悔恨の微笑
今日も雨が降っている。しかし、天気予報によると、午後から晴れるらしい。とは言えども、この時期の天気予報はあまりあてにならない。俺は鞄に折り畳み傘と昨晩終わらせたばかりのレポートを入れた。
お気に入りのダジャレTシャツに黒いパーカーを羽織って家を出たのは、朝7:30の事だった。
早めに着いた俺は、図書室でゆったりとした時間を過ごそうと思った。本を読むのは嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。沢山の知識が得られる程良い事は無い。勿論、これは俺の自論だが。
自分だけだと思って入った図書室には、先客が居た。色素の薄いサラサラマッシュの男だ。俺と身長はさほど変わらないぐらいで、優しげな瞳でこちらを見ている。一瞬、女かと思ってしまうぐらい線が細い。俺が軽く会釈すると、ニコッと笑って会釈を返してくれた。
俺は芥川龍之介の本を探しながら、さっきの男の顔を思い出していた。
(そういえば……あの男、何度かここで見かけた事あるな…。)
気になって出入口付近にもう一度行ってみたが、既に居なかった。恐らくここの生徒だろうし、そのうちまた会えるだろうな。そう思って、俺は本を持って講義室に向かった。
1日の講義を終えた俺は、使い終わった参考書等を鞄に入れながら帰りの準備をしていた。この後サインズモールに向かわなければならないので、出来るだけ急ぎたかった。
後ろで騒いでいるアホみたいな奴らを尻目に、俺が講義室を立ち去ろうとすると、背後から女に呼び止められた。
「佐伯くん…だよね…?」
オドオドした喋り方と、時間を取られたことに内心イライラしていたが、平常心を装って微笑み返す。
「なに?」
「あ…あのね!この後、みんなで食事しようって話してるんだけど…佐伯くんもどうかな…?」
モジモジしながら喋る女の斜め後ろに居るアホ集団と目が合った。この女は正気なのだろうか。俺にお前らみたいな猿と一緒に食事をしろというのか。鼻で笑いたくなるのを必死で堪えて、丁重にお断りした。
「ごめん。この後バイトが有るんだ…。誘ってくれてありがとう。」
思っても無い言葉だが、態度、言葉選び、全て完璧だろう。女も俺の申し訳なさそうな態度を見てか、すぐに諦めた。
「そっか……。バイト、頑張ってね!!」
その言葉を背中で聞きながら、無言で俺は講義室を出た。何故、俺が名も知らぬ奴に”頑張れ”と言われなければならないのだろう。もう十分なくらい頑張っているつもりなのだが、どうやら周りにはそう見えていないらしい。まぁ、そう見えて居たら俺が組織の一員だという事も知られてしまっている事になるけど……。
悶々と考えながら廊下を歩いていると、前から談笑しながら歩いてくる2人組が視界に入った。
(あっ。)
ふと声が漏れそうになった。それは2人組の内の1人が、今朝図書室で見た男だったからだ。もう1人は全く見覚えがない。すれ違いざまに会話の内容が聞こえてきた。どうやら2人は『サインズモールの女の霊』の事について話し込んでいるようだった。
やはり、噂の規模はデカい様だ。調べるのは意外にも簡単かもしれない。
俺は少しだけ心を踊らせてサインズモールに向かった。
翌日…
俺は体が重くてしょうが無かった。明け方までサインズモールで単独調査を行っていたせいで、一睡もしていないのだ。1度着替えに帰っただけで、昨晩から殆ど休めていない。
そんな体で講義に参加したものだから、内容が全く入ってこない。
(今日は午前で帰ろう……。)
10分休みの間、机に突っ伏しながら俺がボーッとしていると、後ろで群れているアホ集団が気になる話をしていた。
アホA:「なぁ、今朝のニュース見た?サインズモールの。」
B:「見た見た。斬撃痕だろ?怖いよなぁ…」
C:「一体どうしたらあんな事が出来るのかしら…。」
A:「な?」
D:「また行方不明者出てるんでしょ?」
E:「らしいね。最近、霊が出るとか変な噂もあるし、不気味だよね…。」
C:「しばらくサインズモールにはショッピング行くのやめようかな…。」
B:「気持ちわりぃなー……」
(斬撃痕…?)
