第一章 時計の話 ④
翌日──修理開始より十一日目となるその朝から、リズは時計を組み立て直す作業に取り掛かった。スィーが用意してくれた歯車は元からそこにあったかのようにぴったりと嵌まったため、すぐに外した部品を戻していく工程に移行する。最終的にパーツは百どころか三百以上ありそうだということが判明していたが、分解しきる前に故障箇所が特定できたことが幸いし、対象となる部品は半分程度。本来はすべて分解してオーバーホールすべきだが、この場は一旦諦めて、セインに返す際に改めて申し入れる予定だ。
半分とはいっても、手の平サイズの機械に百五十もの部品を精確にはめ込んでいく労苦は、想像に難くない。朝から始めた組み直し作業だが、最後のパーツを埋め込んだ時にはとうに日が沈んでいた。それでも、あらかじめ元の状態を写し取っていたからこそこの時間で出来たと言うべきであろう。
だが、何はともあれ完成である。文字盤をはめ込み、リズはどきどきしながらリュウズを巻く。折々で動作確認はしているため問題はないはずだが、どうしても緊張してしまう。
リュウズから指を離した途端、カチ、と秒針が時を刻んだ。わぁ、とスィーが手を合わせる。リズは一緒に喜びたい気持ちを抑え、別に用意した時計と時刻あわせをしてから針のペースに狂いがないか検証する。──秒針、分針、ともに正確。
リズは時計を両手で包み込むようにしながら、じっとその文字盤を見つめた。
スィーがどうしたのかしらと笑顔のままその様子を見守る。
「──や」
「?」
「やったぁ~……!」
小さく、けれどたしかにかみ締めるように、リズは目尻に涙を溜めながら、喜びを表していた。
「……おつかれさま」
ほおっと息を吐き出したスィーが、その両肩に後ろから手を乗せた。『妹』が直ったことの喜びよりも、今はこの子にいたわりと祝福を贈るのが先だと思った。
彼女は肩に置いた手を首に伸ばし、リズの小さな体を抱きしめた。
「おめでとう、リズ。貴方はきっと、お爺さんのような素敵な職人になりますね」
「……スィー。お爺ちゃんのこと知ってたの?」
「はい。『クォランスィネ』の部品はここでしか扱っていませんから。卸し先は限定されていますし、その店主の方々とは僅かながらに面識もあるんです」
「そうなんだ。……お爺ちゃん」
リズは時計を顔の高さに持ち上げた。品の良い音を立てて緩やかに時を刻むそれは、少女がたった今蘇らせたものなのだ。奇妙な成り行きで成し遂げたこれを、祖父は認めてくれるだろうかとぼんやり思う。
その時、リズはあることに気付いた。
「あれ?」
「どうしました?」
「うん……ほら、ここ。光が出てる」
リズは時計を裏返した。すると、裏面の中央に小さな穴が開いており、そこから光の線が伸びているのがわかる。
「なんだろ、これ」
試しに光を壁に当ててみると、手の平サイズに広がった光の円の中で、何かが揺らめいて見えた。だが、この時代に映写機のようなものはまだ存在しない。写真すらようやく発明されたばかりの技術水準なのである。職人の卵とはいえ、せいぜいリズにわかるのは、壁に映ったそれがなんだかぼやけているようだ、という点だけだった。
「おそらく、何らかの絵や文字をこの光の中に映し出すような機能なのだと思いますが……」
「スィーも知らないんだ?」
「私も全ての発明品を把握しているわけではないんです」
「そっか。なんか文字みたいに見えるけど……読めないね」
リズは時計を机の上に立て置きし、壁に近寄った。だが間近で目を凝らしても、やはり何が映し出されているのか判然としない。
「うーん、時計の部分は直ったと思ったのになぁ。なんだかよくわからないけど、この機能も直さないと駄目だよね」
とはいえリズにしてみれば完全に未知の技術である。時計であればかじりついてでも直そうと思うが、畑違いで手のつけようも無い場合はどうすればいいのだろう。
リズが肩を落としたのを見て、スィーが慌ててフォローを入れた。
「で、でもほら! なんだか時計の進みに合わせてぼやけ具合も変わっていってませんか? きっと時計の部分と何か関係があるんですよ!」
