終章 彼女達の話
後日、スィーはフォグ王子から城に呼び出されていた。
兵士に通された場所は、先日と同じカリーナの居室である。
スィーが部屋に入った時はまだ王子はおらず、カリーナだけが彼女を出迎えた。
「ごきげんよう、クォランスィネ。王子が来るのはもう少し後になります。それまでは楽にしてください」
カリーナはスィーに来客用のソファを勧めると、自身も向かい側に座った。
それからテーブルに両肘をつき、組み合わせた手の上に顎を乗せてまじまじとスィーのことを見つめてくる。
「……な、なんでしょうか?」
遠慮ない視線を受けて、スィーはおどおどと尋ねた。だがカリーナは無言だ。興味深そうな顔でスィーの一挙手一投足を眺め続けてくる。
ローゼリアきっての才媛の眼差しは、スィーの何もかもを見透かそうとするかのようだった。なぜそんな目を向けられるのかわからないスィーは、ただ小動物のように身を縮こまらせるばかりである。目を閉じて、早く王子が来るよう彼女が祈った時──カリーナが口を開いた。
「私と王子との睦事はいかがでしたか?」
「え?」
スィーはぎょっとした。一瞬、何を言われたのかまるで理解出来なかった。だが意味がわかってくるにつれて、頭から血の気がすうっと引いた。蒼白となった彼女は、寸刻前まで怯えていたことも忘れてカリーナに問うた。
「な、なぜそれをご存知なのですか?」
明らかにカリーナは例の『筒』のことを知っていた。あの道具によってスィーとリズが彼女と王子との情事を覗き見てしまったことを、はっきりと認識しているようで──
「部屋の窓から光るものが見えましたからね」
カリーナは平然と答えた。
「王子が弟殿下を疑っていたことは承知なさっているでしょう? 何者かが私の部屋を監視していたことはすぐ私も気付きましたので、少々泳がせるつもりだったのです。感づかれない程度にカーテンに隙間を空けて」
「わ、わざとそのようなことを?」
「王城といえども二階程度の部屋ですと、少し高い位置から望遠鏡で簡単に覗けますからね。他の皆様は普段からしっかりと窓もカーテンも締め切っておられます。ですが私は時折、あえて隙間を設けるのです。そうして王子に害をなす蛇たちを誘い込む──言わば、私は生き餌みたいなものなのですよ。まあ今回は、あなた方に先を越されてしまいましたが」
くふふ、と心底愉しそうに笑うカリーナ。スィーは呆気に取られてしまった。
「で、ではカリーナ様は、見られていることを承知で、あのようなことまで……?」
いくら外からの視線に気付いていない風を装うためだといっても、ものには限度があるとスィーは思うのだが──
「やがて王となられるフォグ殿下の妻となることを決意してより、私はこの身を国家に捧げています。他人からの視線に痛痒を感じることなどありません。もっとも、王子はあなた方に見られていたことをご存知ないのですけど。一応そちらは秘密にして差し上げてください」
あの方は割合繊細なところがありますからね、とカリーナは悪戯っぽく片目を瞑った。
「はあ……」
何と言って良いものかわからず、スィーは曖昧に頷いた。内心では呆れ返っていたのだが。
大変な才を持つ人物ではあるのだろうが、どうやらフォグ王子の伴侶はそれ以上に変人であるようだ。
(それとも、真面目な王子と案外とバランスが取れているということなのかしら)
失礼とは承知ながら、ついそんな風に考えてしまうスィーであった。
◇
カリーナとの対話は、続いてフォグの祖父とカイルを殺害した人物が焦点となった。
彼女によれば、セインが二人の殺害に関与した証拠は発見されなかったらしい。しかし、逆に関与しなかったという証拠もないらしく、当面は保留扱いとなっているとのことだった。
「予想はしていたのですが、やはりこの件は根が深いのです」
先日彼女のパートナーが使った表現と同じ言葉を口にしながら、カリーナは肩を竦めた。
「お二方を殺害した犯人が別にいるとしても、どうにもフライゼ王子との関わり方が中途半端で、実像が掴めません。まるで、フライゼ王子の目論見が成功することを始めから期待していなかったかのような、そんな投げやりな印象があるのです」
「投げやり、ですか」
「ええ。居心地の悪い話ですが」
そういう掴み所のない相手は、大抵厄介なものですしね、とカリーナはまた肩を竦める。海千山千の彼女の手にも余るというのだから、スィーなどでは見当もつかない。ただ目を白黒させるばかりだ。
そんなスィーにカリーナは苦笑を送ると、
