第二章 筒の話 ③
二人が心を落ち着かせることが出来たのは、それからしばらく経ってからのことだった。『クォランスィネ』はいつにない大騒ぎとなってしまったが、こんな時でも誰かが姿を見せることはなかった。リズもスィーも、真っ赤な顔でうろたえまくった姿を見られたくはなかったので、不幸中の幸いだったと言えないこともない。
しかし息を整えた後であっても、カウンターで向き合っていると、ついさっきの映像が頭に浮かんで顔が赤らんでしまう。二人揃って縁のない世界のものなだけに、なおのこと衝撃もひとしおなのである。
二人が見た映像。それは──いわゆる肌色の世界。人によっては桃色と形容するかもしれない。つまりはその類のものであり、心構えもなく突然そんなものを視界いっぱいに見せ付けられた二人は、あまりの刺激的な映像に平静さを保つことが出来ず、先ほどの大騒ぎを引き起こしたのであった。
「そ、それにしてもさ」
あはは、と照れ笑いしながら、リズが筒を手に取った。無論、もう一度中を覗きこむことはしなかったが。
「これ、本当に覗き道具みたいになっちゃったね。アルマンドさんにはそんなつもり無かったんだろうけど」
「も、もちろんです。マスターはそんな方ではありません。そもそも私に使わせようとしていたものなんですし」
「……スィーに『そっち』の学習もしてもらうつもりだったとかは──」
ぶんぶんぶん、とスィーは激しく首を振った。再び顔をトマトみたいに真っ赤にしての、必死の否定である。
「そ、それに、少し違和感があるんです。この筒から見える風景は、基本的に二階建ての家の屋根くらいの高さから通りを俯瞰するような視点に限られていたんですよ。後からその位置に建物が建てられたという可能性はありますけれど、だからといってあんな……あんなにはっきりと室内に焦点が合うなんてちょっと変です」
「うーん。だとすると、どういうことなのかな」
「わかりません……」
「……スィー、さっき見たのがどこの建物の中だかわかる?」
ぶんぶんぶん。
「だよね、あたしもびっくりしてそれどころじゃなかったし。やっぱりもう一回見てみるしかないのかなぁ」
「だ、だめです! リズにはあんなのまだ早いです!」
スィーは、筒をじっと見つめていたリズからそれを慌てて奪い取った。リズも言ってみただけで再び見る勇気はなかったのだが、
「リズに見させるくらいなら、わ、私が……!」
筒を抱え込んでそう決意を語るスィーだが、涙目の彼女に無理強いさせる気にはならない。セインが訪れた時に見てもらおうかとも考えたリズだったが、一国の王子たる彼がそう都合よくやってくるとは限らなかった。それに、先ほどの光景は午後六時以降にならないと映らないのだ。セインはあれで夜は政務に縛られているらしく、もっぱら明るいうちしかやってこないから、どのみち時間帯が合わないことになる。
「でも、気になるよね」
「は、はい。このままではマスターが覗き道具を作ったみたいで、なんだか心外ですし」
スィーは見るからに悲壮な表情になっていた。震える手で筒を持ち上げ、顔を近づけていく。このままでは自分のマスターの名誉が汚されているようで我慢出来ないのだろう。なんだか可哀想になってきたリズは、「よし」と小さな体に決意をみなぎらせると、彼女の手から筒を奪い返し、制止される前に急いで中を覗きこんだ。
「あああ!」
魂消るようなスィーの叫び。でも、健気な彼女に無理はさせたくなかった。だいじょうぶ、あたしだって心の準備が出来ていればこのくらい──。リズは持ち前の向こう見ずさを発揮してまばたきをする。すぐに焦点があい、再び肌色の世界が少女の瞳に飛び込んで──
飛び込んで、こなかった。
「……あれ?」
「え、ど、どうしました?」
「うん……なんか、もう終わっちゃってるみたい」
「終わっている? なにがですか?」
「だから──」
何気ない問いに、何気なく答えそうになってリズは一気に赤面した。スィーも遅れてそのことに気付き、あああああと狼狽する。
