第一章 時計の話 ③
やると決めてからのリズの行動は早かった。
手始めに、『クォランスィネ』の店内の一隅を借りて作業スペースにさせてもらう。はじめは遠慮したものの、スィーから「お客さん来ませんから」と微笑まれてしまったので、好意に甘えさせてもらうことにした。もちろん口には出さなかったが、この性格では客が来ても隠れるだけで商売にはなってないんだろうなと思ってしまったのも嘘ではない。
設備についてはその夜再びフォーセッタ時計店に忍び込み、最低限必要なものを盗み出してきた。祖父の愛用品が見知らぬ誰かの手に渡るのは内心悲しかったので、悪いことと承知しながらも決行に踏み切った。びくびくしながら荷物運びを手伝ってくれたスィーの手前、迷う顔は見せられなかったが、差し押さえた人にはどこかのタイミングで品々を返却し、罪を償う必要があるだろう。
(さて、っと)
環境を調えた後は、いよいよ修理の開始だった。文字盤を外して内部を露出させてから、まずは全体の構造を紙に写し取る。それから意を決して分解に踏み切り、随時写し取りを行なって各所の状態を記録しながら、取り外したパーツを作業机に並べていく。
時計は大きく、動力部、輪列部、調速脱進部に分かれる。側面に突き出たリュウズを回すと動力部のゼンマイが巻かれ、それが戻る力で輪列部の歯車が回る。歯車には分針や秒針が取り付けられており、時刻を表すというのがおおまかな仕組みだ。ただし、それだけでは針は『回る』だけで『刻む』動きをしない。そのために存在するのが調速脱進部で、ここが針の進む角度やタイミングを調節しているのである。
だが分解を進めていくうちに、改めてリズはこの時計の手強さを知ることとなった。パーツの多さも呆れるほどだったが、先に言った各部ごとの区分けが曖昧なのだ。ゼンマイを収容した『香箱』からは幾つもの輪列が伸び、それぞれが途中で絡み合っているし、中には分岐して戻るような不可解な構造の箇所まで存在していた。通常、各部の区分けを明確にしないことにメリットはないはずなのだが、そうした常識から外れた品らしい。かと思えばその一方で、先日リズが気付いたような最新の精密技巧が凝らされていたりもする。
リズはそれら複雑極まる内部状況を、逐一自分なりに紙の図面に落とし込みながら、理解を進めていった。途中で故障箇所が特定出来ればまだ良かったのだが、密接に絡み合った構造がそれを許さない。後戻りできなくなる恐怖を抑えながら、リズは三歩進んで二歩下がるような分解作業を進めていくしかなかった。
「とーんとーん、とーんとーん」
作業は夜を徹し、朝になっても続く。ぐったりと椅子に背を預けて体を休めるリズの肩を、スィーが歌いながら叩いてくれた。母親を思わせる優しい声に、まだまだ幼いリズはふと目を震わせる。スィーとて付きっ切りでリズの作業のサポートにまわっており、疲れは相当溜まっているはずだが、おくびにもそんな様子を見せない。お母さんもこうだったなぁとうとうとしながら微笑んだリズは、そういえば、と思った。
少女は昨日の朝からこの店に滞在しているが、一度としてスィーが食事するところを見ていないのだ。自分は作業しながらスィーが作ってくれるサンドウィッチなどをぱくついていたため、てっきり彼女は別の場所で取っているのだろうと思っていたが、それにしたって一度も見かけないのはおかしい。考えてみればトイレに立つ姿も見た覚えがない。
(もしかして、スィーは本当に──)
リズは夢うつつでそんなことを考えながら、やがてまどろみの中に意識を浸していった。
◇
昼近くとなったので、食材の買出しがてらリズはフォーセッタ時計店の様子を見に行った。運がよければセインに出会えるかもと思ったが、残念ながら彼の姿は影も形もない。向かいの店の主人がたまたま店先を掃除していたので、セインの身なりを伝えておき、もし見かけたら自分が『クォランスィネ』にいることを教えてくださいと依頼する。しかし、あくまで仕事のついでに頼むだけであるので、期待しすぎるわけにはいかなかった。
『クォランスィネ』に戻ったリズは、引き続き修理を再開した。アンティーク時計の修理に要する時間は、一週間程度はざらで、時として一ヶ月を越える場合すらある。今回の品は明らかにそのクラスのものであり、一朝一夕で片がつくような代物ではない。リズもそれは覚悟の上だ。だが、いつまでも『クォランスィネ』に厄介になり続けるわけにもいかない。両親に何らかの報告も必要だろうし、懐の余裕もないのだ。セインから渡された金貨はあくまで前金のため、手をつけるわけにはいかなかった。
そうした焦りの中で繊細な作業を行なっていれば、当然ミスも生まれる。落ち込みもするし不安にもなるだろう。普通の人間であれば、どこかで諦めの理由を探し始めるはずである。
だがリズ=フォーセッタの本領はここで発揮されることとなった。そもそもが、八歳にして親元を離れ時計職人に弟子入りするほどの熱意を持つ少女なのである。
