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第一章 時計の話 ⑤

 微かな風の吹く夜。丘の上では木々が花びらを舞い落とし、ひらひらと宙に遊ばせている。

 月影は柔らかく差して木々を夜闇に浮かび上がらせるが、地表にまでは届かないようだ。丘の斜面は暗がりに覆われており、夜の静けさの中に美しい木々だけが浮かび立つさまは幽境の様相を呈している。

 そして今、闇に紛れるようにして、人影が一つ。

 黒尽くめの怪しい風体である。

 だが人の目を恐れている様子はない。むしろ堂々としており、その恰幅の良さとあいまってどこか威厳すら感じさせる佇まいであった。

 彼──おそらく男性であるように見えた──は細長い包みを胸に抱えていた。

 ひどく大事なもののようである。

 いや、事実それは彼にとって極めて大切なものなのだ。たとえ何者かに見つかったとしても、これには代えられない、という類の。

 そう、自分は今夜、この中の物を使って──。

 男は抑え切れない喜悦に唇を歪めると、丘の斜面を登り始めた。

 小さな丘である。ほんの五分も歩けば頂上に辿り着く。月光に照らされた木々を振り仰いだ男は、その幻想的な美しさにため息をついた。

 そして、視線を戻してふと気付く。

 一本の木の下、幹を背に、舞い散る花びらを従えるようにして静かに座る、一人の女性の姿に。

「おぬしは……」

 彼は束の間、木の化身がこの世に顕れたのかと思った。だが近づくにつれ、その細面に見覚えがあることがわかる。

 同時に、女性が一人ではないことにも気付いた。膝の上に幼い少女の頭を乗せ、横たえている。そちらの少女は眠っているようだ。すうすうという寝息すら聞こえてきそうである。

 男が更に近づくと、女性は胸元からハンカチを取り出して地面に敷いてから、少女の頭を静かに持ち上げてそちらに移した。そしておもむろに立ち上がり、男に向かって一礼する。

「クォランスィネ……なぜおぬしがここに?」

 本来の名を呼ばれたスィーは、顔を持ち上げた。

「それはあちらの木の下でお話しましょう。ここではこの子が目を醒ましてしまうかもしれませんので」

 それから指を口の前で立てて、かすかに微笑む。

「それでよろしいですか? ──陛下」


 ◇


 スィーは老人を木陰に誘い、向き合って腰を下ろした。

 粛然としない面持ちの老人に対し、彼女は済まし顔だ。頻繁なやり取りこそないものの、彼はスィーにとってある意味最も関わりの深い人物なのである。臆病な彼女であっても、さすがに及び腰になることはない。

 もっとも──常人であれば国の最高権力者相手に腰が引けるのはむしろ当然である。その意味において、スィーはやはり、一般的な人間とは異なる価値観のもとで生きていると言わざるを得ないのだろう。

「して、これはどういうことなのじゃ?」

 どっかと胡坐を掻いた老人──ウィシュタル王は、疑問の眼差しをまっすぐスィーに向けた。

 職人の国の王たる彼は、国民の気質を代表するかのように無意味な腹の探り合いを嫌う。まして相手は長年の知己である。尋ねれば素直に答えが返ってくるであろうことは重々承知していたのだ。

 そしてスィーはこくりと首肯した。

「はい。陛下がいらっしゃった時に、事情の説明が必要かと思ったのです」

「事情とな?」

「そうです。とはいえ、私もどこから話せば良いものかわからないのですが……」

「ふむ」

 ウィシュタル王は、たっぷりと顎に蓄えた髭を思慮深げに撫で付けた。

「ではこちらから聞いてみるとしようか。この場には、本来別の人間がおるはずじゃった。それは承知かの?」

「はい。先ほどあちらの木陰で眠っていた子──リズの、お爺様です」

「うむ。そうか、あの娘はあやつの孫か。言われてみればだらしない寝顔がよく似ておった気がするの。じゃが、その者とおぬしがここにいるのはどうしたわけじゃ?」

「……はい。やはり、まずはそこからお伝えしなければなりませんね」

 スィーは一旦瞼を伏せてから、愁いを帯びた顔を老人に向けた。

「陛下。どうか落ち着いてお聞きくださいませ。……クラウス=フォーセッタ様は先日、お亡くなりになられています」

「なんじゃと!?」

 大きな驚きの声だった。彼がこのような声を出すことは滅多にない。その見開かれた目からの強い視線を感じ、スィーは顔を伏せながら言葉を継ぐ。

「詳しい事情は私も存じておりませんが、もう十日以上も前の話だとのことです。……お悔やみ申し上げます」

「……息子はそのようなことを一言も申しておらなんだが──」

「陛下はおそらく、王子に時計の修理先のみをご指示なさったのではないですか? あの子はリズ=フォーセッタ。見習いですがフォーセッタの名を継ぐ時計職人です。あの子に依頼したことで、王子は役目を果たしたとお考えになったのかと」