咄嗟に手近なコップの水を飲んで心を落ち着かせたリズは、その場で回転し始めたスィーの体を捕まえて肩を叩いてやる。なんだかさっきから同じ事を繰り返しているようで情けない気持ちになった。
「ス、スィー、だいじょうぶだから。もう筒を見ても平気だよ。ベッドの上に誰もいないから」
「ほ、本当ですか……?」
「うん」
リズは安心させるように笑顔で頷く。
先刻、筒を通して見た映像の中で繰り広げられていた見知らぬ男女の営みは、なんらかの形で終息していたようだった。たった今リズが確認したのは、誰もいないベッドと乱れたシーツの跡だけ。それとて『行為』のあとを窺わせるようでどきどきしてしまうが、逃げ出したくなるほど刺激的なわけでもない。
「あ……リズの言うとおりです。誰もいませんね」
恐る恐る筒を目にあてたスィーが、そう言ってほっと息を吐いた。
どうやら、ようやく先の段階へ進むことが出来そうな按配のようだ。
「でしょ。それでさ、スィーはそこがどこだかわかる?」
「ええと……ちょっと待ってください。よく見ると端に窓枠が映っているようなんです。この街、窓も変わったものばかりだから、ひょっとしたら特定できるかもしれません」
「ふうん。それはあたしには無理だからなあ」
リズは頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。それから上を向いたまま「あ」と呟く。
落ち着いて考えてみたら、もう一度筒を使わなくても、鏡の反射する先を順番に辿っていけば良かったんじゃないかと思い至ったからだ。
けれど、どれだけの鏡を経由しているのかわからないし、相当の時間が必要となる可能性は高い。まあ結果オーライかなと気軽に考え直した少女の傍らで、今度はスィーが「あ」と声を発した。
「どしたの? 場所わかった?」
「は、はい。と言いますか、よく見ればこれは誰でもわかるかもしれません……」
「どゆこと?」
スィーは筒から顔を離し、リズに困り果てた顔を向けた。
「ええと……おそらく、今この筒で見えている映像は──この国のお城の中のものみたいなんです」
◇
次から次へと怪しい話が続くようだった。
筒を通して、『クォランスィネ』から王城の中の様子を見ることが出来る。
これは、出歯亀疑惑が完全に解決する前に、新たな要素としてスパイ容疑が生まれてしまったことを意味するのだ。
「も、もちろん違いますよ?」
スィーはいっそう必死だ。無理もない話だとリズも思う。疑惑が軽犯罪から重犯罪に移行したようなものなのだから。
スィーは突如身を翻すと、裏の倉庫へばたばたと走って姿を消した。そしてリズがあっけに取られているうちに、一枚の紙を手に埃まみれになった姿で戻ってくる。例によってリズが服をはたいて埃を落としてあげていると、泣きそうな顔でその紙をカウンターに広げて「ほらほら」と指し示した。
それは、ゼフィールの地図だった。かなり古びているが、道の流れなどのおおよその部分は今と変わりない。スィーはその上に幾つも書き込まれている丸印を指差していた。
「これが、あの筒を介して見ることの出来る場所を示しているんです。ほら、お城には丸なんてついてないでしょう? 私だって、少ないなりに一通りは見たはずですけどあんな場所を見た記憶ないですし」
「う、うんうん、わかったよ、あたしは初めから疑ったりしてないからさ」
いつにないスィーの勢いに気圧されて、リズは両手を掲げてこくこく頷いた。それでやっと安心したのか、スィーも「よかったです」と息をつく。
「でも、アルマンドさんの仕業じゃないとして、それじゃこれはどういうことなのかな?」
「わかりません……」
「たしかスィーは、途中の鏡には取り外されてしまったものもあるって言ってたと思うけど、それでルートが変わってあんな場所が見えるようになった、ってことはない?」
「うーん……マスターの構築した仕組みは、調光・集光・偏光の加減や映像の拡大率など、とても精緻な計算で成り立っていたものですから、偶然そういうことが起こる可能性はすごく低いように思えます」
「とすると……どうしよ?」
「実際にちょっと見に行ってみましょうか」