ほらほら、とスィーが指し示す箇所を見れば、たしかに一秒単位で文字らしきものの輪郭は変化しているようだった。
だが、それにどんな意味があるのだろう──
「あ」
「どうしました?」
「んっとね、修理してる途中で一つ用途のわからない歯車があったのを思い出したんだ。どう考えても普段動くような位置にないやつだったから、はじめは永年時計用なのかと思ってたんだけど」
「永年時計?」
「うん」
ことりと首を傾げたスィーに、リズは簡単に説明する。
永年時計とは、暦のずれに永久的に対応する時計のことである。
人間が採用している暦の進みは、現実の時間の流れと僅かな誤差がある。そのため、ごく稀に補正を与える必要があった。代表的な例がうるう年だ。そしてより長いスパンでは、うるう年でも対応しきれない誤差が発生する。それこそ、百年に数秒という単位で。
そして、この百年に一度だけ訪れる数秒のずれに対応したのが、永年時計と呼ばれる品である。言うまでもなく、そのためにわざわざ機能を付け加えるよりも、手でずれを直した方が早い。ゆえに永年時計は、時の貴族や職人達のこだわりの中にのみ存在する、嗜好品といって差し支えの無い品物であった。
そしてリズが修理した時計には、この機能が搭載されていた。つまり、百年に一度しか動かない歯車が内蔵されていたのである。
「でもね、あたしが見つけたのは永年時計の歯車とは別のものなんだ。後で考えようと思ってて、いつのまにか忘れてたんだけど」
えへへ、とリズは頬を掻く。思い出せたから良いようなものの、職人としては随分とうっかりした話だ。
だがスィーは手を合わせて喜ぶのだった。
「凄いです、リズ。ではでは、その歯車をどうにかして直せば何かがわかるかもしれないんですね!」
「あ、あはは」
リズは苦笑いした。どうにかして直せば、何かが──スィーの物言いは大雑把にすぎるが、自分を励まそうとする意図が感じられるだけに、悲観的なことは言いたくない。
とはいえ、その先のアテがないというのが本当のところであって。
「でもね、歯車や周辺の部品は、たぶん壊れてないと思うんだ。いちおう個別の継ぎ目はチェックしたんだもん」
「ええと……ということは?」
「どう直せばいいのかわかんないの」
結局リズは正直に言うことにした。どうあれ、誤魔化しようがないのだ。
「そうですかー……」
今度はスィーがしょんぼりと肩を落とす番だった。だがリズが何か言葉をかけようと手を伸ばした途端、その顔がはっとしたものに変わる。
「そうです! こう考えればいいのでは?」
「な、なになに?」
「つまりですね、きっとリズは何も間違ってないんですよ。完璧に時計を修理してみせたんです」
「?」
「ですから、この時計はもう直っているんです。その上で、この映像がぼやけているのはなぜなのかというと──おそらく、別の操作をする必要があったんだと思うんです」
「別の操作?」
「はい。といっても、見た目はただの時計ですから、出来ることなんてほとんどありません。せいぜいがねじを巻くことと──時刻合わせだけ」
「あ」
「気付きました? そう、きっとこの映像は、特定の時刻にのみ正しく表示されるんですよ。そしてその時刻とは」
「この歯車が動く時刻……?」
「はい。私もそう思います。リズ、どのタイミングでそれが動くのかはわかりますか?」
「うん……うん! わかるよ! やってみよう!」
それから二人は、リズが突き止めた予想日時に時計の針を合わせる作業に取り掛かった。
幸いその日時は現在に近い年月日のものだったため、さしたる苦労もなく時刻合わせは出来そうだったが、これが離れた日付であったらさぞや面倒なことになっていただろう。
なにしろ問題の歯車は、リズが間違えたのもむべなるかな、百年に一度しか動かない設計となっていたのだ。最悪は、百年後まで時計を進めるか戻すかする必要があったわけである。
「運が良いよねー」
「ですねー」
と暢気に笑い合いながら二人で交互に進めていた針が、リズの番で目的の日時となった。
ごくり、とリズが唾を飲み込む。一度スィーと目を合わせてから、そぅっと壁に時計の裏面を向ける。
「あ……」
二人の口から、それぞれに声が漏れた。