「なんという……いや、じゃがあの馬鹿息子なら有り得る話じゃ。そうか……クラウスが死んだか」

 老人は目を閉じ、低く長い息を吐き出した。長い生の中で、近しい者の死を見送ることは彼にとって日常のことである。だがその多くは立場が足かせとなり、満足に悼むことを許されなかった。個人的な感情よりも、その人物が抜けたことによる政治的な損失に、どうしても意識が囚われてしまうからだ。

 だが、今だけは違った。余人の視線のない町外れの丘の上で、老人は久方ぶりに打算なく、亡くなった人物の死を受け止めようとしている。

 もしかしたら、それだけは幸いなことなのだろうかと、スィーはささやかに自問した。

 ややあって、老人はおもむろに抱えていた包みを解き始めた。すると、端麗な絵が描かれた紙の下から、透明な液体を湛えた一本の瓶が現れる。

「今年は、いつも以上に良いのを見つけたんじゃがの」

「やはり、そういったお待ち合わせでしたか」

「うむ。我が味気なき余生における、年に一度の愉しみじゃった」

 それから老人は、リズの祖父との取り交わしについてスィーに話し始めた。

「おぬしは概ね想像ついておるようじゃが──」

 そのような前置きで始まった話は、およそ次のようなものだ。

 老人──国王とクラウス老は、以前より毎年この時期に、今回リズが直した時計を使っての賭けを行なっていた。

 その内容は、王が意図的に時計に手を加えて動かない状態にしたものを、老人が修理するというもの。無事に直った場合は、時計に付加された機能により待ち合わせ場所と日付が表示される。その日の夜に指定の場所へ行くと、王と賭けの賞品である名酒が待ち構えている、という具合だ。

 よって、表示される日付は同時に賭けの期限を意味する。それまでに修理が出来なかった場合は、クラウス老人は酒にありつけないのである。

「もっとも、あやつはいつも容易く直してしまいおるんじゃがの」

 ウィシュタル王はそう言って子供のように口を尖らせたが、スィーは微笑ましいで目でそんな彼を眺めた。

 結局、この賭けは単なる口実なのだろう。老人が賭けに負けた場合、ウィシュタル王は一人で寂しく夜酒を飲むことになるのだ。この人物がそんな状況を望むはずがない。だから、時計に仕込まれた細工には、ある程度手心が加えられていたはずである。

 でなければ、いくらリズが頑張ったとはいっても、期日までに修理を終えるようなことは流石になかったのだろうとスィーは思うのだ。

「それでも、クラウス老の才能はリズに受け継がれているようですね」

「無論じゃ。本当にあの娘が修理したのか?」

「はい。ほとんど寝ずの作業となりましたが」

「だろうの。その根気とて必要な才の一つじゃ。その点では祖父以上かもしれぬ」

 あやつは疲れるとすぐ酒に逃げるからの、と王は笑った。

「しかし、クォランスィネよ。この場所に来たまではわかったが、おぬしはどうやらわしが賭けに絡んでいることも、賭けの賞品のことも見当をつけておったようじゃな。なにゆえそれが出来た?」

「……そうですね。順に説明しますと、まずリズに修理を依頼した青年──実はフライゼ王子だったわけですけど──が裕福な人物であることは、リズに渡した金貨が相場を大きく上回るものだった点から明らかでした。時計そのものは盗品である可能性もありましたが、盗賊が修理費に余分な代金を支払うとは思えませんし。

 次に、街中であの方を探していた男達の服装が、上下共に地味な灰色の服だったと聞きました。リズもその時話していましたが、ローゼリアにおいてあのような画一的な服を着る集団となると、兵士くらいしか思いつきません。正確には、兵士たちが鎧の下に着込んでいるのがそういった衣服なわけですが。

