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【エッセイ】集

関西の文化-『ボケ』と『ツッコミ』-に関する考察

作者: 蠍座の黒猫

15.3.21 推敲(冒頭部分。微細。)

 わたしは関西(奈良県)で生まれ育ちました。現在も住んでいます。家族もそうですから、どうやら『ボケ』と『ツッコミ』の文化は、みんなの身体に沁みついているようです。

 今朝も、幼い息子が妻にとことこと近づいていき、おもむろに妻の美味しそうな太腿を子ども用の先の丸いフォークで突っついたときに、妻は『なんでやねん!』を発していました。 

 これに限らず、どこかおかしみのある思いがけないことに遭遇した時に、わたしを含む関西人は、『ツッコミ』である『なんでやねん!』を発するようです。また、それが身近であればあるほどに、好い『ツッコミ』が出来るように思います。

 良い『ツッコミ』とは、衝撃的な程に効果的な切れ味を持つ『ツッコミ』のことです。もちろん、好い『ボケ』あっての好い『ツッコミ』ですから、『ボケ』のことは重要なのですが、わたしが思うに、まず『ツッコミ』ありきなのです。

 

 われわれは、日常に起こる、おかしみがありながら、まだ名前の無い不条理な体験に触れた時のもやもやを、『なんでやねん!』と発することで一気に解消するのです。

 ちなみに、漫才などで見る『ツッコミ』のジェスチャー(相方の身体を触る)は、商業的な効果であって、日常では作為的でないと見ることはありません。


 作為的といえば、『ボケ』は必ずしも作為で発生するわけではありません。それは『ツッコむ』に値する体験であって、しかもそれは必ずしも共有である必要すらないのです。

 例えば、道を歩いていて、後ろから来た自転車を道のわきに寄って避けたときに、結構深めの水溜りを踏んでびしゃっと靴が濡れたとします。「うわっ」と言って片足立ちになり、よろけてそばにあった木にどしんとぶつかると、なぜか上から長すぎず短すぎず太すぎず細すぎず、ちょうどおかしみを覚える程度の痛みを加える程の枯れ枝が、頭の上にごんっと落ちてきたときなどに、『なんでやねん!』と、反射的に発するのです。

 

 その後に

「ホンマに……冷たいし、痛いし、『至れり尽くせり(*)』やわ!」

(*)吉本新喜劇での昔のネタです。

このような解説があるかも知れませんが、それは人それぞれです。


 もちろん、作為的に『ボケ』ることもあります。それは行為で示すよりも会話の中で『ボケ』ることがほとんどだと思います。行為で『ボケ』ることは、少々品がないので、余程のことがない限りやりません。宴会などでの強制的な場があれば別ですが。


 そもそも『ボケ』とは、『ツッコ』まれることを前提として行いますが、それよりもわたしたちは、もはや『ツッコ』みようのない『ボケ』を高度な『ボケ』、つまり不条理ユーモアを含んだ会話として喜ぶことのほうが多ように思います。


 会話の中での『ボケ』の例を上げるのは、困難です。なぜなら、それは会話の流れの中で生まれてくるものであり、それだけでなく相手との関係性や、過去の出来事、時には共通の知り合いなどとの関係性も関わって来る複雑な伏線が張り巡らされた『笑い』だからです。


 もし、そうでなく切り取られた共有できる『笑い』だけを提示するならば、いわゆる『ジョーク』になりがちです。それを回避して、上手に作り上げられているのが『落語』です。

 とはいっても、わたしなど勉強不足すぎてそのことを語る資格もありませんが、少しだけ書かせて頂きますと、昨日、亡くなられた桂米朝さんの噺を何度かテレビで聞いたことがありました。柔らかな口調と独特の雰囲気が印象的でした。大変な功績を残された方でした。この場を借りてお悔やみを申し上げます。


 話を戻しますと、『落語』には、『ボケ』と『ツッコミ』のエッセンスが凝縮しています。現在の関西の笑いの元を辿れば、『漫才』を遡り『落語』に行きつくのでしょう。『コント』にも多々面白いものはありますけれど、ただ声を張り上げるだけの勢い任せのものは喧しいだけです。


 結局、『ツッコミ』も、『ボケ』も、その習得の順序は違いますが、どちらも後天的な会話の技術なのです。

 子どもたちは、『ツッコミ』をまず覚えて行きます。これは基本スキルですから、関西人ならみんな持っています。習得は必須です。

 そして、拙いなりにもそれが出来るようになれば、次は『ボケ』に挑みます。ここで、どうやら向き不向きが出てきます。

 意識しない自然な『ボケ』を発する者を『天然』といいますが、わたしが思うにこれは元々『天然記念物』の略ではないでしょうか。それほどに、わたしたちは『ボケ』を貴重なものと扱うのです。


 ですから、作為でありながらも作為的に見せず『ボケ』を出来る者は、ある種の尊敬の眼差しを集めます。その者の発する『ボケ』には、『笑い』が生まれます。

 しかし、その『ボケ』はそのままでも面白いのですが、適切なタイミングと強さで『ツッコミ』を入れることによって、より一層可笑しみは増幅され、一瞬の笑いの爆発が起こることもあります。

 その爆発を起こした二人は、その場では勇者であり賢者です。一瞬彼らに最大限の賞賛という報酬が与えられるのです。

 

 こうして『笑い』の文化である、『ボケ』と『ツッコミ』は成り立っているのですが、それをわたしを含め関西の人たちは日常で意識することはあまりありません。わたしの場合、あるとすれば我が家で『教育番組』と呼ぶ、『吉本新喜劇』を子どもたちと観ている時ぐらいでしょうか。

 結局、現在『笑い』の文化はとにかく元気なようです。文化とは伝えられて生きるものですから、子どもたちには出来るだけ健全な笑いを伝えてやりたいと思っていますけれど、冒頭の通り一番下の我が子でさえ順調に育っているようですから、そんな心配はいらないのかも知れません。

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― 新着の感想 ―
[一言] まずツッコミから覚えていくなんて、思いもよりませんでした。言われてみると、確かにボケのほうが難易度が高いんですよね。作為的ではなく天然ものとなると、生まれた時から才能が決まっているような気が…
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