【9】有島家の人々 2
【9】
奏が自宅の木製の扉を開けようとした途端、まるで自動ドアであるかのようにガチャリと開いて、可愛い花柄のエプロンを着けた紗菜さんの満面の笑顔がそこにあった。
「ただいま」
奏が声をかけると紗菜さんは「おかえりなさい」と言って、私たちの方にも大歓迎と言わんばかりの表情で声をかける。
「Welcamu!So glad you could make it (いらっしゃい!来てくれて本当に嬉しい)珠里ちゃんに康ちゃん、よく来てくれたわ!さあさあ、早く中にあがってちょうだい!」
「そんじゃ、お邪魔しまーす」
と、康介がなんの遠慮もなく、さっさとスニーカーを脱いで、あろうことか奏よりも先に中に入って行くので、私はぎょっとして「ちょっと、康介!奏が先でしょ!!」と声をかけるも、紗菜さんが「いいのいいの♪」と笑って私も中へと促してくる。
「紗菜さん、康介が図々しくてごめんなさい。あいつ、いくら幼馴染みの家だからって、いつもこんな感じで他人の家にあがり込んでるの?」
私が困惑気味に言うと、紗菜さんはふふっと笑う。
「もう、珠里ちゃんったら、他人なんて寂しいこと言わないで? 私は康ちゃんも珠里ちゃんも家族同然だと思っているのに、そんなこと言われたら悲しくなっちゃうわ。それに康ちゃんは、もはや私の息子だと思ってるし、いつも色々手伝ってくれて、ほんと助かってるのよ」
「そ、そうなんだ」
康介って、うちにあまりいることないから、お母さんが「うちの男どもは本当にいざという時にいなくて役に立たないわね」とか言って呆れてたけど、いつの間にか、奏んちの子になってたんだね。おかげで私がお母さんに頼まれて力仕事に付き合わされてるっていうのに。
「ほら、珠里ちゃんも遠慮せずに中へ入って! 珠里ちゃんがうちに来てくれるの首を長くして待っていたのよ? も〜いつでも遊びに来てくれていいのに中々来てくれないんだもの。康ちゃんに珠里ちゃんも一緒に連れてきてって毎回言ってるのに全然聞いてくれないし。私が珠里ちゃんのお家に遊びに行こうにも友里ちゃんのお仕事があるから、お互いに中々都合が合わないでしょ? だから本当に寂しかったわ!」
そう言って紗菜さんが私をぎゅっとハグしてくる。紗菜さんは外国の血が入っていることもありスキンシップが直球で、私が子供の頃は紗菜さんからまるで自分の娘のように可愛がられた。そのせいもあってか私も無意識に他人に意識せず触れてしまうのは、少なからず紗菜さんの影響があったからだと思う。
気軽に他人に触れるなって私を怒るけどさ、子供の頃の習慣って中々抜けないものなんだよ。外国なら全然普通なのに日本だと犯罪?とか文化の違いって難しいよホント。でも、こんなに歓迎してくれちゃうと、当初の予定だった玄関先で挨拶だけして帰ろうと思ってたのに、なんか言い出しづらいなぁ⋯⋯
「えっと、紗菜さん、ごめんね私も色々忙しくて。それに康介たちの受験もあったから邪魔になっても悪いし。でも私も紗菜さんに会えてすごく嬉しい。だって紗菜さんは私の第二のお母さんみたいな人だもん」
そう言うと紗菜さんがさらに嬉しそうに私を抱きしめる。
「ああ、嬉しい!珠里ちゃん私のことは『お母さん』、ううん、それだと友里ちゃんに悪いから、そうね『ママ』って呼んで? それにもう奏たちにもう奏たちの受験も終わったことだし、これで気軽なくうちに遊びに来てくれるでしょ? なんならショートステイでしばらく泊まってくれてもいいし、珠里ちゃんも就職が決まっていて後は卒業だけでしょ? だったら我が家で楽しくーー」
「母さん!!」
突然の紗菜さんの無茶ぶりに提案に、奏の声が飛ぶ。
「そんな無茶な冗談言って、珠里が困るだろ!今回だって母さんが会いたいって言うから無理を言って来てもらったのに」
すると紗菜さんは奏の方を向いて、わざとらしく口を窄める。
「全然名案じゃない。母さん、そんな馬鹿げた冗談を聞かせるために珠里を連れて来たんじゃないから」
奏が悪ふざけだとばかりに自分の母親を睨むので、私は慌てて二人の間に入る。
「奏、大丈夫だから。私は全然気にしてないよ? それと紗菜さん、そこまで歓迎してくれるのは、すごく嬉しいんだけど、私が有島家にステイなんかしたら、うちのお父さんが寂しがっちゃうからダメだよ。だって娘は私一人だけだもん。紗菜さんだって凛音ちゃんがうちにステイすることになっちゃったら寂しいでしょ?」
私の言葉に紗菜さんがまた口を窄めて唸る。
「うぅ〜珠里ちゃんったら、痛い所を突くわね。となると友里ちゃんはいいとしても、やっぱり落としどころは珠里ちゃんのお父さんに気に入られなきゃだめよ? くれぐれも誠実にね。あと珠里ちゃんを泣かせたりなんかしたら一発アウトよ。勿論わかってるわよね?」
そんな紗菜さんはなぜか奏にビシッと言い放つ。
う〜ん、私ってそこまで紗菜さんに気に入られてたんだなぁ。それはそれで嬉しいんだけど有島家にステイって外人留学生でもないのに、紗菜さんってばなんか突拍子もないことを言い出すし、しかも、なんでそこで奏がうちのお父さんを攻略せねばならんのだ?