 けれど、追跡者が兵士であるならば、鎧を脱いでいたのはなぜでしょう? 私はこれを、捜索対象が犯罪者ではなかったためだと考えました。鎧を着込んだ集団がうろうろするのは住民を不安がらせることになるので、犯罪者相手ではない今回は脱いでおこうと、兵士達が気を遣ったのだと。

 そういうわけで対象は、犯罪者でもないのに兵士たちが大勢で探さなければならない人物、ということになります。すぐに思いつくのは身分の高い人ですね。ただし当のセイン青年の方ではむしろ逃げたがっていて、そのくせどこか能天気な感じも受けたというリズの話と合わせると──思いつくのは、高貴な方のお忍び外出を、城の者が連れ戻そうとしているという構図くらいでした。

 そして、実はこの時点で私は、フライゼ王子の名前を思い浮かべてしまいました。というのも、失礼ながらフライゼ王子は、奔放な性格で知られていますので……」

「わしの息子だけあって、と言いたげだのう」

「いえ、そんなことは……少しありますけど、ともあれここで私は、王子の名前とセイン=フェリクスという名前の関連性に気付き、青年の正体についてほぼ確信を得ました」

「関連性とな?」

「はい。単純な話でした。セイン=フェリクス(Sain Feriks)とフライゼ=シンク(Fraise Sink)は、単に文字を置き換えただけの関係にありますので」

「……なんとのう」

 王は額に手をやった。

「フライゼはそんな安易な偽名を使っておったのか。やはり粗忽者よ」

「安易なのではなく、王族としての自分の名前に誇りをお持ちだからなのではないでしょうか」

 店の帳簿にFerixとすべきところをあえてFeriksとサインしたのも、あくまで本当の名前を置き換えたものに留めたかったというこだわりの現われであるように、スィーは思えていた。

「それに、リズ相手のことですからあまり警戒なさらなかったのかもしれませんし」

「いや、単に何も考えとらんだけじゃ」

「ふふ。ではそこはお二人で後々話してみてください。話を戻しますと、依頼者がフライゼ王子だと分かってからは、すぐに結論まで辿り着きました。まず、王子は時計の修理を父からの依頼だと言いましたが、名前と二重に偽る必要性が感じられませんので、父とは素直に国王陛下のことだという推測が立ちます。あとは、陛下が自身の名を冠した酒が出回ることを許すほどに酒好きだという点、クラウス=フォーセッタ様も同様だという点、時計が指定した場所が木しかないような丘である点などから、『こうした用事』であることに思い至ったのです」

 もちろん用事の内容が多少異なっている可能性はありましたけどね、とスィーは微笑んだ。

「私がこの場所にいる理由は以上です。念のためクラウス様の店の帳簿を確認し、これが毎年の『行事』であることの裏づけを取ってから、お待ち申し上げた次第となります」

「ふむ……おおむねわかったが」

「なにか気がかりでも?」

「いや、大したことではない。じゃが確かに不満もある。おぬしにではなく、息子に対して、な。今回の件は、クラウスが死んだことをあやつが一言わしに申しておれば済んだ話だったのじゃぞ。それが孫娘に渡して終わった気になっていたとは呆れるばかりではないか。あやつは使いすらまともに出来んのか」

「ですが、陛下も褒められた話ではございませんよ? お一人でこのような場所においでになるなんて、良からぬ者に知られて拐しに遭いでもしたらどうなさるのです」

「む……じゃが、だからこそ『クォランスィネ』の品を使ったのじゃぞ。その時計に合う部品は、おぬしの店か、おぬしが見定めた職人の店以外では手に入らん。よしんば同じものを作り出すとしても、期日までに間に合わせることは不可能じゃろうからの」

「信頼して頂けることは嬉しいのですが……それでは、通り魔などに遭った場合はいかがなさいますか」

「ぐむ……口が回るようになりおって。臆病なおぬしが今日はどうしたのじゃ? いくら古き知己たるわしが相手とはいえ、別人のようではないか」

「それは……」

 スィーは言いよどんだ。自分でも不思議ではあったのだ。普段であれば、執政官に王の居場所を知らせる文を渡して終わらせていたかもしれない。基本的に彼女は、店から外に出ることすら躊躇する性格なのである。

