第三章 箱の話 ⑥
部屋は、疑いようもない血臭で満たされていた。
華やかな家具も調度も、この臭気の中では一変して禍々しく見えてしまう。
ここはフライゼ王子の居室であった。
彼は部屋の正面奥で、壁に背中を預けて座り込んでいた。
「やあ」
フォグの後ろにスィーを見つけると、フライゼ王子──セインはやけに軽い調子でそう言った。
スィーが知る普段の彼とまったく変わらない態度だった。
わき腹から血を流し、額には脂汗を浮かべながら──奇妙なほどに、『いつもの彼』だった。
それがかえって恐ろしく、スィーは総毛立つ。
セインは凍りついたように動かないスィーから視線を外し、背後の壁に頭をつけた。そして天井から吊り下げられた豪奢な照明を眺めながら、口を開く。
「今更言いたいことがそんなにあるわけじゃない。信じてもらえるかもわからないしね。ただ、この身の潔白を証明するものは何一つないのだけれど──それでも言わせてもらうなら、僕はリズのお爺さんについても、カイルの件についても、手を下したりはしていないんだ。もちろん、誰かに命令したわけでもない」
「……それは」
スィーは、搾り出すように問うた。
「本当、なのですか?」
そうであってほしいと。どんなに他の罪が重なろうと、この一点だけは彼を信じたいと思っていたことだった。
けれどセインはスィーの確認には何も答えを返さなかった。これ以上言葉を連ねても無意味だということなのだろう。代わりに彼の口からは、ごほ、と嫌な音の咳が零れる。
だがセインは、咄嗟に近寄ろうとしたスィーを手で制した。そして言う。
「気遣いは無用だよ。それより、他に言っておくべきことがある。僕の、動機だ」
「……動機」
「うん。もう知ってるだろうけど、僕は職人としての才能に恵まれなかった。王族なんだから別に構わないじゃないかと普通は思うところだけど、この国は例外だ。王族だからこそ、技量を問われてしまう。実際にそれを使う機会があるわけでもないのに、誇りだか矜持だか知らないけどおかしな話だよ。
で、まあ、僕は脱落した。上に兄貴がいたから将来的に国王になるってわけでもなかったし、そんなに立場は変わらなかったよ。もちろん嘲った目を向けてくる奴もいたけど、実のところ僕はそんなに気にしていなかった。
ただ、どうしても不思議なことがあったんだ。この国にはアルマンドの作品が数多く保管されている。そして、役立てもせずにそれを隔離して、もっと低い技術の中で腕前を競う──これでどうして誇りだのなんだのと言えるのかな、って。
だから、それを一旦崩してやろうと思ったんだ。『クォランスィネ』を世に晒し、職人達の張りぼてのプライドを粉々にする。その後で這い上がった者がいるなら、そいつは本物だ。この国の職人として相応しいと思うし、僕も心から尊敬できる」
「……そのために、あんなことを?」
「ああ。ずっと前から考えていたことだよ。ちなみにスィー、君は、僕が次々とリズを使って君を脅迫し続けるのだと思ってるんだろうけど、それは正確には少し違う」
「どういうことですか?」
「僕はすべての『クォランスィネ』を手に入れることを目論んだ。そのためには、いちいち君を脅している手間がもったいない。君への脅迫は、二~三回程度のつもりだったんだよ。それだけ不始末を起こせば兄貴がほっとかない。君は管理人としての職を解かれ、あの倉庫は王家の管理下に移る。そうなっても脅迫は有効だからね、最後に倉庫の扉の開け方を聞き出して、君は本当にお役御免だ。もちろん君自身も『クォランスィネ』の一つなわけだけど、ちょっと扱いが難しすぎるからね。罪を問い質して停止か廃棄か、いずれかの処分に持ち込むつもりだった」
「……」
自分についての恐ろしい未来図を語られ、スィーは黙り込んだ。
代わりに、フォグが口を開く。
「結局お前は『クォランスィネ』の魔力から逃れられなかった、ということか」
「兄さんだってまったく同意出来ない話じゃないだろう? 元々王家で管理する方針に賛成していたよね」
