーと呼んでも差し支えないかも知れない。だが、それだけではない要素が濃くなってくる。後半になると、ジュリアン・バトラーなるアメリカの小説家はジョージ・ジョンの作品だ、と評して構わない気がしてくる。ジュリアンが始めこそ主導権を握っているが、次第にジョージに移っていく。ジョージは最後までジュリアンの浪費と不品行で悩まされる真面目な同性の恋人のつもりだが、読者にも身近な友人にも二人の立場が逆転しているのがはっきりと読み取れる。
ジュリアンの死によって解放される、ジョージのその後の人生が続く。
終章に、「ジュリアン・バトラーを求めて——あとがきに代えて」と、著者がジョージに対するインタビューを交えての解説、後日譚を書き、その後の「主要参考文献」は十ページを超えている。その次のページに、「本書はフィクションです。」。
うん、解ってたよ。ここまでの大嘘、とっても面白かったし、アメリカ、特にニューヨークがこんな感じだったのかしらと愉快だった。アメリカの第二次世界大戦参戦から学生運動、カウンターカルチャーの興隆の現代史の流れが背景にあるのも感じ取れた。
ジュリアンの作品の映画化で監督がオリバー・ストーンやケン・ラッセルの名が挙げられ、真実なら是非とも観てみたかった。
研究書やノンフィクションを装ったフィクション、実に刺激的で知的な興奮を感じた。
柴田錬三郎の「小説とは嘘を書くこと」が思い出される。わたしもリアリティのある大噓を吐いて、読む人を面白がらせたい!