 だというのに今夜はわざわざ王を待ち構えて、今となっては二人で向き合って話をしている。

 そんな自分の変化がスィーには不思議で、戸惑いがあって──けれど次の瞬間、彼女はひとつ頷いたのだ。

 たった今、何かが腑に落ちたのだ、というふうに。

「……そうですね。私はきっと、リズにあてられたのだと思います」

「あの娘にか?」

「はい。なにしろあの子は──」

 言いかけて、スィーは口元を手で押さえた。王が怪訝な目を向けると、どうやら彼女は笑いを堪えているようである。これもまた、らしくない振る舞いだった。

「いかがしたのじゃ?」

「す、すみません。ただ、リズのさっきの様子を思い出してしまいまして」

「ふむ。説明してくれるかの?」

「はい、すみません……では、リズの言ったことをそのままお伝えいたします。とても真っ直ぐに、あの子は怒っていたのです。つまり──『時計を賭け事なんかのために壊すな! それでも職人の国の王様か!』」

「ほ」

 ウィシュタル王は、きょとんとした顔をすると、それから笑いを爆発させた。

「わはははは! 一国の王によくぞ言った! やはりあやつの孫じゃの、遠慮というものを知らん!」

「そうですね。でも、たしかにリズの言うとおりですよ?」

「そうじゃのう。次からは違うやり方を考える必要があるか」

「え……ですが、次と言っても──」

「来年もやるつもりじゃよ」

 王はきっぱりと言った。

「もっとも、相手はあの娘じゃ。さすがに酒は賭けられんがの」

「……そうですか。では、私もリズに協力して宜しいでしょうか?」

「うむ、構わんぞ。じゃが、それは来年まであの娘と共にあるということか? 人見知りの激しいおぬしとは思えん話じゃが」

「そうですね。まだあの子と話し合ったわけでもありませんし。ただ、なんとなく……そうなる予感がするんです」

「ふむ」

 王は髭を撫でた。

「それは、良きことじゃの」

「はい。きっと」

「よし。ではここはあやつへの弔いとおぬしへの祝いの場とするか」

「やはりお一人でも飲まれるのですか」

「一人ではないぞ。今年の賭けは、幾つかの偶然が重ならねば成立しておらんかった。クラウスが孫娘に店の未来を託したこと。それによってあやつの孫がゼフィールにやってきたこと。不肖の息子がその者に無茶な依頼をしたこと。最後に、その者のそばにおぬしがおったこと。どれ一つ欠けてもあの時計は直らんかったじゃろう。してみれば、この酒を飲む権利は関わった者全てにあると言うべきじゃ」

「では、フライゼ王子をお呼びしますか?」

「あやつは下戸じゃよ。おぬしに飲ませるわけにもいかんしのう」

「ではやはりお一人で?」

「いや、クラウスと呑む」

 言って王は、酒瓶の栓を抜くと、木の根元にどぼどぼと中の液体を注いだ。

「手向けの酒じゃ。貴様はこれすら勿体無いと言うのかもしれんがの」

 貴重な酒だと言っていた。だがその声に酒を惜しむ響きはない。惜しむのは旧来の知己との別れ。王は杯一杯分の酒を注ぎ終えると、瓶の口を直接口に含んだ。

 豪放な飲み方である。そしてたちまちに、おそらくは一杯分の酒を喉に通すと、老人は再び木にそれを注ぎ始める。

 こういう酒の酌み交わし方もあるのだろう。

 スィーは黙って王の行いを見守った。たしか、王はさほど酒に強くない。瓶の半分を、それもこれほどの勢いで飲み干そうとすれば、おそらくは途中で前後不覚に陥るだろう。加えて、王はどれほどに酔おうとも必ず翌朝までには正気に戻り、ひとけのない道を自らの足で王城へ帰っていくはずだ。何があろうとも政務に支障をきたす行為はしない。ローゼリアの主がそういう人物であることをスィーは知っている。

 けれど、残った酒を彼女はどうすることも出来ない。自分には絶対に飲むことが出来ないということ以上に、この酒はやはり、二人の老人のものだと思うから。

(だから私は、その代わりに──)


 ◇


 鼻腔に忍び込んだアルコールの香りで、リズは目覚めた。風向きが変わったため、ウィシュタル王が木に振りかけた酒の匂いが、離れて眠る少女にまで届いたのだ。

「うにゅ……」

 リズは目蓋を擦った後、上半身を起こしてふああと大きく欠伸した。眠りに落ちる寸前までは時計を意図的に壊した王への怒りに拳を振り上げていたのだが、基本的に怒りの感情を持続させることの出来ない娘である。勢いはすっかりなりを顰め、今はただ、眠っている間に頬に感じていた暖かさが何だったのかをぼんやり考えている。