「なにを?」
「『最後』の鏡を、です。順路通りに一つ一つ追いかけていくのは大変ですけど、一番最後の、お城のあの部屋を向いている鏡であれば、すぐ調べられると思うんです」
◇
それから二人は、筒に映し出される風景をよく確認し、『最後』の鏡が置かれている方向に当たりを付けた。鏡一つ一つの場所はスィーも把握していないため、店の売り物であった最新の地図を持ち出して城から一本の直線を引いてみる。鏡がこの線上にあることはほぼ間違いなかった。光の屈折などを利用している場合はその限りではないが、きりがなくなるのでその可能性は一旦脇へ置く。
「では参りましょう」
むん、と腕まくりでもしそうな勢いでスィーが店から出ていく。普段は外に出たがらない彼女が、今晩だけは例外だ。そういえば、わたわたしている内に外はすっかり暗くなっていた。スィーの背中のぜんまいねじは昼中なら目立つが、今ならさほど注目を浴びずに済みそうだ。
使った地図は業務用のものであり、建物の情報も細かく書き込まれている。鏡はかなりの高みに設置されている──低い位置から城内を覗き込めたら色々な意味で問題だ──はずなので、調査ポイントは数箇所に絞り込むことが出来た。
二人はそれらポイントを、城に近い地点から順に調べていく。当然屋根や屋上に上ったりする必要が生じたが、そこは職人の町である。そこら中にはしごや脚立が放り出されていて都度都度借りるに労はなかったし、屋根に上っているところを見られて怪しまれるようなこともなかった。もっとも、作業着姿のリズはともかく、スィーはさすがに出来る限り身を隠すようにしていたのだが。
そうして探索を続け、四つ目の建物の屋根に上った時。
「あった……!」
先に上ったリズが、小声でそう叫んだ。
そこは、二階建ての小洒落た酒場の上だった。屋根に模造品らしき煙突が取り付けられており、その突端に鏡が設置されていたのだ。
「すごいです、リズ。よく見つけましたね」
後から来たスィーが、手を合わせて賛辞を送る。リズはえへへと頬を掻いた。
たしかに、この暗がりで少女が目的のものを発見出来たのは、幸運だったかもしれない。たまたま隣家の明かりが鏡を光らせていなかったら、確実に見逃していただろうと思う。
「ほんとだ、下に風車がくっついてる」
煙突の脇のはしごを上ったリズは、『装置』を興味津々の目で調べ始めた。それは、四角い台の上に十五センチ程度の鏡が載ったものだった。下の台の側面には四方に穴が開いており、覗き込むと真ん中に風車が取り付けられているのが見える。風が通ると、この風車が回ってゼンマイが巻かれ、所定の時刻になると鏡の向きを変えるのだろう。鏡自体にも色々な細工が施されているようだが、専門でないリズにはそれぞれが何の役割を果たすものなのかわからない。唯一見当がついたのは、鏡の前面に装着されているレンズが遠方を映し出すために一役買っているらしい、という点だけだ。これがなくば、鏡を城の近くに設置しなくてはならず、いくらなんでも気付かれてしまうだろう。
「あれ?」
装置をためつすがめつするうちに、あることに気付いたリズが声を発した。
「どうしました?」
「うん。ほら、ここ見て」
そう言ってリズがスィーに指し示したのは、装置と煙突の隣接部分。両者は六穴の金具で頑丈に繋ぎとめられているようだが、穴に打ち付けられた釘に違和感があった。
それは、夜の乏しい光の中でもそれとわかるほどに、艶やかな輝きを帯びていた。
つまり、どう見ても新品の釘だったのだ。
「これ、おかしいよね」
「は、はい……なぜ釘だけが新しいのでしょう?」
「うーん?」
「下のお店の方がわざわざ修繕して下さるとも思えませんし。……となると」
顎に指を添えて思考していたスィーが、はっとした顔でリズを見た。
「まさか、最近誰かが他の場所からここに移動させたとか?」
「……そうかも」
「考えてみれば、変なんです。マスターは鏡の設置場所は寺院や遺跡などの上に絞っていました。罰当たりな話ではあるのですけど、そういう場所でないと建て替えが行なわれた際に装置が取り外されてしまいますから。もちろん寺院も遺跡も改修や修繕がされることはありますけど、頻度が大違いですし」