「管理はするが、世にまとめて広めるつもりなどなかった。あれは劇薬のようなものだ。我が国の柱たる職人達が一旦根絶やしにされることになる。そうなれば国家としての運営が成り立たん」
「『クォランスィネ』を使えばその損失は補えるんじゃないか?」
「誰がその利益を分配する? この国の成り立ちを忘れたのか。王家による独裁などが通用する国ではない。商業国家としての緩やかな政治体制でなければ、あらぬ邪推を呼んで東西の大国の侵略に晒されるだろう」
「その時こそ『クォランスィネ』の出番じゃないか」
「お前はあれを妄信しすぎだ。量産化は見込めず、兵器など一つもない『クォランスィネ』で、他国の軍隊にどう抗うというのだ? そろそろ弁えるがいい。お前は心が弱く、かの品々の誘惑に屈して道を間違った。それだけの話だ」
「……相も変わらず自分のペースで喋る人だな、兄さんは」
セインが血に塗れた手で額を押さえた。フォグは冷徹に言葉を被せる。
「主張は終わりか?」
「そんなわけがないだろう……。この程度のやり取りで覆されるほど浅い考えでいたわけじゃない。ただ……頭がふらつくのが抑えられない」
「その傷で無理に議論しようとするからだ。普段のお前はもう少し話せる」
「この期に及んで慰めないでくれよ。でも、たしかにそろそろ限界かもしれない。もう目もだいぶ霞んできてるんだ」
「動きを封じただけだ。致命傷ではないぞ」
「わかってるよ。けど城の連中も、ずっと兄さんがいないのを不審がってるんじゃないか? ここに捜しにやってくるのも時間の問題だろう。だから──スィー、最後に君に尋ねたいことがある」
「……なんでしょうか」
「君は、どうして主の死後も時を止めない? どうして、あの倉庫の品々と一緒に彼の後を追おうとしないんだ? 『クォランスィネ』は魔性の道具だ。僕みたいに考える人間は歴史の中でも何人もいた。機能を果たさず、ただそこにあるだけで人を狂わせる。君の性格なら、自分がどうなろうともそうした災いの種は消す。まして自分のマスターの作品であればなおさら──と、そう考えるように思うんだ。いったいどうしてそうしないんだい?」
「……それは」
スィーは口ごもった。
セインの問いかけは、実のところいつもスィー自身が自分に向けてしているものでもある。
けれど、それに対する明確な答えは決して見つからなかった。
正しくは、どのように『この感覚』を言い表せば良いのかがわからなかった。
スィーの中には、奇妙な記憶がある。
それは、本来ありえるはずのないものだ。
寝台に寝かされている自分。
枕元には異国の青い花。
そして──ベッド脇に膝をついて、自分の手を握ってくれるアルマンドの姿。
彼は目を閉じて、一心に祈っていた。
悲痛なその表情を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。
「生きてくれ」と、彼は願っていた。『私』に、どうか生き続けてくれ、と。
だから『私』は、声にならない声で、はい、とそれに答えて──
記憶はたったそれだけだった。
どうしてそんなものが自分の中にあるのかはわからない。
わからないけれど──想像できてしまうことはある。
だけど、それ以上考えて事実を知ってしまうのが怖かった。
だからスィーは、マスターの手の感触だけを思い出して、それに縋った。
けれど、それは呪いでもあった。
彼女の胸の中にだけ存在する、優しい呪い。
「生きてくれ」
はい、と彼女は頷いた。
「生き続けてくれ」
はい、と彼女は頷いた。
この命は、貴方のためにあるのだから。
だから、道果てるまで、私はこの場所で。
この場所で、静かに時を刻み続けるのです。
◇
「それは──言えません」
スィーは長い沈黙の末に、そう口にした。
この記憶は、自分の裡にだけ留めておかなければいけないものだと思った。
「……そうか」
セインはそれ以上問い質してこなかった。
音の絶えた部屋の外から、その時ばたばたとした足音が近づいてきた。
かと思うと、「失礼します!」との大音声が響く。
フォグはちらりとセインを一瞥すると、扉に向かって「入れ」と告げた。
「フォグ王子! こちらに弟殿下と共にいらっしゃるとカリーナ様から伺いまして──え?」