「紗菜さん。紗菜さんの息子はうちの弟とは違って、とっても親切で優しい子だから誰かを泣かせるなんてあり得ないし、それにうちのお父さんも奏のことは気に入ってるから、紗菜さんがそこまで心配しなくても大丈夫だよ?」
私は紗菜さんに心配かけまいと言うと、紗菜さんは両目を瞑って首を横に振る。
「う〜ん、惜しいっ!珠里ちゃんったら、もうっ、わかってないんだから。でもそういうところも可愛いのよね。ほんと我が息子ながら不憫だわ」
「ご、ごめんなさい」
ーー惜しいって、なんかの謎解きだった? それに奏が不憫とは、私が普段からあまりにもだらしなくて、時々奏に面倒を見てもらってることがバレたのかな?
咄嗟に謝ると、奏が紗菜さんと私の間に入り込んでくる。
「珠里、ごめん。やっぱり外に行こう。家まで送るよ」
「え? 奏?」
奏に玄関の外に促され、紗菜さんが慌てて奏を引っ張る。
「ああっ、もうっ、わかったから! 久しぶりで嬉しくて、ちょっとはしゃいじゃっただけじゃない。もう余計なこと言わないから、珠里ちゃんを連れて行かないで。それに珠里ちゃんを帰すって言うなら、ママが代わりに橘家にショートステイしちゃうんだからっ!」
「ええっ!?」
「母さん!!」
私が驚きの声を上げ、奏が紗菜さんを窘めようとするも紗菜さんは頬を膨らませて、そっぽを向く。
「元はと言えば奏が悪いのよ? やっと珠里ちゃんがうちに来てくれたと思ったのに、引き離そうとするんだもの」
「母さんが変な事を言って珠里を困らせるからだろ」
奏が睨むも紗菜さんは動じずに、軽くため息を吐く。
「はぁぁ、変な事って、そんな大したこと言ってないのに。でも私の息子がこんなにヘタレだなんて思わなかったわ。せっかくイケメンに産んであげたのに、なんでこうなっちゃうのかしら。そういえば、あなたの父親、悠も同じだったわ。そういうところはパパに似たのかしらね」
「⋯⋯⋯⋯」
ああ、紗菜さ〜ん。奏が無言で怒ってますよぉ〜
「さ、紗菜さん。さすがに我が家にステイなんて冗談はーー」
私が紗菜さんに言いかけるも、紗菜さんはにっこりと笑って首を振る。
「あら、冗談じゃなくて私は本気よ? これはお仕置きだもの。私が橘家にいる間は奏が有島家の主婦をするのよ? 受験は終わったのだもの問題ないでしょ。ん〜多分凛音は一緒に行かないって言うと思うから、当然妹の面倒もよろしくね。ああ、パパが何か言っても全部奏のせいだから私は知らないわ」
そう言いながら紗菜さんは自分のエプロンを外すと、奏に突き付けている。
わぁ〜お仕置きって、主婦業のストライキかぁ〜しかもまだ肝心の私ん家の許可とってないけど、いいんだ?