「このくらいにしておきましょうか」
と話を他愛ないものへとずらしてくれた。
その後、程なくしてフォグ王子が現われたので、次代の王妃は一礼して部屋から退出していった。なにやら王子の名代としての公務があるらしい。その足取りの優雅さと、一瞬で余所行きの顔を作る手際の良さにスィーは舌を巻く。
さておき、息つく間もなく今度はフォグとの面談である。カリーナの話の直後で上手く思考の切り替えが出来る自信がスィーにはなかったが、王子の表情を見るなりその心配はどこかへ飛び去った。
常より額に皺を寄せ、弛緩した顔など見せたことのない王子だったが──この時の彼の表情は、平時と比較しても類のないほどに硬く強張ったものだったからである。
喩えるなら、一国の大事を語ろうとするかのような──
(いえ、本当にそうなのかもしれない)
スィーはかぶりを振った。
奇妙なほどに強い、確信があった。彼がこれから話そうとしている内容は、間違いなく王家の秘事に関わることだ。
それをどうして自分に打ち明けるのかは聞いてみないとわからないが、心しておく必要がある。きっと、自分やアルマンドにも大きく関係のある話なのだから。
「──これから私が話すのは、フローリカ王女についてのことだ」
そして予測通り──カリーナと入れ替わりにソファに座るなり、王子はそう前置きして話を始めた。
彼女は、生前に子を宿していたのだと。
「知っての通り、アルマンドは王族入りを見込まれた職人だった。だが、王女は彼との子を宿したことによって体力を胎児に奪われ、急速にその身を衰えさせていった。そんな状態で出産を迎えたため、かなりの難産だったらしい。結果、子は一命を取り留めたものの彼女は死亡。アルマンドは絶望し王宮に姿を見せなくなった」
フォグは執務机の隣に立って、正面からスィーと向き合っていた。
王家の秘を、堂々と口にする。それは危険な行為だが、彼はこうすることで誠意を示すつもりなのだろう。
「ここからは記録にも残されていない話となる。私も父より口伝てで聞いたのみだ。──当時、国王には世継ぎがいなかった。まだ若い身ではあったが、政争は苛烈なものだ。いつ暗殺者に命を奪われるかしれない。そうなったときに後を継ぐ者がいないとあっては、周囲が不安がる。そこで、国の安定のためにも早急に世継ぎをもうけておく必要があった。
後は想像できるだろう。物語でも実際の政治の中でもままある話だ。その時以来、フローリカ王女の子の記録は途絶え、いつしか最初から存在しなかったものとされ──代わりに王には跡継ぎが生まれた。おそらく、この時王家とアルマンドとの間でも他言を禁じる取り交わしがあっただろう」
フォグはそこで、執務室の壁に掛けられている絵画の一枚に目を向けた。
それは、彼の母──若くして死去したローゼリア女王の生前の肖像画であった。
「この話を私が聞いたのは幼い頃だ。当初は、父がああした性格ゆえにあまり信じる気にはならなかった。だがすぐに、王女の似姿であるお前の顔立ちが母とよく似ていることに気付いた。となれば世迷言と流すわけにもいかなかった。無論、フローリカ王女も王族の一員だったわけだが、母とは直接の血の繋がりはなく、本来似るはずがないのだ。王家の女系に短命傾向が生じたのがこの時からだったという点も、父の話に一定の信憑性をもたらした」
フォグはそう言って、スィーに視線を戻した。
「はっきりと告白する。私はこの時より、お前を母やフローリカ王女に重ねて見るようになった。同時に、似て非なる存在であるお前を許せないとも思った。幼い頃に母を亡くした子供ゆえの無意味な執着と笑ってくれて構わない。だがその時誓ったことが、自分でも気付かぬうちに私の行動に影響を及ぼしていたらしいと、今ならばわかる。アルマンドの作品を徹底的に調べ上げ、有用性と危険性の双方を見極め──その上で、私は誓ったのだ。クォランスィネよ、悲劇の落とし子よ。心を持ち、心に振り回される出来損ないのお前には、永遠の管理者たる任は重すぎるだろうと。遠からずアルマンドの楔から解き放たれるべきだろうと」
「フォグ王子……貴方はずっと、そのことを……」
「時計士の娘に『クォランスィネ』の時計の補修を課したことも、端緒は同じだ。私はお前が自ら任を降りる決断をすることを望んでいるが、それまでの間であっても、『クォランスィネ』に相応しくない者があの場にいることを認める気はない。──だが、あの娘はそれを乗り越えた。ゆえに私は己の未熟な感情もろとも全てを話し、お前に謝罪しようと思ったのだ」
