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やっと読んだ古典SF

 前に実家に行った時に、父に昔のSFの名作と呼ばれる作品が蔵書にあったら借りたいと申し込んだ。昔手放したものもあるからなあ、と言いつつ、父は書庫や寝室の書棚に案内してくれた。わたしの目当ての全てはなかったけれど、見付けた二冊と、父のお薦め二冊を借りた。同じ本好きでもわたしと父の興味も趣味も方向が違う。父にとって海外作家のバロウズは『類人猿ターザン』や『火星シリーズ』のE・R・バロウズで、妻をウィリアム・テルごっこで死なせてしまったW・S・バロウズじゃないんだなあ。まあ、旧版で『おかま』なんて題名の本(現在の題名は『クィア』に改定されたそうだ)を父は買わないだろう。W・S・バロウズはそのうち挑戦しよう。

 父から借りた内の一冊は、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』(沼沢洽治訳、創元推理文庫)だ。早川書房や光文社古典新訳文庫だと題名が『幼年期の終り』、『幼年期の終わり』と送り仮名の違いしかない。原題が”Childhood’s End”で、忠実に訳せばほかに『子ども時代の終末』くらいしか訳語にバリエーションがない。

 どうしてタイトルに「地球」をくっつけたのかなあと思ったが、最後まで作品を読んでみて納得。伊藤計劃の『ハーモニー』(早川書房)の読了後と同じような、置いて行かれた感が大きかった。『幼年期の終わり』は、「宇宙人による地球人の家畜化、飼育」と評されるが、やはり自分で読んでみての感想は単純に述べられない。

 父から借りた『地球幼年期の終わり』は、初版が1969年で、1973年に9版とある。読み始めると、現在では不適切とされる言葉遣いが結構出てくる。版を重ねた時に改定しているのかなと思うし、ほかの出版社でも改定や新訳では別の単語が使われているだろう。ここでは自分が読んだ『地球幼年期の終わり』から所感を述べる。

 米ソ冷戦、宇宙開発競争が盛んな頃、いきなり地球に宇宙から多数の船団がやってくる描写から始まる。宇宙船の開発をしている人物がそれを見て、一生の仕事がふいになったとショックを受ける。

 そこからいきなり時代が飛び、地球人はやってきた宇宙人たちを受け入れている。宇宙人たちは、地球人たちがかつて別の文明圏の人たちにやってきた虐殺や略奪、植民地化を一切しない。それどころか戦争をなくし、清潔で安全な生活を全人類が送れるようにしていっている。但し宇宙人たちは地球人たちに姿を現さない。国連の事務総長ストルムグレンがただ一人、宇宙人――<上主>と呼ばれる――たちの<総督>のカレレンと話ができる。話をするが、やはりカレレンはストルムグレンにも姿を見せない。地球人たちは宇宙人の正体を知りたいし、暴力的に扱われなくてもこのままでいいのかと危機感を抱く者たちがいる。

 そりゃそうなのだ。誰だって、たとえ非力な身であろうと、自我を持つなら苦労せずにいられようとも、保護され監視されているのは居心地が悪い。人類は過ちを繰り返そうとも、自身で文明を築き、蒙を啓き、成熟してきたんだと誇りがある。一市民とすれば安楽に流れ、リスクを恐れて何もできないであろうけど、被支配を受け入れたくないと抵抗を試みる者が出るのは一種物語の必然だ。ストルムグレンが誘拐されちゃうのだが、カレレンの力で思いのほかあっさりと解決してしまう。

 ストルムグレンはカレレンに姿を見せるように言うが、それはまだ先の未来だと述べる。

 そしてその先の未来、カレレン、<上主>は姿を現し、その姿はキリスト教圏で悪魔と呼ばれる者そっくりだった。驚きはあっても人類たちは<上主>たちをもう拒否しない。人類は<上主>たちから与えられた豊かで平和な生活を送る。地球の学術調査の役割を持つらしい<上主>ラシャヴェラックは動物保護管のルパート・ボイスのオカルト関係の蔵書を読みにルパートの家に現れる。ルパートの家にラシャヴェラックのほか、招かれた客たちがいて、こっくりさんみたいなことをする。儀式の終わりに、ルパートの妻の弟ジャン・ロドリックスは、「<上主>の棲む星の太陽は、どの恒星?」と尋ねた。答えが示されると、参加者の一人の女性ジーンが気絶した。

 ジャン・ロドリックスは天文学を学んでいる。プロローグでロケット開発の人間が「一生の仕事がふいになった」と絶望したように、ジャンもまた宇宙にいけないと、現状を悲しんでいる。こっくりさんみたいな儀式――降霊術で示された回答や、<上主>たちが地球の生物の標本や剥製を集めている情報から、鯨の剥製に潜んで宇宙船に乗り込む。

<上主>たちはジーンの様子を気にしているようだが、こちらはジャンの動向が気になって仕方がない。人文科学分野の学者や芸術方面、またはスポーツに興味がある人はその道に進める。しかし自然科学系の学問は圧倒的に上の知識と技術の<上主>たちがいるので、学問の分野自体はなくならなくても新たな発見も開発も望めない。アンパンマンのマーチではないが、何の為に生まれて、生きるのか、目的を失い、虚しくなってしまう。感覚とか、芸術的なセンスは<上主>たちと地球人はまるで違うようだし、平和と安全が保障されているなら波風立てずに享受しようと大概の人間は思うだろうし、わたしとてそうなるだろう。そんな中あえて生きる意義を取り戻そうと行動するジャンは冒険者であり、叛乱者だ。密航者として宇宙空間に放り出されるのか、無事に到着できるのか。宇宙海賊みたいにはならないのだけは確かだ。

 ジャンが宇宙船に潜んで、<上主>たちの主星に辿り着いたのは早々にばれ、だからといって邪険にされずに迎え入れられ、様々な物を見て、再び地球に戻れた。相対性理論で、ジャン自身は六年ほどの時間を経て、地球は八十年が経過していた。そこでジャンは浦島太郎どころではない変化を目にしなければならなかった。

 この物語の結末が人類の進化であり、幼年期の終わりであるのか、それが理想的なのものであるのか、わたしは解らない。地球の人類は核戦争などの破滅から<上主>たちから守られ、進化して<主上心>へと旅立つ。全く違う惑星の生命体の為に<上主>たちが尽くすのは、<主上心>の意志。<上主>たちは子どもを見送る保育士だ。子どもは自分の足で走り出す喜びに決して振り返らず、成長とともに幼時を思い出しもしなくなる。

 道はふたたび交わることがない。

 寂寞の念を抱こうと、自らの職務に揺らぎを感じようと、逆さまに歳月は流れない。世話した若い世代が独り立ちできればよしであろう。

 文中、<上主>、<主上心>と出てくるのは翻訳者によって訳語が違うらしい。訳者あとがきやWikipediaを参照すると、<上主>は”overlord”、 <主上心>は”overmind”が原語。


 昔は父の蔵書にSFがもっとあったように記憶しているのだけどなあ。『夏への扉』や『宇宙の戦士』や『月は無慈悲な女王』、『タイタンの妖女』は自力で手にしょ。次は借りてきた『虎よ、虎よ!』(アルフレッド・ベスタ―著、中田耕治訳、早川文庫)を読もうか。

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