「母さん、いい加減にしないと本当に怒るよ。母さんが急に押し掛けたら橘家にも迷惑をかけてしまうだろ。それで家同士の付き合いをやめるって言われたら? 珠里や康介に会えなくなってもいいの?」
「No wey!! (絶対嫌よ) 奏は意地悪だわ!ママは奏のために頑張ってたのに、もう知らないんだからっ!」
次第に機嫌が悪くなる紗菜さんと奏にどうしようと思った瞬間、背後から助け船がーーそれは勿論、康介だ。
「なーにやってんだよ。玄関先で親子喧嘩すんなら、とりあえず中でやれば? あ〜それと紗菜さん。橘家に来るのは無しな。さすがにうちはここと違って狭い家だから他人を滞在なんかさせられねーよ」
「だって、康ちゃん。奏があまりにも不甲斐ないからーー」
紗菜さんが康介に言うも、康介はやれやれとばかりに私の方に来る。
「こういうのは本人たちの問題だろ。結局なるようにしかなんねーんだから外部がとやかく言うことじゃねーよ。あ〜とりあえず、この通り姉ちゃんもマヌケ面してるし、親子喧嘩するなら俺たちは出る幕ねえから、これで帰るわ。んじゃ、お邪魔さま〜」
「ちょっと、マヌケ面ってーー」
康介の言葉に反応する私を放って、自分のスニーカーを履こうとしている康介を紗菜さんが止めにはいる。
「やだやだ!康ちゃんまで意地悪しないで!久しぶりに珠里ちゃんがうちに来てくれたのよ? 色々と楽しくお話したいの。なんだったら珠里ちゃんだけは置いていって? 康ちゃんと奏は家に居なくていいから」
「えっ? 私ひとり!?」
すると逃さないとばかりに紗菜さんが私の腕をがっしりと掴むではないか。
ーー待って待って、康介は奏の友人だからわかるけど、私が奏の家に一人だけいるって、なんか変じゃない?
「ね、珠里ちゃん。意地悪する奏たちは放っておいて、うちで女子会しましょ? ちょうどお取り寄せした美味しいお煎餅があるの。和菓子好きな珠里ちゃんも、きっと気に入ると思うわ」
それを聞いて私は先ほど寄って来た和菓子屋のお土産を持参していたのを思い出し、紗菜さんに差し出す。
「あ〜紗菜さん、私もさっき帰りに和菓子店に寄ってきて、これお土産なの。中身は桜餅なんだけど、手にぶら下げてたから、もしかしたら少し形崩れちゃったかもだけど、有島家の皆さん食べて下さい」
私が個別にしてもらった紙袋を差し出すと、紗菜さんは掴んでいた私の腕を放して笑顔で受け取ってくれた。
「まあ!珠里ちゃん、ありがとう。珠里ちゃんにはいつも頂いてばかりで逆に申し訳ないわ。でも本当にうちにわざわざ気を遣わなくていいのよ? 珠里ちゃんも言ってくれたように私は珠里ちゃんの第二のママなんだから。だからこの家も珠里ちゃんの家だと思って遠慮しないで、さあさあ、早く中に入って入って?」
「え? ええっ?ーー」
私は紗菜さんにやや強引に誘導されながら、あれよあれよという間に有島家のリビングに通されてしまっていた。
あれ〜? なんでこうなった??
背後から康介の「はぁ〜」と短いため息が聞こえてきた。
✻✻✻✻
リビングに通された私は改めて自分の家の内装との違いに呆けてしまう。有島家はまるでモデルハウスの写真のようなお洒落で高級感のあるインテリアに天井も高い。確実に橘家の2倍はある広さだ。
ーー昔からすご家だとは思っていたけれど、久しぶりに来ても、やっぱりすごいなぁ。正直家の格差レベルを実感しちゃう。康介のやつ、平気で有島家に入り浸っているみたいだけど、私はこんな広いお宅は気後れして落ち着かないよ〜。早く帰りたいけど、紗菜さんがこんなに嬉しそうに歓迎してくれているから、帰るに帰れない!!
「ほら、珠里ちゃん、ここに座って? 飲み物は何がいい? 麦茶、紅茶、コーヒー、ジュースがあるけれど」
「あ、じゃあ麦茶でいいです」
「紗菜さん、俺はコーヒーね」
私はなるべく手間のかからない麦茶を選択したのに、康介は遠慮なくオーダーする。ここは喫茶店じゃないんだぞと、康介を睨むも、やつは全然こっちを見ずに側にあった雑誌を見始めた。紗菜さんはふふっと笑いながら「Ok」と対面式キッチンへと向かう。
私はきょろきょろと見渡すと、そういえば奏の妹の凛音ちゃんの姿が見えないことに気付く。
「紗菜さん。あの、凛音ちゃんは?」
私はやや遠慮がちに聞くと、紗菜さんは飲み物を準備しながら答えた。
「凛音なら、今日はスイミングスクールに行っているの。あの子ったら、学校のプール授業で泳げないのを気にして、夏までに泳げるようにするって最近通い始めたのよ。ちなみに珠里ちゃんは泳げるの?」
紗菜さんの問いかけに私は首を軽く横に振る。
「ううん、私も泳げないよ。どういうわけか泳ごうとすると、なぜか水中に沈んで溺れちゃうんだよね。普通は浮くらしいけど、私の場合、泳ごうとすると沈んじゃうから、もぉ〜泳ぐことは諦めた。別に泳げなくても日常生活困んないから、もういいやって」
「姉ちゃんは運動全般が壊滅的音痴だもんな。父さんと母さんは元スポーツ選手なのに誰に似たんだか」
康介が茶々を入れてくるので、ギロリと睨んだが、こっちを見やしない。このヤロー!! 自分は泳げるからって、ひとを馬鹿にして!!