リズの性格は生来のものだ。実直に農家を営んでいる両親からは考えられないような大胆さを持ち、女の身ながら有り余る元気を近所の悪童たち相手に発散させているような少女だった。力では劣るもののはしっこく立ち回って当時のガキ大将を翻弄して相打ちに持ち込み、相手から思い返すと身悶えするような恥ずかしい二つ名をつけられた記憶もある。
両親はそんなリズの行く末を慮り、女らしく振舞うようありとあらゆることを試した。分不相応と承知ながら淑女たちの通う貴族学校へ放り込もうとしたこともあるし、いっそその元気を活用しようと、貴族令嬢の周辺を守る女官たちの養成施設へ入所させたこともある。
だが、リズはそのいずれにも馴染めず──両親は頭を抱えることとなったのだが、今となってみればこれは全てが杞憂だったのであった。
誰に指示されるまでもない。リズは自分から進むべき道を選び取ったのだ。祖父と同じ、時計職人という道を。
勿論、これには誰もが意表を突かれた。なんの冗談だと笑った者も多い。あの凶暴ハムスターにそんな繊細な仕事が勤まるはずがないと、町中で噂となった。
だが、誰もが見逃していたのだ。日々暴れ回っている少女には、祖父より受け継いだ手先の器用さが備わっていたという事実に。そして太陽にも似た無限の活力がそこに加われば、これ以上ないほどの適性を示すであろうことに。
それが露わになったのは、リズが職人のもとに弟子入りしてすぐのことだった。師を務めた老人は、かなりの老齢である。そんな彼にリズを制御出来るのか、両親ですら不安だった。だが、少女は修行において極めて勤勉であった。道具があれば、課題があれば、指導されるまでもなく脇目も振らずに取り組む。師の手を煩わせることの全くない、模範的な生徒だったのである。
そんな少女だったゆえに、リズの技量は実のところ、本人が自覚している以上に高い。修行期間は実質五年だが、通常三年で終わる過程にこれだけかかったのは少女に適性がなかったからではない。師がリズの祖父の主義を汲み入れて、本人には知らせぬまま徹底した英才教育を施そうとしたためである。実際、師は当初、リズの一人立ちには十年先を見据えていた。それを、少女が五年に縮めたのである。──ただし、最終段階に至る直前で少女は師のもとを飛び出してしまったわけだが。
ともあれ、リズの適性の高さにはそのしつこさに起因するものが多かった。
だから──修理を始めて十日後の夜、リズが故障箇所をとうとう突き止めたのを単なる幸運だと見なすのは、少女のその間の努力を正しく評価しない穿った見方なのだろう。
少女がその執念の力で、暗闇の中から引きずり出した故障箇所。
それは、ガンギ車(針の振れ幅を調節する歯車)の車軸だった。
リズは最初、それをクロノグラフ(ストップウォッチ)の一部として使われているものだと判断した。クロノグラフは稼動頻度が通常の針より低いために消耗も少なく──そのため熟練した修理工であるほど、故障の候補から外してしまいがちな面がある。
しかし、実際にはこの時計のガンギ車は、分針用の歯車とも連動していた。ゆえに消耗はむしろ激しく、よくよく見れば爪が一つ折れてしまっていたのである。通常の時計では考えられない複数連動の仕組みは、有意性に乏しいだけに、やはり熟練した者ほど難儀する壁となっていたはずだ。
しかしリズは、新米であるがゆえに一つ一つの機構を見定めてから次へ進んでいた。そのため、運良くこの罠に陥らずに済んだのだ。
少女の類まれな根気と、幸運の女神が微笑んだこと。その両者が合わさって初めて成し遂げられたそれは、一つの奇跡と呼んでようやく相応しい出来事だったのかもしれない。
「見つかったぁー……」
一度大きくバンザイをしたリズは、そのまま椅子から転げ落ちるように床に倒れこんだ。スィーが慌てて駆け寄ると、すうすうと寝息を立て始める。
本当に限界だったのだろう。この十日間、リズは仮眠以外まったくとっていなかった。それでも机に倒れこんで並べた部品を乱してしまわなかったのだから大したものだ。
「おつかれさま」
スィーは眠るリズに毛布をかけてやると、故障していた歯車の外見を目に焼き付けた。ミリ以下の精度で作られたそれは、フォーセッタ時計店から持ち込んだ設備でも作り出すことは出来ない。だからここの倉庫を漁って交換用の在庫を見つけ出す必要がある。
(それは私の仕事ですね)
スィーはリズの髪を軽く梳いてから立ち上げり、裏手の倉庫へと向かった。どんな歯車でも、彼女であれば見分けるのは容易だ。その瞳は百分の一ミリの差ですら判別をつけることが出来る。
「ありがとう」
私の妹のために頑張ってくれて。
スィーは歯車を探しながらそう呟く。もちろん後で改めて礼を言うつもりだったが、言葉が溢れるのを止められなかったのだ。それほどに、彼女の心はリズへの感謝で一杯になっている。
そしてスィーは、予感を覚えるのだ。
何の根拠もないのだけれど、どうしてか自分はきっと、この先幾度もこうして少女に感謝することになるだろうという──そんな予感を。