フォグはそこでソファから腰を上げ、スィーに向かって頭を下げた。
「済まなかった」
◇
「リズ? まだ起きていますか?」
その日の夜。
街の人々が寝静まる頃、スィーの雑貨店も穏やかな眠りに就こうとしていた。
スィーはリズ用に本格的に補修した部屋のドアから顔を出し、住人の姿を探す。
「どしたの、スィー?」
リズは風呂で濡れた髪をまとめていた髪留めを、後ろ手で外そうとしているところだった。きょとんとしたその顔には、最近までずっと付き纏っていた影は見えない。セインのこと、クラウスのことを聞かされてひどく衝撃を受けていた少女だったが、ようやく立ち直りを見せつつあるようだ。
スィーは少女を自分の部屋へと誘った。共に暮らすようになって一ヶ月以上経つが、リズはスィーの部屋には数えるほどしか入ったことがなかった。倉庫そばにあることもあり、あまり近づいてはいけない場所のように感じていたのだ。
だが、正式にここの店員となった今、余計な遠慮は無用だと考えたのだろう。少女は嬉々としてスィーの後についてくる。
──リズはあの後、クォランスィネ時計の修復をなんとか成し遂げ、初級時計士の資格を得ていた。技術的には中級技士となっても問題ない難度の試験をパスしたわけだが、フォーセッタ時計店の設備を盗み出したことが協会に知られるところとなり、階級を落とされてしまったのだ。
幸いにして、協会が差し押さえていた人物から債権を買い取っていた──クラウスの道具が誰とも知らぬ者の手に渡るのは協会にとっても望むところではなかった──ため、ガシュパールの口添えで刑事罰は避けられた。無論、リズにとっては望むべくもない結果だと言えるだろう──
「リズ。お願いがあるんです」
部屋に腰を落ち着けてから、スィーはリズにそう切り出した。
彼女の願いとは、今日からは寝る前に、いつも自分の背中のねじを巻くようにしてほしい、というものだった。
そういえば今までどうやって巻いていたのかとリズが尋ねると、アルマンドの装置を使用していた、とのこと。そして装置は椅子の形をしていて、部屋の中に普通に置かれていた。よく見れば、背もたれの部分にねじをかみ合わせるパーツがある。いつかの『鏡』と同様、風力をゼンマイに溜め込んでおき、スィーが座って装置を稼動させるとねじが巻かれる、という仕組みらしい。
では自分にねじ巻きを頼むのは、装置が故障したためなのかとリズが尋ねると、スィーは笑ってふるふると首を振る。けれどそれ以上は理由を話してくれず、ただお願いしますと頭を下げるのだった。
しょうがないな、とリズは苦笑いして、普通の椅子に座るスィーの背中に回りこんだ。滅多にない彼女のわがままが、内心では少し嬉しかったのだ。
「これでいいの?」
ねじは簡単に回った。それでも念のため、両手で丁寧に回していく。はい、と頷いたスィーがどこか気持ち良さそうにしているのを見て、自然とリズも優しい気持ちになる。
少女は知らない。スィーにとって、自分のねじを他人に巻かせることが、どういう意味を持つのかを。彼女がどんな思いで、少女にねじ巻きを頼んだのかを。
ねじを巻かなければ、スィーは動きを停止する。しかし、再び巻かれれば動き出すことを考えれば、それは一時の眠りにつくようなものだと人は思うかもしれない。
けれど、ねじは自分では巻けないのだ。一旦停止すれば、次に動き出すのはいつになるのかわからない。何年後か、年十年後か。百年以上先となる可能性だってある。
その間に、壊れてしまうことも有り得る。もし壊れなくても、目覚めた時に自分の知っている人は誰も生き長らえていないかもしれない。そしてスィーは、自分の心がそうなった時に耐えられるとは思えないのだ。
彼女にとって、ねじが止まることは死に限りなく近い恐怖だった。
そして──だからこそリズにねじ巻きを頼みたいと思ったのだ。
だがスィーは少女に、その理由を話すつもりはなかった。これは、自分自身に対しての意思表示だったからだ。このいのちは、少女と共にあるのだということの。
だから、やがてリズが生命を全うし、一人残された時には──スィーはもう、二度とこのねじを巻かないつもりでいた。
自分の中に存在する、フローリカ王女の記憶。アルマンドへ誓った「生き続ける」という意思。
それら全てを、その時なら解き放つことが出来るように思うのだ。
──だから、いつかその日まで。
少女と共に過ごす、これからの日々を胸に描きながら、スィーはそっと目を閉じたのだった。