「うるさいな!! 人には苦手なことが一つや二つあって当然でしょ! だいたいねぇ両親が運動神経抜群だからって、子供までそうなるとは限らないじゃん。それにお父さんはそれも珠里の個性だからって言ってくれたんだから!」
「へーへ、そうかよ。父さんは姉ちゃんを甘やかしすぎだっつーの。だから苦手を克服できねーんだよ」
くっそー、減らず口ばっかり。ここが人様の家でなかったら、殴ってやるのに!!
私が怒りの拳を握っていると、奏が私側のセコンドに立つ。
「珠里、康介のことは気にしないで。珠里のお父さんの言う通り、出来る出来ないは個性だと俺も思うよ。世の中泳げない人なんて沢山いるし、それにもし珠里が溺れるようなことがあったら、俺が助けるから大丈夫。だからもし水場に行くようなことがあれば、俺も一緒に連れていって?」
「奏ぇぇ〜なんていい子なの!康介なんかとは全然違うぅ〜」
私は奏に感動の視線を送ると、奏は紗菜さんによく似た面差しで笑って「俺はいつでも珠里の味方だから」と言ってくれた。
おい!聞いたか、薄情な弟よ!お父さんも私の味方だから、私側のセコンド陣は頼もしいばかりだ。まあ、うちのお母さんは康介側に立つんだろうけどさ。
そして、紗菜さんも私側らしく、康介を窘めてくれる。
「もうっ、康ちゃん、ダメじゃない。自分のお姉ちゃんをいじめたらメッですからね? それに珠里ちゃんが出来ないことは奏がやるからいいのよ。だから珠里ちゃんはそのままの珠里ちゃんでいてね? 奏をいくらでも、こき使ってやっていいから」
えっ? もしかしてすでに奏をこき使っているのがバレた? 私の部屋の掃除とかさせちゃったし、それに髪のセットもしてもらったし⋯⋯やば、どうしよう。
「えーっと、いや、その⋯⋯奏、なんかごめん。色々やらせちゃって⋯⋯」
私が気まずそうに奏に謝るも、奏の方は首を横に振る。
「大丈夫だよ。俺がやりたくてやってるだけだから、珠里が謝ることなんて何もないよ。だからこれからも俺を使ってほしい」
奏は私に向けて最上級の王子様スマイルを放って言った。うぅ、だから私のような庶民の凡人女に向ける笑顔じゃないってば。そういうのはヒロインにだけ向けなさい。奏本人は無意識なんだろうけど、目のやり場に困るんだよ、もうっ。
私はソファーから立ち上がると、康介にビシッと指差しして叫ぶ。
「康介っ!! あんた少しは奏を見習ったらどう? あんたも奏くらい姉に対する献身さを持ちなさいよ!特にあんたは私の実の弟なのに口を開けば減らず口ばっかりなんだから!」
「あぁ? うっせーよ。なんで俺が変態姉貴なんかに献身しなきゃなんねぇんだ。そんなの奏だけで十分間に合ってんだろ? だったらこれ以上欲張るんじゃねーよ。浮気もんは嫌われるぞ?」
「は? 浮気もんって、なにわけわかんないことを言ってんの。それに私は『春人くん』一筋だもん」
その時、飲み物をお盆にのせてこちらに来た紗菜さんが驚愕した様子で、持っていたお盆をテーブルに落しそうな勢いでガッシャンと音を立てて置くと、私に詰め寄ってきた。
「珠里ちゃんっ!? 今の話はどういうこと!? は、はるとくんって!? し、しかも一筋って⋯⋯嘘でしょう⋯⋯うちの奏が負けた?」
紗菜さんの勢いがすごすぎて、一瞬思考停止してしまったが『春人くん』が、なぜそこで奏が出てくる?