不思議に思った俺はスマホで調べてみた。出てきたのは日付が今日のニュース記事。
『サインズモールの3階、西側で巨大な斬撃痕を発見。女の霊との関係性有りか!?』
(おかしい…。そんなの有り得ない。俺は昨晩から今朝5時までサインズモールに居たんだ。3階には2時以降行っていないが、その時は無かった。つまり、斬撃痕が付いたのは…それよりも後だ。でも巨大な痕がつくぐらいだ、大きな音がしてもおかしくない。でもそんな音は聞こえなかった。俺が東側に居た時に付いたってことか…?昨日あの場には松江と数名の組織の人間も居た…。だが、あいつらのオーラを見る限り、斬撃痕を残せる能力じゃない。……だとすると、俺や、松江ら以外の別の誰かがあの場に居た…という事になる。しかも、そいつはかなりの能力者。一体、何者なんだ…?)
俺は色々考えを巡らせるが、疲れきった頭ではそれ以上考えを深める事は出来なかった。
ただ、俺は1つ良く思う事があった。それは、斬撃痕を残した主と鉢合わせせずに済んだことだ。どんな奴か分からないが、そいつは確実に頭がおかしい。もし出会ってしまっていたら無傷では済まないだろう。俺の中にはただただその事に対する恐怖感と安堵感があった…。
講義が終わった後…
俺は重だるい体を引き摺りながら廊下を歩いていた。廊下には昼食について話をしている人が多く居たが、そんな事はどうでも良かった。俺はただ寝たい!!欲には勝てない。
しかし、眠気というものは危険だ。注意力が散漫になってしまう。俺が廊下の角を曲がろうとした時、人とぶつかりそうになってしまった。
「うわっ…」
驚きのあまり、声が漏れる。一方、相手も目を見開いて、とても驚いている様子だった。
「すみません…。」
「こちらこそ、すみません。でも……」
何か言いかけたと思ったら、目の前の男がドンッと壁に手を付いた。構図的に言うと、横の壁ドンみたいな感じだ。
(なんだ、コイツ…)
そう思って、眼鏡の奥の目をさらに細めて男の顔を確認する。
俺は息を飲んだ。その男は、昨日、図書室であった男と一緒に歩いていた男だった。
「な……何ですか…。」
俺は無愛想に男を見る。男はニコニコしながら話し始めた。
「丁度良かった。佐伯くん。」
「……。」
何故名前を知っているのか気になったが、まぁ、名前くらい知っていてもおかしくはないか、と自己完結させた。
「いや…浅見優一くん、かな。」
「…っ!!」
「あはは。そんなに驚かなくても良いじゃないか。君だって気付いていただろう?俺のドローンが君の後を付けていたことぐらい。」
「…えぇ、まぁ。」
「実は、ちょっと話があるんだよねぇー……。」
「今ですか。」
「いや、明日とか空いてる?勿論、嫌なら良いんだよ?ただ、代わりに君の個人情報とかをバラまいちゃうかもー。」
「……はぁ……、わかりました。」
脅迫とも取れる発言に俺はため息混じりに返事をした。
「話が分かるじゃん。佐伯くん♪」
「……。」
「じゃあ、明日の午前11時に駅近のカフェ、『Lamp』に来てねー!」
そう言い残すと男はスキップして通り過ぎて行った。
まさか…ドローンを飛ばしていたのがあの男とは……。俺は一昨日の松江との会話を思い出す。多分、あの時に”浅見優一”という名前がバレたんだろう…。
オマケに松江と似て、テンションがやたら高くてムカつく口調…。全く何でこうイライラする事ばかりが続くんだ……。
俺はもう1度ため息をついて、崩れるように、廊下にしゃがみこんだ。やっぱり、人生そう上手くいく事ばかりじゃないなぁ……なんて、ちょっと悔しい思いを噛み締めながら、1人小さく笑った。