「ふうん。この酒場は……多少いじってあるけど、普通の民家だよね」
「です。だから、マスターがここに鏡を置いたはずがないんです」
思わぬ発見に、スィーは頬を紅潮させていた。折りよく雲間から月が顔を覗かせ、その姿を背後から白々と照らし出す。綺麗だな、と場違いな感慨を抱いたリズであったが──風流を解さないお腹にぐうと鳴かれてしまい、がっくりと肩を落とした。
「あう。どーしてあたしってばこう……」
多分酒場から立ち上る料理の匂いのせいなのだろうが。
「もう結構な時間ですからね」
スィーはくすりと微笑んで、手を合わせた。
「一旦戻って、お夕飯にしましょうか」
◇
「犯人を捕まえよう」
クォランスィネに戻ったリズは、あり合わせの材料で作ったポトフを頬張りながらそう提案した。
食事を摂る必要がないスィーは、折り目正しく座ったままことりと首を横に倒す。
「捕まえる……ですか?」
「うん。だって悔しいじゃない。あれってつまり、誰かがアルマンドさんの装置を利用して覗きだかスパイ活動だかに使ってたってことでしょ?」
「それは、そうですけど」
「しかも釘以外は新しくなかったってことは、どこか他の場所の装置を勝手に移動させたってことだよ。一から自分で作ることも出来ないのに、そんな小手先の使い方するなんて許せないじゃない」
リズが怒っている理由の一つには、時計職人を目指すものとしての職業意識があるのだろう。スィーとしてはアルマンドの疑惑が晴れた時点である程度満足した気になっていたのだが、言われてみれば、これは自分のマスターの作品を汚されたようなものである。ひとたびそう思ってしまえば、温厚な彼女の胸のうちにもムカムカと煮えたぎってくるものがある。なんとなく自分がリズの影響を受け始めていることに気付きながらも、スィーはリズに合わせて拳を突き上げた。
「よし、捕まえちゃいましょう!」
「おー!」
景気良く叫んだ二人は、すぐさま犯人特定に向けて検討を始めることにした。
しかし──。
しかし実のところ、この検討が始まった時点で、犯人の割り出しはほぼ終わっていたようなものだった。
というのも犯人は、すぐに気付くところに明確な『証拠』を残していたからである。
ただしこれは、犯人の迂闊さを意味するものではない。
なぜなら犯人にしてみれば、スィーたちが自分の犯行に気付くこと自体が想定外だったからだ。
スィーは最初にリズに筒を見せた後、すぐにそれを倉庫に戻している。つまり、彼女には以後筒を使うつもりがなかった。少なくとも犯人はそう判断した。
そして、筒が使われない限りは装置の盗用にも気付かれない。犯人はしめたものだとさぞや喜んだと思われる。
なのに、スィーが使うつもりもないのに二本目の筒を持ち出してきて、カウンターの棚に置き、更にはリズがそれをこっそり覗いたことで自分の犯行が明るみに出てしまう、などという展開は──到底予測できるものではなかっただろう。
盗用に気付かれなければ、証拠探しは行われない。目に入ってもそれが証拠と認識されることすらないのだ。痕跡が残るような大胆な手口を犯人が選んだとしても、さほど無茶な話ではない。
だから二人も、証拠を残していた犯人を愚か者だと言う気はなかったのだが──
「……犯人の目星、ついちゃいましたね……」
「おおおおお……」
それでも──振り上げた拳の下ろし先があっさり判明してしまったことも事実だ。二人は思い切り肩透かしを食らってしまった。
「こんなにあっさりわかっちゃうなんて……」
リズは店内で発見された『証拠品』を弄びながら、ため息を吐いた。
どうにも、物足りなさがあった。まして、犯人のせいで自分たちが『あんなもの』を見る羽目になったことを思えば、ただ捕まえるだけというのも──
「癪だよね」
「癪ですね」
意見の一致をみた二人は、捕まえ方に一工夫添えることにした。こうなったら多少相手にトラウマを植え付けるくらいでないとつまらない。そう考えて、先ほどまでより多くの時間を割いて犯人の退治方法を検討した。