「さ、紗菜さん? いったいなんの話でーー」
私が戸惑いながら話している途中で、紗菜さんが私の両肩をがっしりと掴みながら、薄い緑色の瞳を大きく見開いて顔を近付けてくる。
ひえぇぇ〜近い、近いからっ!あ、でも、こうしてみると、目の色もそうだけど、やっぱり奏は紗菜さん似なんだなぁーー性格は違うけど。
「珠里ちゃん!正直に言ってちょうだい! その『はるとくん』とは、いったいいつからなの!?」
「い、いつからって? え、えーっと、一年前くらいから?」
確か、ゲームが発売されたのが一年前くらいだったから、ハマったのはそれからだったっけ。
すると紗菜さんは愕然と、その場に崩れ落ちた。私は慌てて紗菜さんに近寄る。
「紗菜さんっ!? 大丈夫!?」
「全然大丈夫じゃないわ。ああ〜⋯⋯なんてことなの。奏の受験で忙しい時期に、そんな伏兵がいただなんて!珠里ちゃんのことだから安心していたのに、まさかそんなことに。うぅ〜私の夢だった楽しい将来の計画が水の泡だわ⋯⋯ううっ」
突然何かに絶望するのかのように半泣きになる紗菜さんに、私は何がなんだかわからずに狼狽えていると、背後から困った時の救世主であるかの如く康介の声がかかる。
「あのさぁ〜紗菜さん、大いに勘違いしてっけど、姉ちゃんの言う『春人』はゲームのキャラクターだぞ? 姉ちゃんが今ハマってる乙女ゲームのやつな。そもそも、こいつはゲームの男にしか興味がねー変態オタク女なんだ。心配するだけ無駄だってもんだ」
「それ、本当!?」
康介の言葉を聞いて、紗菜さんがバッと私の方を向いたので、私はコクコクと頷くと、紗菜さんはホッと安心した表情を浮かべ胸を撫で下ろす。
紗菜さんの一喜一憂に言葉を失ったがーー康介のやつ、変態オタク女とか一言多いんだよっ。
「よかったぁ〜それじゃあ、まだ私の『計画』は有効なのね。急に男の子の名前が出てくるから焦っちゃったわ。康ちゃんもそういうことは早言ってちょうだい。意地悪ねっ」
そんな紗菜さんの様子に奏が口を挟む。
「母さん、康介はなにも悪くないだろ。元はといえば母さんの早とちりのせいなんだし、ひとの話をきちんと聞かないで暴走するのは母さんの悪い癖だ。そのせいで周りに迷惑をかけるってこと、わかってる?」
「ううっ、ひどいわ!私はみんなの幸せのためを思って頑張ってたのにーー珠里ちゃ〜ん、奏がいじめるぅ〜」
言うなり紗菜さんが抱きついてきた。
あれ? 奏って自分のお母さんに対して、いつもこんな感じなの? もっとこう、優しいイメージがあったんだけど。
「いじめてないだろ。それに、そうやって珠里を巻き込むのは駄目だって」
「そういや、姉ちゃんもよく人の話を聞かずに暴走するよな〜んで、周りに迷惑かけるとか。俺、奏の気持ちがわかるわ〜」
と、康介が奏の言葉に便乗するので、私も負けじと反論する。
「うるさい!ちょっと勘違いしちゃったくらいなんだっていうの? 私は紗菜さんの気持ちがよくわかるよ。こっちは良かれと思って一生懸命頑張ってるのに、迷惑だなんてひどい!紗菜さん、私は紗菜さんのこと迷惑だなんて少しも思ってないから。息子が何を言おうと私は紗菜さんの味方だからね」
「珠里ちゃんっ!なんて頼もしいの」
紗菜さんは感動したように私の手をぎゅっと握る。
「待って珠里!俺は母さんに注意しただけでーー」
奏が慌てて私に弁解しようとするが、私はそっぽを向いたまま、
「私たちに意地悪な男たちは放っておいて、紗菜さんあっち行こう。もし、お夕飯の準備がまだなら、私お手伝いするしーー」
と、言うと、紗菜さんも
「ええ、そうね。私たちは二人で楽しく過ごしましょ。今日のお夕飯はすき焼きと肉じゃがを作ろうと思ってたから、珠里ちゃんにもお手伝いをお願いしようかしら?」
「わっ、肉じゃが!? 私大好き!」
「ふふ、だと思った。珠里ちゃん和食派だものね」
私たちは楽しそうにキッチンに入ると、対面では「違うんだ!聞いてよ珠里!!」と奏が慌てているし、珍しく康介も必死に「紗菜さん!! そいつに手伝わせたらダメだ!! 姉ちゃんは壊滅的な料理音痴なんだぞ!」と、わあわあ何か言っている。