 その視界に、ひとひらの花びらが舞い込んだ。薄桃の花弁、サクラだ。それで自分が丘にいることとその理由を思い出した少女は、スィーの姿を探す。

 彼女はすぐに見つかった。酒の匂いのする方に何気なく目を向ければ、隣の木の前に佇む姿。リズは名を呼ぼうと口を開き──だがそこから言葉が発せられることはなかった。

「わあ……」

 月明かりの下、代わりに響いたのは感嘆の声。リズは眼前に広がる光景に目を奪われ、スィーに呼びかけることを忘れた。

 いや、正しくは、呼びかけることを躊躇ったのだ。呼べば、この夢のような場面が終わってしまう。まるで物語の世界に迷い込んだかのような、掛け値なく美しいこの風景を、自分が邪魔してはいけない。そんな風に思ったのだ。


 夜に舞う桃色の花びらの中で。

 月明かりに照らされながら、スィーは静かに舞を演じていた。

 周囲はまったくの無音だった。草むらから虫の鳴き声一つ上がらない。

 ただ心地よい夜風が彼女の髪を柔らかく揺らしている。

 スィーの舞はゆったりとしたものだった。

 陽気な踊りを好むこの国のものではないだろう。

 だが、では何処の国より生まれた舞なのだろうか。

 そして彼女は誰よりそれを教わったのだろうか。

 リズの中で生じた疑問には、無音だけが返った。

 だが、やはり問う気にはならない。

 スィーは一心に舞っていた。リズの視線に気付いた風もない。

 おそらくは他人の目に人一倍敏感な彼女が、無防備と言えるほどに集中している。

(まるで、何かに祈っているみたい)

 と、そう思ったリズの頬に、不意に強い風が吹きつけ──その目尻にいつのまにか溜まっていた涙を払い取っていた。

「おじいちゃん……」

 リズは理解したのだ。スィーが何のために──誰のために舞っているのかということを。

 それが嬉しくて、けれどやっぱり悲しくもあって、そしてそんな自分の心を抱きとめてくれそうなほどにスィーが舞う姿は綺麗で。

 なんだかたまらない気持ちになったリズは、目の奥がつんとする感じを覚えて困ってしまった。

(ああ、どうしよう)

 このままでは泣き出してしまいそうだった。そして、ひとたび泣いてしまえば歯止めが利かなくなりそうな予感もしていた。

 けれど、そこにもう一度。ひときわ強い風が丘の上をさらって、サクラを一斉に散らした。

「わわっ」

 背中に強く吹き付けられたリズもたたらを踏む。体勢を立て直して見上げると、視界いっぱいを花弁が埋め尽くしていた。

「うわあ……」

 リズは再び感嘆の声を上げた。手を伸ばして花びらを掴み取る。一枚だけのつもりが、いっぺんに三枚も掴んでしまった。それほどに圧倒的な量のサクラが、今、丘の上で乱れ飛んでいたのだ。

 今日はなんて日だろう。

 本当に夢のようだとリズは思った。

 幾つも幾つも、信じられないような光景を自分は目にしている。このからくりの街で、だからこそ王様は、まったく機械と関係のないこの丘の風景を祖父との酒宴の場に指定したのだろうか。

(そういえば王様はどこに……)

 スィーのいる方に目を向ける。そこには、先ほどの突風の驚きが収まらないらしく、目を見開いて呆然としているスィーがいた。よほど舞に集中していたのだろうか、花びらの海に呑まれながら、何が起こったのか理解できない様子で涙目になっている。

 ウィシュタル王はそんな彼女の近くにいた。とはいっても、呆れたことに木の幹を背に眠りこけているようだった。この特異な状況下にあって目覚めないことは、いっそ賞賛に値するのかもしれないが。

 それら二人の姿が同時に視界に飛び込んできたのだ。あっけに取られたリズは、次の瞬間、腹を抱えて笑い始めた。

(なんなのよ、もう)

 風情も何もあったものではなかった。だけど今はそれがおかしくて仕方がない。本当にこの街は、おかしなことばかりだった。おかしくて、楽しいことばっかり起こる街だ、と少女は思ったのだった。


 ◇


「いやー、色々迷惑かけちゃったみたいだねえ。ごめんごめん」

「……まあ、今更どうでもいいですけど」

 気安い調子で謝るセインに、リズは肩を竦めて応じた。

 ここは『クォランスィネ』の店内である。翌朝きっちり目を覚ましたウィシュタル王を見送った──ひとりのほうが見つかりにくいと同行を断られた──後、眠気を覚えたリズは店に戻って一眠りしていたのだが、そこにセインが訪れたのだ。