入ってきたのは若い兵士だった。彼はすべてを言い終える前にセインの姿に気付いて愕然とする。
「え、え……こ、これはいったい……!?」
「落ち着け。大声で騒ぎ立てるな。戻って医務官を呼んでこい。それと担架だ」
「は、はい!」
慌ててばたばたと走り去っていく兵士を見送ったフォグは、今度はスィーに目を向けた。
「クォランスィネよ。あと僅かで貴様と愚弟とで話をする機会は失われる。最後に伝えることはあるか?」
「最後……」
スィーはフォグからセインに視線を移した。
徐々に意識が朦朧とし始めているようで、瞳の焦点が合っていない。部屋に入った時は悠然としていたが、今は呼吸も荒く、気を失う寸前のようだ。
フォグの言うとおり、これが彼と会話する最後の機会なのだろう。彼はこの後、医務官の手当てを受け、王家の監視下に置かれる。おそらくは誰とも面会を許されず、ひっそりと処罰の日を待つこととなるだろう。たとえそれが死罪ではなかったとしても、罪人となった彼との隔たりは越え難いものとなるだろう。
スィーは唇を噛んだ。
自分のことよりも──リズが可哀想でならなかった。
あの子は、彼がしたことをまったく知らされないまま試験に打ち込んでいる。たとえセイン自身が手を下したのではないのだとしても、彼が祖父の死を利用した事実は確かにあるのに──試験が終わった時には面会も出来ない状態となるのだ。
あの子はどんなにか驚くだろう。どんなにか嘆き悲しむだろう。あの小さな肩に辛い運命を背負わせた世界は残酷だと思う。
スィーはセインを睨んだ。
飄軽な振る舞いの裏で、おそらくは国に対して人一倍の思いを隠し持っていた人。偽名の綴りに現れていたように、王家の一員として自分の名前一つとってもこだわりを持っていたこの人の、今回の行き過ぎた行為を──自分は、冷徹に憎まなければならない。
あの子と共にあるために、自分は人間の愚かしさと汚さとも、向き合わなければいけないのだ。
スィーは、この時初めて、人というものを本心から憎もうとした。そして──望んだとおり、憎むことが出来た、ように思う。
彼女はセインの近くに寄って、耳元で囁いた。
「──貴方の腕前を、リズは……心から褒めてたんです。さすが王家の人だって。すぐに追い抜かれちゃうかもしれないって、嬉しそうな顔で。鏡を貴方が補修した時、たしかに同じ言葉を聞いていたはずなのに……なぜ貴方はそのことを忘れてしまったのですか?」
その言葉を聞いたセインは──束の間スィーの顔を見つめ、それから乾いた笑いを漏らした。
だが長くは続かず、やがて疲れきったように肩を落とし、両手で顔を覆う。
涙を流しているのかもしれない。
けれど自分は決してこの人に同情をしない。してはいけないのだと思う。
兵士が医務官を連れて戻ってきた。てきぱきと血止め措置が施され、セインの身体が担架に乗せられる。
セインは既に意識がないようだった。外へ運び出されていく彼の最後の姿を見送ったスィーは、ぽつりとフォグに尋ねた。
「私は残酷でしょうか」
「それは私が答えるべき問いではないな」
「……すみません」
愚かな質問だった。スィーは素直に詫びる。
フォグはこれから、弟を冷酷に断罪することになるのだ。世間からは権力争いの一つだとあらぬ謗りを受けるかもしれない。だが、彼は一切の躊躇をせずにそれを遂行するのだろう。
「そんなことよりクォランスィネよ。私に何か言いたいことがあるのではないか」
「は、はい……たしかに、ございます」
フォグの方でも既に考慮していたのかもしれない。察しよく発言の機会を与えてくれた彼に、スィーは改めて嘆願をした。
リズの試験を一旦取りやめ、再試験の場を設けること。
その際、試験内容を、『クォランスィネ』の補修という無茶なものから通常の初級時計士用のレベルに戻すこと。
だが──フォグは無情にも首を横に振ったのだった。
「認めることは出来ない。たしかにあの少女が負うべき責は限りなく低くなった。すべてが我が弟に踊らされていたがための行為であるゆえに。王族が策略を巡らせたのだ。利用された民間人を罪に問うことは王家の名を更に貶めることでしかない。──だが、それでもあの者の試験内容の変更は認めない」
