第二章 筒の話 ①
店内は緊張で満たされていた。
『クォランスィネ』内、リズ用に設えられた仮作業スペース。
スィーの発案によりこの場所が少女に提供されてから、二十日ほど経っていた。
それは、二人が出会ってから二十日、ということでもある。
出会いのきっかけとなった時計の一件が終息した後も、リズは『クォランスィネ』に留まっていた。
修行先へ戻る、両親のもとに帰るなど、リズには幾つかの選択肢があったが、最後には少女はスィーと共にいることを望んだ。それがお互いの共通の願いであることを、言葉にするでなく知っていたからだ。
だが少女は、まだ資格を何一つ持たない見習いの身である。よって、店内に作業場があっても民間から修理を受け付けることは許されない。ここはまだ修行のための空間に過ぎない。
リズは手始めに、ここで技術を磨いた上で、二ヵ月後に迫った初級時計技能士の資格試験に臨む予定であった。
そして今、この場にはリズとスィー以外にもう一人の人間がいた。育ちの良さが窺える金髪──この国では貴族の多くがこの色である──を清潔に短く切りそろえた青年、セインである。
実はこの国の第二王子である彼だが、先日の一件以来、ちょくちょく『クォランスィネ』に顔を出すようになっていた。リズ達を一方的に友人とみなしたようで、日ごと城を抜け出しては遊びに来るのである。
もっとも、リズには国王から息子のしつけ(?)を任されている手前、姿を見かけたら捕まえて修行に付き合わせるようにしているのだが──それでも懲りずにのこのこやってくるのだから奇妙な人物であった。単に寂しがり屋なのかもしれないが。
リズは無資格とはいえ、一般的な職人クラスの技量を身につけている。一方のセインは素人に毛が生えた程度だ。そのため、共に修行するとは言っても、自然とセインの様子をリズが見守る構図になる。
本日のセインの課題は、旋盤による研磨作業だった。対象物として、スィーが雑貨棚に陳列していた小さな鏡の外枠のみを使うことにする。枠は綺麗な円形をしているものの、年期を示すかのように錆び付いていた。旋盤加工の訓練としてはおあつらえ向きの材料だと言えた。
あらかじめ鏡は取り外しているので、ミスがあっても壊れるのは枠だけで済むが、ミリ以下の精度が求められる作業とあって気楽に出来るものではない。そばで腕を組んで立つリズの視線を気にしながら、セインはチャックを使って金属枠を旋盤に固定していく。
旋盤を扱う際の注意点は数多い。対象物を固定する位置が僅かでもずれては駄目だし、バイト(刃)を出しすぎると余計な力がかかって刃が欠けてしまう。
特に慣れが必要となるのが、実際に削る瞬間だ。刃は常に削っている状態とせねばならず、また、旋盤の送り速度は速すぎても遅すぎてもいけない。一定の速度で、一定の強さで、自身が機械の一部であるかのように旋盤を操作する。非常に集中力を要する作業なのである。
熟練の職人であれば、何気なく操作しているように見えるだろう。だがセインにはまだまだ緊張する作業である。仕立ての良い上服から作業着に着替え、額に流れる汗を拭いながら慎重に手を動かす青年からは、身分の高い者特有の余裕が抜け落ちている。だが、きっとそれがこの職人の国の王族たるものの本来の姿なのだろう。史書には、かつての工人組合の長が他国からの侵攻に備えて便宜的に名乗ったことが王家の始まりだと記されている。そんな歴史を堂々と公表していること自体、自分達のルーツはあくまで職人であるという王家の宣言なのだろう。
その意味では、セインはリズ以上にサラブレッドであるはずだった。本来はこんな町の片隅で、初心者レベルの練習を繰り返しているような存在ではないのだ。
「もったいないなあ」
セインが研磨し終えた金属枠を検分しながら、リズはそう呟いた。
新品同様とまではいかないが、枠は十分に美しい姿を取り戻している。これならまた数年は使用に堪えるはずだ。過去に多少の経験があったとはいえ、数回の訓練でこのレベルの補修が出来るのだから大したものだ。
「で、出来はどうだい?」
「どうもこうも」
不安げに尋ねてきたセインに、リズは素直に賞賛の言葉を送る。
「商品として置くのは流石に無理だけど、普段使う分には全然問題ないと思うよ。なんだかんだで、やっぱり王家の人は凄いね」
「そ、そうか! よかった!」
一転、飛び上がらんばかりに喜ぶセインである。ちょっと褒めすぎたかなとリズは苦笑いした。
その時、カウンターの奥からスィーが姿を現した。ティーカップを二つ載せたトレイを両手に持って、にこにこしている。
「お茶が入りましたよー」