もちろん犯人にしてみれば、少女たちがそんな奇妙な盛り上がり方をするとは思っていなかっただろうから、不条理な話なのだが──
◇
作戦会議から、三日後の夜。
決行の日、である。
『準備』を終えたリズは『クォランスィネ』に戻り、庭先の潅木の影に身を潜めた。
スィーは打ち合わせどおり、いつものようにカウンター裏の椅子に座る。配置については紛糾があったが、怪しまれないようにすべきとのリズの主張が最終的に勝ち、今の役割分担となった。
特に細かい段取りが必要な作戦ではない。後は『その時』を待つばかりである。だというのに、スィーは時折心配そうな顔をリズのいる方に向けてしまっている。外からだと窓を通してちょうどその姿が目に入るため、犯人に露見してしまわないかリズはひやひやものだった。
だが、リズの心配は杞憂に終わった。少女は知らなかったことだが、二人が出会う前までは、スィーはもっぱらこの窓の外の風景を眺めて過ごしていたのである。隣接した木に巣を作った鳥たち全てにこっそり名を付けていたほどなのだ。リズがいない時、彼女が窓を見ているのはむしろ日常的な姿なのである。
ややあって、柱時計が六回音を響かせた。ミニッツリピーターが六時を告げたのだ。
緊張した身には、その音はやけに大きく聴こえた。ごくりと唾を飲み込んだリズは、手にしたレンチを握り締めて様子を見守る。
すると、
「──うわっ」
草むらからそんな叫び声がした。
リピーターの音が鳴り止んだとほぼ同時のことだ。
予想通りの声だった。
二人の計画など知る由もない犯人は、すっかり油断していたのだろう。
だから──恐れる必要などなかった。
リズは潅木の影から飛び出すと、身を屈めながら声のした方向に走り、目の前に迫った藪に突っ込んだ。
「な、なんだ!?」
押しのけられた草木の先で、男が叫んだ。リズは躊躇しない。
「ハムスターでもね」
レンチを振りかぶり、景気よく叫ぶ。
「覗き猫にはちゃんと噛みつくんだよ!」
レンチはそのまま振り下ろされた。男の脳天を直撃し、ぐしゃりと鈍い音を立てる。一応先端に布は巻いておいたが、些かやりすぎだったかもしれない。男は声も無く草の上に沈んだ。
「リズ!」
店の中からスィーが飛び出してきた。リズがピースサインでそれに応えると、歓声と共に抱きつかれる。
まるでヒーローみたいな展開だ、とリズは思った。
ただ、それには敵役がちょっと情けなさ過ぎるかもしれないが。
「で、どうしようかこれ」
「そうですね……」
二人は気絶している男を見下ろした。白目を向いて倒れているその顔は──セイン青年のものだった。威厳を備えて然るべき王子のなんとも情けない姿に、スィーが苦笑しながら言った。
「とりあえず、手当てしてあげましょうか」
◇
装置盗用の犯人が、セインだということ。
リズたちは検討を開始して、すぐにそのことに気付いた。
前述のとおり、彼が店の中に残していた証拠を二人が見つけたからだ。
その証拠とは──先日彼が研磨した鏡。
彼はこの鏡を利用して、外から装置を使用していたのだった。
まず、犯人ことセインは中継装置を自作せず、他所のものを移し変えることで城内が見えるようにした。それは技術がなかったか、時間を惜しんだかのいずれかである。であれば、『クォランスィネ』の屋根に設置された巨大な主装置を自前で用意することも当然有り得ない。あの装置を隠れて利用するだろうという予測が立つ。
だが主装置は『クォランスィネ』の天井と一体となっているし、装置の受け側の穴は店のカウンターに向けられているため、外からでは壁が邪魔となって角度的に利用出来ない。
しかし、装置とカウンターの延長線上に鏡を置くことが出来れば話は別だ。外からその鏡を介して、装置を利用することが可能となる。無論、視界の鮮明さは格段に落ちるだろうが──彼にとっては十分目的を果たせるレベルだったのだろう。どんな目的があったのかはこれから聞かなければならないが。