 眠りを妨げられた形ではあるが、昨夜の時点で丘で一度睡眠をとっていたため、リズの意識ははっきりしている。少女は胸に下げた時計を確認し、今が中途半端な時刻であることを知って眉尻を落とした。すなわち、朝食を食べるには遅すぎるし昼食を食べるには早すぎる。

「お、その時計身につけてるんだね」

「うん。せっかく王様がくれたんだし」

 リズが手にしている時計は、例の『クォランスィネ』だ。王に返却しようとしたところ、以後はリズが持っているようにと言い渡されたのである。「もう賭けには使えんしの」と王は言っていたが、友人の孫に持たせておきたかったというのが本音であることは明らかだった。

「でも、そのぶんこっちは返しておかないとですね」

 リズは胸ポケットから前金として渡されていた金貨を取り出した。貴重すぎる貨幣を他の小銭と一緒にしておく気になれず、別管理しておいたのである。リズが身に着けているのは工具などを仕舞うことも出来る丈夫な作業服であり、いくつかのポケットは財布などよりよほど安心なのだ。

「僕のお金じゃないし、別にいいんだけどなあ」

「だめでしょ、国の王子様がそんなお金に対して適当じゃ」

「王子扱いはやめてくれよ……僕はそんな大層なもんじゃない。今までどおりセインと呼んでほしい」

「それは構いませんし、むしろやりやすくて嬉しいんですけど──っていうかセインさんまたお城抜け出してきたんですか!?」

「う……ま、まあ今回は君たちに説明する必要もあったわけだし、いいじゃないか」

「王様がいないからって、羽目外しすぎ」

 リズは冷たい視線をセインに浴びせた。

 ウィシュタル王は今朝方、二日酔いのまま予定通り外遊に旅立っていた。その不在期間中は二人の王子が国の運営を任されているという話だが、実情は異なっているようだ。

「仕方ないさ。あの兄貴がトップに立っている城で毎日を過ごすなんて僕には到底無理だ。会えばわかるけど、兄貴の堅物っぷりは尋常じゃないんだ。真面目なのは美点だろうけど、考えも古いし、融通の効かなさといったら化石級だ。何事にも余裕を持たせるのが身上の僕なんかと一緒にいたら、かえって物事が進まなくなる」

 それは、セインの口から珍しく出た本音だった。ふざけているようでもやっぱり王族って大変なんだなあとリズも一瞬その言葉を信じかける。

 けれど、だからといって街で遊び呆けているのはおかしいことに気付いて、三角になった目でセインを睨んだ。

「言い分は聞きましたけど、悪いけどこっちは王様から言付かってることがあるの」

「は?」

 きょとんとするその肩を、リズはがっちりと掴んだ。そのまま、小さな身なりに似合わぬ強い力でセインを椅子から立たせ、店の片隅へとひきずっていく。

 そこは昨夜までリズが使っていた、時計の修理用機器を並べているスペースだった。

「なんだなんだ?」

「あたしもまだ見習いだけど。でも、一年目で修行から逃げ出したセインさんに教えるくらいのことは出来ると思う。──つまりね、王様に言われたんだ。自分の留守中に息子がここに来たら、容赦なくしごいてやってくれって」

「そ、そんな」

「ちなみに逃げ出したりしたら、王様が帰ってきた時全部言うからね。そうなったら流石に二度と抜け出せなくなるんじゃないかな」

「き、君って子は……」

「だいじょーぶ! あたしだってこなしてきたことなんだから!」

 それはむしろリズだからこそ乗り切れたような厳しい修行だったわけだが、当のリズにまったくその自覚はない。

 なんとなくそれを察知したセインであったが、いつしか首根っこまで鷲掴みにされている彼に抗うすべはなかった。

「平気平気、なんとかなるよ!」

 泣きっ面となったセインを、リズは適当にそんな言葉で励ます。

 それから少女は、空いている方の手で『クォランスィネ』の時計を握って、ひとつの誓いを立てたのだった。


 スィーは、この時計のことを自分の妹だと言っていた。

 なら、それを身に着けているあたしも妹だ。

 だからあたしは、いつか絶対に、スィーをお姉ちゃんと呼んでやるんだ。


 それはまだ、リズだけの秘密の誓いである。

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