相変わらずのシンプルなワンピースなので、そうしていると女中か何かのようにも見える。背中のねじを回転させながらとことこと歩くさまは、子供がままごとで使う給仕の人形めいたユーモラスさがあるのだが、この二十日間でリズもすっかり見慣れてしまっていた。
「ありがと、スィー。それじゃちょっと休憩かな」
「ああ、それは嬉しい。さすがに疲れたからね……」
そう言いながらも、立ち上がってスィーからトレイを受け取りに行くあたりはセインも紳士である。
だが彼が近づくと、スィーはびくっと身を震わせて後退った。
「ん?」
その後も、セインが一歩歩み寄るたびに同じだけ下がる。二人の距離は一向に縮まらず、とうとうスィーは入ってきた扉の手前まで戻ってしまった。
「す、すみません、まだちょっと……」
「そっか。まあ、仕方ないよね」
ははは、とセインがごまかすように笑う。微妙になりかけた空気を吹き飛ばすように、リズが横合いから茶々を入れた。
「まだ駄目なんだね。けど、セインさんが怪しいからしょうがないよ」
「ひ、ひどい……もう素性も全部ばれてるのに」
セインは大げさに膝をついてがっくりと肩を落とす。演技であることはわかりきっているので、リズは彼を無視してスィーに近づいた。
「あたしは大丈夫なんだよね」
「はい。なぜなのか、私にも不思議なんですけど」
リズはトレイからカップを一つ取り、作業スペースの机に置きに行った。
「悪いけど、セインさんはこっちで飲んでね」
それからカウンターに戻ってきて椅子に座り、スィーに向き直る。
「昔から人見知りしてたの?」
「はい……私はもともと、『クォランスィネ』の管理人として他人に対し一定の警戒をするよう製作されたのですが、どうもマスターが言うには私には行き過ぎている部分があるようで、当時から色々な改善処置を施されていました」
「改善処置って、たとえばどんな?」
「そうですね……ちょっと待っていてください」
そう言うと、スィーは奥の建物に繋がる通路へと姿を消した。
「どうしたんだろ」
「さあ?」
顔を見合わせたリズとセインは、同時にカップに注がれた紅茶を口に含んだ。
◇
「お待たせしました」
スィーが戻ってきたのは、十分ほど経ってからのことだった。いったいどこで何をしてきたのか、服は煤けて髪の毛にクモの巣が貼り付いている。女性としてあるまじき有様にリズは慌てて駆け寄り、ぱんぱんと叩いて彼女から埃を払い落とした。
「もう、何してるの。せっかくスィーは綺麗なのに」
「すみません、すごく奥の倉庫に仕舞い込んじゃっていたので……。でも、ちゃんと見つけましたよ。ほら、こちらです」
スィーは手にしていたものを誇らしげにリズに見せた。
それは、十五センチほどの長さの筒だった。太さは女性の手首くらいで、装飾らしいものはなく、よく見ると両端の中心部には小さな穴が開いている。
「なあにこれ? 去年発表されてた『万華鏡』みたいな見た目だけど」
とあるローゼリアの職人──というより研究者と言うべきか──が、偏向の実験の最中に思いついたアイデアを基に『万華鏡』を世に送り出したのは、僅か一年前のことである。一端に鏡、一端にビーズを配置したこの遊具は、名の示すとおり覗き込めば極彩色の世界に飛び込むことの出来るものであり、ローゼリアにおいて多くの人気と模倣とを生んでいる。
「ふふ。似ていますけど、中身はぜんぜん別物ですよ。リズ、この筒を天井に取り付けてある装置に向けて、中を覗きこんでみてください」
「わかった。……こう?」
「はい。どうですか? 何か見えるでしょう?」
「あ……」
リズは驚きの声を上げた。
筒の穴から覗き込んだ先は、はじめはぼやけて何だかわからないものが見えている状態だった。しかし、筒をしっかりと装置の方向に固定すると、途端にクリアな映像が飛び込んできたのだ。
それは、やや高い位置から見下ろした街角の風景。具体的な場所はリズにはわからない。少女はまだゼフィールに来て日が浅いのだ。しかし、この街のどこかであることは明らかだった。屋根にも通りにも転がっている用途不明なからくり達。煙突から吐き出される煙。通りすがる人々の服装は千差万別で、思い思いの主義や個性が滲み出ている。そんな街は、ここゼフィール以外にありえないのだ。
「これ、どういう仕組み?」
リズが筒から顔を離して尋ねる。スィーはその問いをあらかじめ予想していたようで、淀みなく応えた。
