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わたしはカルピスについて知らなかった

 わたしが幼児期、つまりは半世紀ほど前の時代、日曜日の午後七時半から『ムーミン』やら『山ねずみロッキーチャック』というアニメ番組が放送されていた。番組の合間のコマーシャルにカルピスやその関連の食品を宣伝していた記憶がある。子どものことだからカルピスが好きだったし、その当時にカルピスの製品でひと手間加えてのムースとかのおやつがあったのをテレビコマーシャルで観て、親にねだって作ってもらった。

 いつの間にかカルピスだけがアニメ番組のスポンサーでなくなったし、カルピスは味の素が株主になったし、今ではアサヒ飲料の子会社化している。

 YouTube聞き流しをしていたら、お薦めに「積読チャンネル」が上がった。どんなかな? とタップしてみたら存外面白い。その中に『カルピスをつくった男 三島海雲』(山川徹、小学館)があった。飲料のカルピスが戦前からあるのは知っていたが、その創業者が浄土真宗の僧侶で、調理師でも酪農家でも細菌学者でもなかったのに驚いた。興味引かれて、本を読もうと思った。「積読チャンネル」はオンライン書店さんの製作する動画なのでちょっと気が引けたが、『三島海雲』の本の紹介の発表は一年前ってあるし、地元の図書館の蔵書にあったので、借りた。

 三島海雲の一代記とカルピスの会社の歴史がまとめられた本だが、三島海雲の波乱万丈な人生に紙数が追い付かなかったような印象がある。表紙には若き日の三島海雲の写真が使われている。毛皮の帽子と襟巻をしてすっくと立つ男性は立派な偉丈夫だ。文中に身長171センチとあるし、写真にあるのはきりりとした目鼻立ちの好男子。生まれ育ちで体格や顔立ちの差が大きく出る時代、親の代からいいものを食べていたのではないのかと思わせる。ところが三島家は大阪の貧乏寺の子として明治11年(1878年)に生まれたと紹介される。寺の檀家が地域的に多くなく、父は金を稼ごうとしたがかえって損を出し、母親が銭湯や質屋を経営して家族を支えた。三島海雲は体の弱い子で、医者から長く生きられないと言われもした。母親は息子の体を気遣い、教育にも熱心だった。三島はお寺の息子として得度し、西本願寺の教育機関で学んだ。三島の青少年期に日清戦争があり、日露戦争が起こった。日本の国も人も大陸に野心や希望を抱いたころだった。三島もまた大陸に渡った。はじめ北京で日本語の教師となり、次に雑貨を扱う仕事をするようになる。読む限り、商才があるように感じないのだが、時代の勢いと人脈、それと三島自身の人柄からか信頼されて、雑貨から軍馬の買い付けまで行うようになる。軍馬の買い付けはうまくいかなかったが、行った先の内モンゴルで有力貴族のパオ氏、ジャンバルジャヴと知り合った。三島はそこで乳製品に出会う。元々体が弱く、旅で調子を悪くしがちな三島乳製品は初めて乳製品を口にした。


『何だか不老不死の霊薬にでも遭遇したような気もするし……』


 回復した三島はそんな感想を抱いた。清国の崩壊を機に、大陸を去ることとなり、帰国した三島は乳製品を日本に広めようと決断した。明治以降、富国強兵が唱えられ、衛生や健康が意識されるようになった日本で、最初の製品『醍醐味』が開発、発売された。人気商品となったが、原材料の牛乳が足りなくなって生産中止となってしまった。「醍醐味」や乳酸菌入りキャラメル「ラクトー」を製造すると脱脂乳が残る。その脱脂乳を利用できないかの試行錯誤が、カルピスの製造につながった。

 三島は、カルシウムの「カル」と醍醐を表すサンスクリット語の「サルピルマンダ」を組み合わせて、「カルピル」と名付けようと考えた。しかし言葉として歯切れが悪い。「カルピス」にしようかと音楽家の山田耕筰とサンスクリット学者の僧侶に相談した。二人から賛成されて、新製品は「カルピス」の名で大正8年7月7日に発売された。「カルピス」の人気は説明するまでもない。

 三島海雲自身の人柄や行動に目を見張るものがあるし、出てくる関係者の名前に、えっ! この人も関りがあったのか、と人脈の拡がりに驚かされる部分がある。

 情報が多すぎて、読後頭の整理が追い付かない、が感想の第一だった。体が弱いと言われた三島が滋味の豊富な乳製品に出会い、乳製品は断食後の釈迦が食べて回復した食べ物であるし、これを広めるのもまた一僧侶としての無私の精神からの帰結といえよう。

 三島は『国利民福』を唱え続けた人だった。利益を出すのに執心するではなく、救済を第一にして関東大震災でカルピスを配ったし、科学の発展の為に三島海雲記念財団を設立して現有財産を全額寄付もした。仏教の教えに忠実だったといえるし、上に立つ者としての意識ともいえる。

 地平線も蒼穹の壮大さも知らない俗で凡なるわたしは、カルピスの最初の会社はヱビスビールみたいに恵比寿にあったんだとか、だからスーパーマーケットのバター売り場に「カルピス特撰バター」があるんだとか馬鹿の一つ覚えをした。

 引用は『カルピスをつくった男 三島海雲』(山川徹著、小学館刊)の中から。著者の山川徹の巻末の略歴を見たら、1977年、山形県生まれとあった。ほかの著書の題名もあって、地元の図書館に蔵書があるか検索してみた。『東北魂 ぼくの震災救援取材日記』(東海教育研究所)、『国境を越えたスクラム──ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)、『それでも彼女は生きていく 3.11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)がある。三島海雲といい、なかなかのテーマ。

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