結果は明らかだった。
そこには、期待通りに幾つかの文字列がはっきりと映し出されていたのである。
しかし──
「……どういう意味だろう? これ」
リズは喜んだのも束の間、うーんと首を傾げた。
壁に映った文字は、当時の一般的なものである。特に問題なく読み取ることが出来る。
それはこのように書かれていた。
ドゥヴァン丘
五の月/十七の日
「……どういう意味かな、これ」
「何かのメモですよね」
うーん、と二人は揃って腕を組んだ。
「ドゥヴァン丘ってどこ?」
「王都の外れです。特に何もない、木々が立ち並んでいるだけの場所なのですが……」
「深い意味はないのかな? でもわざわざ記録させてるのが気になるよね」
「あ、それよりこの日付! これは……」
「あ」
二人の声が重なった。
「今日だ」「今日です」
途端、リズが慌て出した。
「どうしよどうしよ、もう夜だよ! この丘で何があったのかわかんないけど、これって間に合わなかったってこと!?」
「……いえ」
焦るリズの傍らで、深く考え込んだ様子のスィーがかぶりを振った。
「もしかして、これは──だとしたら──」
呟きながら、彼女は窓の外を見た。季節は春。肌寒さは残るが、重ね着はもう誰もしていない。特に今夜は昼の陽気が残っているようで、ちょうど良い気温に包まれ気ままに外を出歩いている人影も多い。
「リズ」
「うん?」
「急いで確認したいことがあります」
「うん」
「お爺さんのお店に向かいましょう」
「え」
言うや否や、スィーはリズの手を引いて外へ向かおうとした。腰の重そうな彼女に突如身軽なフットワークを見せられ、リズは「え、え?」と戸惑いながらもそれについていく。
慌しい道行き──そのさなかにスィーは語った。
「確かめたいのはお爺さんのお店の帳簿です。そこに去年──もしかしたら一昨年もその前もですが──セインさんからの修理依頼があったかもしれません」
「どういうこと?」
「今回リズが行った修理は、毎年の恒例行事だったのかもしれないんです」
「……よく、わからないけど」
「詳しい説明は、実際に帳簿を確かめてからにさせてください。まったくの的外れの可能性もありますし」
二人は出た時の勢いのまま、手を繋いで通りを駆けて行く。時折スィーの背中のぜんまいねじに目を留めてぎょっとする者もいたが──『クォランスィネ』の店主の存在はそれなりに知られているのか、あるいは巷にねじもスパナも溢れ返るゼフィールの街の特性か──あえて声をかけてくるような人間はいなかった。
フォーセッタ時計店に到着した二人は、早速帳簿の捜索に取り掛かった。店の収支に関するもののため、差し押さえた者に持ち出されている可能性もあったが、幸い杞憂に終わったようでカウンター裏からあっさりと見つかる。
そして、中を検めてみれば──たしかに、スィーの予想の通りだった。去年の今頃。そればかりか、一昨年、更にその前年と、Sain Feriksの受け渡し署名が定期的に現れているのである。
「本当にあった……」
「良かった。無駄足にならなくて済みました」
スィーは手を合わせてふんわりと微笑んだ。つられて笑みを返したリズは、そこであることに気付く。
「あれ? でもFeriksって珍しい綴りだね」
「あ……そうですね。この国なら、フェリクスはFerixとなるのが一般的ですし。となると……いえ、これはきっと……」
スィーは目の前の空間に幾つかの文字を描きながら、思考を巡らせ始めた。さっきのように、また何か推測が生まれたのかもしれない。リズは今度は静かに見守った。
「──なるほど」
ややあって、そんな呟きをスィーが発する。リズが目を向けると、こっくりと頷きが返った。
「おそらくですが──セインさんは、Ferixと綴っても問題なかったんじゃないかと思います。ただ、少しだけ、『こだわって』しまった。もしかしたら名前というものの扱いに、特別の思い入れのある方なのかもしれません。そしてその思いがこの署名となって現れたのではないかと」
「どういうこと? ……スィー、何かわかったの?」
「はい。この署名で裏づけが取れました。つまり……リズは、ぎりぎり間に合ったのだと思います」