ーー外野がうるさいな。料理上手の紗菜さんがいるのに何を心配してるんだか。正直こんな滅多にない機会、作り方を是非とも教わりたい。だって、うちのお母さんに教えてもらうと色々口出しされてうるさいし、しまいには怒り出すから嫌なんだもん。それに比べれは紗菜さんは、きっと優しく教えてくれるに違いない。
「私、珠里ちゃんとこうして一緒にキッチンに立つのが夢だったのよ。すごく嬉しいわ」
紗菜さんは目の前で騒いでいる男たちはいないものとして、私に笑いながらエプロンを貸してくれる。
私は一応紗菜さんにお伺いを立てておく。
「紗菜さん、あの、私料理はその、ちょっとだけ苦手で⋯大丈夫かな?」
私の言葉にいち早く反応したのは康介だ。
「大丈夫じゃねーだろ!! しかも、ちょっとだけだぁ? 嘘つくな!! 紗菜さんだって、うちの母さんから聞いてんだろ! 姉ちゃんの料理はくそ不味いんだよ!!」
すると奏が康介の頭をバシッと叩いた。
「おい、奏、なにすんだよ!」
「珠里のこと悪くいうな」
「お前なぁ〜姉ちゃんの料理を食ったことねーから、わかんねぇんだよ。やべぇんだってホントに。
そんな康介に紗菜さんがにっこりと笑う。
「大丈夫よ。私がついているから康ちゃんは黙っていてちょうだい。それに珠里ちゃんとキッチンに立つのは私の夢なの。邪魔をするなら奏とどっかに行っていて」
「あ〜どうなっても知らねーぞ。奏、ここにいたら俺ら邪魔だってよ。庭で練習でもしようぜ」
康介に声を掛けられた奏は「わかった」と返事をしてから、私の方を向いて「珠里、頑張って。そのエプロンすごく可愛い。似合ってる」と、なぜか応援と褒め言葉を頂いた。
「え? あ、ありがとう?」
首を傾げつつ礼を言うと、奏はふんわりと笑って片手を振り、康介の後について行った。
「このエプロンは確かに可愛いけど、私のじゃないから、わざわざ言う必要ないのに。それにこれは紗菜さんのエプロンだし似合うわけないのにな」
私は紗菜さんから借りたエプロンを見ながら呟くと、隣で紗菜さんが吹き出すように笑う。
「ぷははは、珠里ちゃんが面白〜い。本当に期待を裏切らない反応だわ。確かに奏の言い方も悪いけど、珠里ちゃん、奏はエプロンを可愛いって言ったんじゃなくて、エプロンを着けた珠里ちゃんを可愛いって褒めたのよ」
「え?ええっ!私?? なんで? こんな可愛いエプロン、私には全然似合うわけないのに」
私は驚きながらエプロンと紗菜さんを交互に見る。自分でも自覚はしているが、自分はウドの大木とも言える無駄に背が高いだけで運動音痴の棒人間だ。しかも外見からしてやぼったいし、例えるなら、締め切り前の漫画家のような風体なのに、紗菜さんのようなふんわりとした可愛い感じの人に似合うフェミニンなエプロンが、どう考えても似合うわけがない。
そんな私の肩を紗菜さんがぽんぽんと叩く。
「んもう!何言ってるの。珠里ちゃんは本当に可愛いんだってば。奏の言う通りそのエプロンもすごく似合ってる。そもそも珠里ちゃんはスタイルがいいから何を着ても似合うんだけどね」
私はそれを聞いて首がブリキのロボットのようにギギギと横に動く。
は? 私、ただの棒人間だよ? 胸なんてぺったんこだし、お尻だって全然桃尻じゃないし、ボッキュッボンにはほど遠い体型なのに、スタイルがいいとかあり得ない。
「いやいやいや、紗菜さん。私自分のことは自分がよくわかってるから、そんな気を遣わなくってもいいよ。私にとってボッキュッボンは永遠の夢だって、ちゃんとわかってる。それに背が高いだけじゃスタイルがいいなんて言えないんだよ。やっぱり出るとこ出て引っ込んでなきゃ」
私は悲しいかな、自分のぺったんこの胸をペタペタと触りながら言うと、紗菜さんがもう我慢出来ないというように再び笑い出した。
「あははは、もうダメ。可笑しすぎて笑っちゃう。珠里ちゃんの中ではその『ボッキュッボン』がスタイルの基準なのね」
「もぅ、そんなに笑わないでくださいよ〜やっぱり『◯フジコ』体型が日本人の女性にとって一番理想的な体型でしょう?」
そう日本人なら誰でも知っている某アニメのヒロインで、確かスリーサイズが上から99.9、55.5、88.8ーーだったはず。そんなスタイルなら、どんな男もノックアウトだわ。
