認識。
「お嬢様? まだご気分が優れませんか?」
誰かが――侍女が気遣わしげにあたしをのぞきこんでくる。
この侍女は…やさしくて気の利く、そう名前はサリー。
「朝食はとれそうですか?」
「……あまり欲しくない」
「まだ具合がお悪いんですね」
サリーはそう言ってグラスを差し出してきた。
「お水をどうぞ」
「ありがとう」
受け取った水にはレモンが少し入っていて、気分がさっぱりする。
「起きたのね、ハンナ」
サリーの後ろから心配そうに顔をのぞかせる、茶髪の美女は……
「お母さま」
「よかった…。お父様があなたを抱きかかえて屋敷に戻っていらした時、わたくしは驚いて腰を抜かしてしまったわ」
お母さまはベッドに腰掛けて、確認するようにやさしくあたしの頬や頭を撫でた。
「顔色はいいわね。気分は? 朝食はいただけそう?」
「平気。でもまだ、ごはんはいらないかも」
空になったグラスをサリーに返しながら言うと、お母さまの白い手があたしの額に触れる。
ひんやりしてて気持ちいい。
「熱はないわね。もう少し眠る?」
「ううん、お庭に行っていい?」
外の空気を吸いたいし、少し歩いて体を動かしたい。
そして何より頭を整理したい。
無理をしないことと言い残し、お母さまは出て行った。サリーに付き添われ、あたしはゆっくりと庭を歩く。
まず現状を確認しよう。
あたしはハミルトン伯爵家の長女ハンナ。両親と兄が二人いる。
ハンナとしての十歳までの記憶は全部あるし、日本語ではないこの国の文字も読め、会話もできる。
そして昨日、倒れた時に見えたのは、あたしが以前住んでいた街の景色。横浜だ。
前世、という言葉が頭を駆け巡る。
あたしはサクラザワ ハナだった。
漢字で櫻澤華。
画数が多くて小学生の頃は苦労した。
先祖と親をうらんだこともある。
家族は両親と妹。
地元の大学を卒業し、売り手市場の就活を難無く乗り越え、社会の壁につまづいて…でもなんとかこらえて、平凡な日常を送っていた。
その前世であたしは……おそらく死んで、ここに転生した。
庭を進むとバラを絡ませた東屋があったので、そこで一息付く。
急激に流れてきた情報にまだ脳が適応しきれていない。
少し考えただけなのに、なんだかすごく疲れた。
「ちょっと…ここで休むわ」
「ではおそばに控えています」
サリーはあたしの後ろに立って、静かに気配を消した。
庭を渡る風の音と、鳥の声がよく聞こえる。
車や電車の走行音やクラクション、耳慣れた街の喧騒はどこからも聞こえない。
目の前に広がる庭園、青く澄んだ空。
ビルも電線もないし、羽田から離着陸する飛行機も見当たらない。
横浜とは全然ちがう風景――。
じわりと涙が浮かぶ。
あたしはハナだ。
だけど、ハンナでもある。
これから、どうしよう。
この世界は大きな戦乱や事変があるのだろうか。
できれば怖いことのない山も谷もない平々凡々な人生を送りたい。
だから、前世の記憶があるなんて、誰にも言えない。言っちゃだめだ。
あたしはそう決心して拳を握る。
その時、遠くから馬のいななきが聞こえ、ややあって正門付近がにぎやかになった。
「なんだろう…お客さま?」
「そのようです。お嬢様、お部屋に戻りましょう」
サリーに淑女は軽々しく姿を見せるものではないと言われ、そういうものかと立ち上がる。
正面玄関を避けて、サンルームから室内に戻ると父親が両手を広げて待っていた。
「ハンナ!」
「お父さま、おはようございます」
「お母様からハンナが起きたと聞いて、ホッとしたよ。気分はどうだい?」
「もう平気みたい」
子供らしい口調になってるかな?
っていうか、お母さまもお父さまもかなり美形だなぁ。
至近距離で顔を合わせると照れくさくて、つい視線を反らしてしまう。
「どうしたんだい、ハンナ」
「なんでもない」
お父さまにいぶかしまれてしまった。
あたしは照れくささをごまかすようにお父さまのあごのあたりを見つめる。
「お父さま、今日はまだお仕事に行ってなかったの?」
「ハンナが心配だから出掛けなかったんだよ」
「…それはご迷惑を」
「娘の心配をするのは親として当然だ。どこも痛くないかい?」
美形に頬擦りをされて、抱きしめられた。
(うわぁ…めっちゃ照れる…!)
前世ではありえなかった距離感に固まってしまう。
(こういう時は抱き返すべき? でもどう抱きつくの? 首に手を回す? それとも……)
「旦那様、グリフィス様がお見えです」
ぐるぐる悩んでいたら、執事のカイドがお父さまを呼びにきた。