「簡単に言えば、望遠鏡と鏡の反射との複合技術です。カウンターの位置から筒のレンズを通してあの装置を見ると、その視線は装置の出口から外へ飛び出して、町の各所に据えられた鏡を中継していきます。装置はそれ自体が大きな望遠鏡ですし、中継地点の鏡にも相互の距離に応じた拡大技術が組み込まれているので、離れた場所の景色がまるで目の前にあるかのように見えるんです」
勿論、これは口で言うほど簡単な仕組みではない。望遠鏡の精度は対物レンズの大きさで決まるため、街全体をカバーするためには天井の装置を大掛かりなものにしなければならなかったし、装置間の距離と拡大率とを精確に分析しなければ、ピントがずれて景色がぼやけてしまう。レンズに付着した汚れを定期的に除去する機能も付け足したし、街中に設置する以上は鏡が目立たないようにする工夫も必要だった。
更に、アルマンドの性格を思えば、スィーが把握していないところで多くの技術が凝らされていることも明白だった。彼は無口だったし、自分の技術をひけらかすような人物ではなかったからだ。
「ふうん……あたしは時計以外のことはあんまりわからないけど、それでも凄い仕組みだってことはわかるよ。どうやったらこんなに綺麗に映すことが出来るんだろう」
「ふふ。しかも、見える場所は一箇所じゃないんですよ」
マスターが褒められたことが嬉しいのだろう、スィーは無邪気な笑みを溢れさせた。
「途中に置かれている鏡には風力を貯め込む機械が付属していて、それが定期的に鏡を回転させているので、時刻によって見え方が変わるんです。もう随分前の装置ですから、幾つかは壊れてしまっていて、見える箇所もかなり減っているはずですけどね」
「そういえば、スィーはこの筒を使ってなかったの? 倉庫の奥に置いていたみたいだし」
「それは……」
リズの何気ない問いかけに、スィーは表情を一転させて俯いた。
「……この装置は、人を恐れてばかりだった私のためにマスターが作ってくれたものなんです。これで街の人間を観察して少しずつ人というものに慣れていきなさい、と言って。でも私には、この筒を通してですら怖くて。それと、マスターには申し訳なかったのですけれど、これだとなんだか覗き見しているみたいで気が引けてしまうということもあって。せっかく作ってくれたものなので、ごくたまには使うようにしていたのですけれど、マスターが亡くなってからは一度も──」
それから、整理を繰り返しているうちに自然と倉庫の奥に埋もれてしまったんです、とスィーは語った。
「実は、私がこうして雑貨屋を開いているのも同じ理由なんですけどね。人に慣れるため──本当にそれだけで。一応建前としての理由もあると言えばあるのですが」
「それはどんな?」
「『クォランスィネ』の道具にはマスター本人でないと場所を移せないものも多いので、裏の倉庫はマスターの死後も維持する必要があったんです。かといって街中に得体の知れない建物がいつまでも存在し続けるのも怪しまれるから、雑貨屋としてカモフラージュした──というものなんですが」
「……そっか」
リズは大体の事情を察して、手元のカップに視線を落とした。
それから、やおら椅子から立ち上がってスィーに手を伸ばし、カウンター越しにその頭を胸に抱え込む。
「ど、どうしたのですか?」
「んーん。気にしないで。ただあたしがこうしたくなっただけだから」
「は、はあ……」
されるがままのスィーの頭をリズは幾度も撫でた。綺麗な髪から漂う優しい匂いに、少女は目を閉じる。
陽だまりの匂いだ、と思った。
何日も何日もカウンターに座り続け、窓から差し込む日差しを浴び続けているうちに、スィーの髪はそんな匂いを持つようになった。それが、彼女が一人で過ごした時間の長さを表しているようで、リズはいっそう強く彼女の頭を抱え込む。
スィーが語った建前の理由。
たしかにそれは、建前なのだろう。奇天烈な建物などゼフィールにはそこら中に溢れかえっており、いくらこの店の外観が異様でも、それだけで怪しまれるというわけではないのだから。むしろ、スィーのような自動人形が店番をしてして、しかも臆病でまったく商売が成り立っていないのに潰れていないことの方が、よほど噂の種にされてしまうはずだ。
けれど、本当の理由が別に存在しているのであれば話は違う。聞けば、雑貨屋としてオープンしたのはアルマンドが死んだ後のことだという。つまりこの店は、彼の願いに応えようとしたスィーが自分で発案したものなのだろう。
──自分は一人でもなんとかやっていけるから。だからどうか、安心してください。
スィーはきっと、亡くなったマスターにそう伝えようとしている。
それがわかったから、リズはスィーを抱きしめたのだ。子供をあやすように、励ますように、そして何より、今は一人じゃないということを伝えるために。