「あはは、そうね。でも珠里ちゃん。パリコレとかに出ているファッションモデルも背が高くて胸とか全然無くても、スタイルがいいって言われてるじゃない? どっちかといえば、珠里ちゃんはそっちのタイプなのよ」
「それはどうだろう。私は『ひょうたん型』がいい。どう見ても今の私って『マッチ棒』にしか見えないでしょ?」
「ぷはははは、ひょうたん型って、どこから出てきたの? あははは、やめて、珠里ちゃん想像しちゃうじゃない。しかもマッチ棒って、あははは、珠里ちゃんでば、可愛い!可愛すぎ!ほんと面白い!!」
紗菜さんが大笑いをするので、私は少し拗ねる。
「もう!そんなに笑わないでよぉ〜私本気で悩んでるのにぃ。胸が小さいって結構深刻なんだよ。紗菜さんは胸があるからわからないんだよ」
すると紗菜さんは自分の胸を持ち上げて意味深に微笑む。
「あら、私も珠里ちゃんくらい若い頃は胸が小さくて、大きい人が羨ましかったものよ。でもね、珠里ちゃん。悲観するのはまだ早いわ。女性の胸はね、子供が出来れば大きくなるのよ。だから珠里ちゃんもいずれ結婚して子供が出来れば、珠里ちゃんの悩みはすぐに解消するはずよ」
確かに世間的にはよく言われているけれど⋯⋯
「う〜ん。結婚かぁ⋯⋯私には無理っぽいな。そもそも相手がいるとも思えない。だって、私、家事とかすっごい苦手だし、自分の時間を束縛されるのも嫌だし、子供だって育てられるかどうかも怪しいし、だったら私はずっと独身でいる方が性に合ってるのかも」
ーーだって、現実の男には全く興味無いし、だからといって、お見合いとかも嫌だし、とはいえ、ゲームの推しキャラにしか恋心が生まれないんじゃ、独身道しか選択肢が無いでしょ。
それを聞いて紗菜さんは私の両肩をがっしりと掴んで顔を近付けてくる。
ーーうっひゃぁ、だから、紗菜さん顔近い!近いってば!!
「珠里ちゃん!今から諦めないで!! 大丈夫、そんな珠里ちゃんをまるごと受け入れてくれるひとが(奏が)必ずいるから。家事も得意で(奏が)、束縛するどころか従順で(奏が)子育ても出来る(奏が)愛妻家の男性がきっと現れるわ!だから珠里ちゃんが何も出来なくても心配することなんてないのよ」
「今時そんな男いますかね?」
いや、私にとっては夢みたいに理想的だけど、実際は現実的じゃないでしょ、それ。
しかし紗菜さんはやけに肯定的だ。
「いるいる!だって世の中には色んな男性が山ほどいるのよ? きっと珠里ちゃんの条件に合ったぴったりなひとが一人くらい(奏が)いるわよ。だから周囲に目を凝らしてよく見てみたら、意外ともう近くにいるかも?」
「う〜ん。そう言われてもなぁ。今のところ『春人くん』ほど魅力的な人なんていないし、そもそも二次元世界が私の全てだからリアルは絶対無理!」
私がきっぱりと断言すると、紗菜さんががっくりと肩を落とす。きっと紗菜さんは私を心配して言ってくれたんだろうけど、こればっかりはどうしょうもない。
「うう〜ぅ、勿体ない。それもこれも現実の男の子たちが不甲斐ないからなのよね。女の子の気持ち一つ動かせないなんて、世の中の男たちはどうなっているのかしら? ほんと情けないわ!」
なぜかぷんぷんと怒っている紗菜さん。いやいや、世の中の男たちは何も悪くないと思うよ? 私に当てはまってないってだけなのに、紗菜さんに変な偏見持たせちゃって、世の中の男たち、なんかごめん⋯⋯
それから私はキッチンで紗菜さんと一緒に野菜の皮むきをしようと、ジャガイモを手に取る。実のところ、包丁で細かい作業をするのは苦手だった。いい歳して包丁が使えないなんて言い出せず、ゆっくり皮をむけば大丈夫だろうと、いざ皮むきをするも⋯⋯紗菜さんに「珠里ちゃんはこっちね」と皮むき専用の安全な道具を渡された。
⋯⋯だよね。だってジャガイモ一個むくのに10分以上かかってちゃ、いつまでたっても終わらない。だってさ、昔包丁で自分の手を切っちゃったことがあったから、それ以来使うのが怖いんだもん。
それで以前、ジャガイモやニンジンの皮を剥かずに、ぶつ切りにして入れたシチューを作ったら、お母さんと康介に怒られた。お父さんだけが美味しいと食べてくれたっけ。確かにあれはスープにもジャガイモの皮のえぐみが残って、すごく不味かった。それなのに、あんな不味いものを食べてくれたお父さん、。うぅ〜優しくって泣ける!