ともあれ、装置の盗用を企んだセインは、丁度良い口実があったことで目的の場所への鏡の設置に成功した。
その場所とは、カウンター裏の棚。そこに鏡を置けば装置が使えると気付いた彼は、スィーの許可を得て『自分で』設置したのである。彼女に任せなかったのは、もちろん望む位置に置く必要があったからだ。この時点では更に細かな位置と向きの調整が必要だっただろうが、そちらは後日スィーとリズが席を外している間になんとでもしたと思われる。鏡の存在を怪しまれさえしなければ、彼としては十分だったのである。
だがどう工夫したところで、主装置を使う必要がある以上は方法は限定されてくる。スィーたちは主装置からカウンターへと視線をずらし、すぐにその先に例の鏡があることに気付いた。さらに鏡面の角度をチェックしてみたところ、精確に窓の外の茂みと主装置を中継するように調整されていた。となれば、容疑者としてセインの名前が挙がるのは至極当然のことだった。
そして、このようにして犯人の目星をつけた時──二人からは既に、見知らぬ何者かを相手にするような緊迫感は消え去っていた。そのため早速、セインの犯行現場を押さえる方法についての打ち合わせが始まった。
まず、彼が次に動きを見せる日時は容易に予測がついた。酒場の上に移されていた鏡の回転タイミングと角度を勘案すると、再び城の中が見えるようになるのは三日後。つまり彼が勤勉であれば、三日後にまた装置を使う可能性が高かった。
続いて検討したのは具体的な捕え方だが──リズはある意味、ここで『悪ノリ』した。とんだ灯台下暗しを演出してくれた彼に、せっかくだから悪戯してやろうと企んだのだ。
酒場に設置されていた鏡の前に、少女は自身の修理工具ケースを開いた状態で置いた。中の工具は取り出しておき、ちょうど蓋の裏側が鏡を通して見えるようにしたのである。
ステンレス製の蓋の裏には、リズがドライバーで削って描いた母の肖像画がある。作成時の年は八歳。修行先でケースを渡された時、幼い少女は母の姿をそこに描いておこうとした。
しかし、不本意ながら少女に画才はなかった。さらに、木彫りならまだしも金属を金属で削ろうとしたのである。作業中の音はキイキイと凄まじいものがあり、師匠は泡を吹いて倒れるしリズ自身も半分泣きながら続けた。
そうして完成した絵は──殆ど悪夢のような出来となった。直線のみで描かれた母、という名の得体の知れない『何か』。ロックワーズでは、ひとたびそれを見た者は必ず呪われると一時期話題になったものだ。だが、師より渡されたケースに換えはない。何より、どんな見た目でも自分にとっては母のつもりだ。結果、リズは呪いのケースを捨てることなく使い続け、そのうちに愛着まで抱くようになったのだった。
だが、いきなりアップでそんな絵を見た人間はどう反応するだろう。リズはそうした例を幾つも見てきた。だから確証があった。つまり──悲鳴を上げるのである。
セインは六時になると、草むらからアルマンドの装置を盗用した。本来は城の中が映し出されるはずが──目に飛び込んできたのはリズお手製の『悪夢』。他の例に違わず悲鳴を上げた彼は、驚きの収まらぬうちにリズのレンチの的となったのである。
と、いうわけで──
「さあーて、きりきり答えてもらうよ?」
リズはえっへっへと笑いながら、レンチでぱしぱし手のひらを叩いた。少女の目の前には、椅子に手足を縛り付けられたセイン青年の姿がある。ここは『クォランスィネ』の作業スペース。スィーはカウンターに座って、どうしたものかしらと事の推移を見守っている。
「お、お願いだから、それで殴るのはやめてくれないか。さっきのでトラウマになりそうなんだ」
「セインさんがちゃんと事実を話してくれたら、そうしてあげてもいいよ」
「言う言う、言うとも。恥を晒すことになるけど、まだ死にたくはないからね」
「とっくに恥を曝け出しまくってるでしょうが、覗き魔のくせに。なんであんなことしたの?」
「そ、それは……やっぱり言わなきゃ駄目かい?」
「……」
リズは無言でレンチを振り上げた。ちなみにもう布は巻いていない。店内の明かりを反射して、先端が銀色に光った。