「それはそうと、珠里ちゃんの着ているそれって、奏のよね? それにどうして今日は制服なの? 学校の行事か何か?」
紗菜さんに言われて、そういえばまだ奏から借りた上着を着ていたことを思い出す。私はエプロンを外して奏の上着を脱ぐと、野菜の皮をむきながら、かくかくしかじかと紗菜さんに事の経緯をかいつまんで話す。
「ーーそんな事があったのね。でも珠里ちゃんはその男の子のこと全く覚えてないんでしょ?」
「うん。でも私その子にすごく酷い事したみたいで、それがトラウマになっちゃってるみたいで、でも何をしたのか、全く思い出せなくて、だから今日聞こうと思ってたのに、色々あって聞けずじまいになっちゃった。ーーねぇ、紗菜さん。こういう場合って、どうしたらいいかな?」
私は人参の皮を剥きながら紗菜さんに相談すると、紗菜さんはお味噌汁を作りながらも話を聞いてくれる。
「そうねぇ、やっぱり本人に直接聞かないとわからないわよね。珠里ちゃんの話を聞く限り、その男の子は悪い子じゃないと思うから、珠里ちゃんが思い出してきちんと謝罪すれば許してもらえると思うわ。でも、珠里ちゃんに限ってそんな酷い事するなんて思えないから、その男の子も勘違いしているかもしれないしーー」
「いやいや、紗菜さん。私は康介も認める『ザ・無神経』らしいので、きっと私が全面的に悪いんだよ。こうなったら土下座でもなんでも許してもらうつもり!幸い連絡先はわかってるし、同じ学校だし、彼の制服もクリーニングに出してるから、直接本人と会って話す機会はあるから」
「もう、珠里ちゃんったら土下座なんて今時大人だってしないわよ。でも心配だから、その男の子と会う時は絶対奏と康ちゃんも一緒に居た方がいいわ。しかも奏たちと同じ一年生なんでしょう? クラスは違うようだけどなるべく接点がある者同士がいた方がいいと思うの。なんだったら奏にその男の子と話をさせる?」
「いやいや、ダメだから。私の問題に奏を巻き込むわけにはいかんでしょ。奏は全く関係ないのに、迷惑かけるわけにはいかないよ」
「そんなことないわ。奏は珠里ちゃんのためなら喜んでなんでもするわよ。あの子、小さい時から珠里ちゃんを慕っているもの」
「あ〜康介に今の言葉を聞かせてあげたいわ。奏は姉思いの良い子に育ってくれたっていうのに、小さい頃あれだけ面倒を見てあげた実の弟は、今や姉を姉だと思っていない酷い扱い方でしょ。あ〜あ、奏が私の本当の弟だったらよかったのにな〜」
「いやいや、珠里ちゃん!奏は弟とかじゃーー」
「あああっ!!」
私は紗菜さんとの話に没頭していて、自分の失態に今、気が付いた。
「紗菜さぁ〜ん⋯⋯やっちゃった」
私は自分が剥いていた人参がごぼうの細さになっていたのを見せた。そして捨てるはずの皮の量の方が多くなっていた。⋯⋯今日の献立は肉じゃがであって、きんぴら作るんじゃないのに。
それを見た紗菜さんは「だ、大丈夫、形は違っても食べられるから⋯⋯ぷっ、ぷぷっーー」と言いつつ、笑いを堪えているようだったが、私の情けない顔を見るなり大笑いしてしまった。
「う〜ごめんなさいぃぃ」
自分の家の夕食じゃないのに食材を無駄にしてしまい、申し訳なくて謝ると紗菜さんは私の背中をポンポンと叩きながらも笑いが収まらないらしい。
「ぷはははは、珠里ちゃんったら、もう、ヤダぁ。聞いてはいたけど、ほんと可愛い。しかもそんな顔されたら⋯あははは、もう、我慢出来ない。あははははっーー」
「紗菜さぁ~ん。そんなに笑わなくても〜」
どうやら私の失態が紗菜さんの笑いのツボに入ったらしい。軽くショックを受けつつも、私は心の中で誓う。ーーもう、人様のキッチンには立たない。と⋯⋯
【続】