「ひいい! わ、わかった! ちゃんと言うからそれを下ろしてくれ!」
セインは怯えきっていた。無理もないだろう。相手は小さな少女とはいえ、一度気絶させられた身なのである。頭には冷やしたタオルを巻かれていたが、大きなたんこぶは当分引っ込みそうもない。
青年は渋々口を開いた。
「君たちは、あの装置で映し出された場所が、城のどの部屋だったかわかったかい?」
「どこの部屋かって……二階の右から五番目の窓のとこでしょ? それがどうかしたの?」
「違う違う、そうじゃなくて、誰が住んでいる部屋かってことさ」
「そんなのお城に行ったことないあたしがわかるわけないじゃない。スィーも無理よね?」
リズがカウンターの方を向いて尋ねると、こくこくと頷きが返ってきた。
「そっか。そうだよね、ごめん。あそこはね、カリーナ嬢の部屋なんだ」
「カリーナ様って……」
それは、リズにも心当たりがある名前だった。有名な人物なのである。財務卿の息女、カリーナ=レスターホーク。至上稀にみる才媛として、リズがいたロックワーズの街はおろか、国境を越えた先にまでその名は轟き渡っている。
「うん。そのカリーナなんだ。それで、僕はその、つまり……カリーナのことがちょっと気になっていて──うぎゃっ!?」
セインの声は、途中から悲鳴に変わった。言い終わる前に、リズがレンチを投げ捨てて、彼の頭を両手で鷲掴みしたからだ。
そのまま、修行で鍛えた握力でぎりぎりと締め上げる。
「つ・ま・り、あんたは好きな女の私生活を覗き見していたってことじゃない! このヘンタイ!」
「あいたたたたた! た、たんこぶ、たんこぶ掴まないで! 痛いから、それすごい痛いから!」
「痛くしてんのよ! ったく、お城の中を覗くなんて何かの陰謀が絡んでるのかと心配してたら、こういう落ちだったなんて!」
「は、反省してます! だからこのとおり! 勘弁して! 勘弁してください! って、そ、それは──ぎゃあああああ!」
「これできっと、たんこぶも引っ込む、よ!」
リズはとどめとばかりに、時計修理工具を収めたステンレスケースをセインの頭に叩き下ろした。縦で叩かなかったのは最後の良心だったが、覗かれたカリーナの気持ちを思えば女として許せるものではなかった。
セインはぐふ、と蛙が潰れたような呻きを残し、再び気絶した。ケースを床に置いたリズは、ぱんぱんと手を払う。ふとカウンター側を見ると、スィーがなにやら怯えていた。やりすぎちゃったかな、と反省しかけるが、いやいやそんなことはないと思い直す。
ただリズは、セインへの罰はこれくらいにしてあげようとも思っていた。同情はしないが、青年にも哀れな部分はあったのだ。この様子では彼は目撃しなかったようだが、リズとスィーはカリーナと誰かとの情事をはっきり目にしてしまっているのである。青年のいささか行き過ぎた恋が実らぬものであることは、既にして確定しているのだった。
一応、この事実は秘密にしておくべきなんだろうか──。リズは作業用の椅子に腰掛け、セインが使っていた筒を手にとって眺める。
この筒は、アルマンドの手によるものではない。聞き損ねてしまったが、おそらくはセインが自作したものだ。
一連の仕組みにおいて、天井の装置の手前までは、特別な技術が必要とされない。スィーが語った様々な調節機能は、天井の装置と外に設置された鏡で賄われているためだ。だから、この筒を作るのは普通な職人でも可能であろう。
だが、セインはまだ素人同然のはずなのだ。助平根性なのか愛ゆえなのかはともかく、この筒は熱意だけで簡単に作れるようなものではない。
だというのに、それを彼は成し遂げた。
(もったいないなぁ)
リズはいつかの時のように、そう思った。だから、せめてこれ以上彼のやる気を削がないように、カリーナの件を秘密にしようと決めたのだ。
もっとも──。
少女のこの配慮は、セインの兄であるフォグ王子とカリーナとの婚約発表が翌日なされたことによって、まったくの無意味になるわけだが──この時の少女には、知る由もない話なのであった。