「ど、どうしてですか? 罪がないというのなら、なぜ!」
スィーにはフォグが何に拘っているのかがわからなかった。もとより厳格な人物ではあるが、これでは意味なく厳しすぎる。ガシュパールも口にしていたが、道理に外れたことはしない方だと思っていたのに──
と、フォグはなぜかスィーの顔に正面からの視線を注いできた。
その意味がわからず戸惑うスィーに、彼は言う。
「私の考えは変わらない。だがいずれにせよ、課題の変更はあの者自身が拒むだろう。弟の暗躍を防いだ報酬として、直接話す機会を与える。あの者に尋ねてくるがいい」
◇
試験の会場は城のホールを丸ごと使用している。
他の者の様子を注視しても得るものの少ない試験のため、個々人の机は衝立によって仕切られている程度である。ただし、吹き抜けのキャットウォークから複数の監督官が睨みを効かせており、どのみち不正を働ける環境ではない。
リズの受験席はホールの最も奥まった場所に用意されていた。
ここだけは、衝立に加えて兵士の見張りが立ち、完全に外部と遮断されている。『クォランスィネ』を課題として取り扱うがための致し方のない措置なのだろうが、こんな環境で試験に挑まなければならなかった少女のことを思うと胸が痛んだ。
フォグの命令を受けた事務官が、見張り役の兵士に耳打ちする。その場から下がって敬礼する兵士の前を通って、スィーはリズと久方ぶりの対面を果たした。
「リズ!」
「スィー? どうしてここに?」
リズの使っている机の上は散らかり放題の有様となっていた。補修用の器具やぜんまい・歯車などが乱雑に散らばり、試験中に書き殴ったらしき図面が何枚も重なって置かれている。
リズはその中央に課題の時計を置いて、分解をしている最中だった。時刻は既に夕方近くだが、まだ目途が立っているようには見えない。なんとなれば、少女が今挑んでいるのは『クォランスィネ』なのだ。スィーの目から見ても、その精緻さ、複雑さは驚くべきものだった。
「リズ……やっぱり『クォランスィネ』の補修なんて無茶です。通常の試験に戻してもらいましょう」
「え? だって、これは王子が決めたことでしょ? 変更なんて出来るわけないよ」
「それは……いえ、もしかしたら可能かもしれないんです。貴方がそれを希望するのなら。ですから──」
スィーは多くのことを伏せて、今必要なことだけを口にした。セインの件を話して、試験中のリズを動揺させるわけにはいかないのだ。曖昧なことしか告げられないのは歯痒いが、他に方法もなかった。
「あたしが希望すれば……」
リズは修理中の時計に視線を戻した。休憩もなしで作業していたらしく、疲れが濃く滲んだ顔に戸惑いの色が浮かんでいる。
フォグが試験課題の変更を認めなかったのは、どういう理由かリズ自身が提案を拒否することを確信していたからだろう。その前提が崩れれば、彼も考えを変えるかもしれない。今はそれに期待するしかない。
しかし──。
リズはスィーに向かって、ふるふると首を振ってみせた。
「ううん。あたしは『この子』を直すよ。そう決めたんだ。王子に言われたからずっとそのつもりで準備してきたし、今更変えられない」
「ど、どうしてですか!? 準備と言ったって、『クォランスィネ』の仕組みは特殊すぎて研究のしようもなかったはずでしょう?」
「……あたしには『こっちの子』がいたから」
リズは胸からぶら下げた時計をスィーに指し示した。
「お爺ちゃんの店では、ひたすらこっちの子の中身を調べてたんだ。きっと課題で出される時計の姉妹みたいなものだろうと思ったから。逆に言うと、普通の試験の準備はぜんぜんやってないんだ。『クォランスィネ』にもシックスマスターピースの機能は一部使われているけど、実現方法が独特すぎて応用できそうもないし」
「で、でも……!」
「それにね、スィー」
リズは補修中の時計を両手で包み込むようにした。それからそのまま椅子の上で体を捻って、スィーに差し出すような位置に時計を持ってくる。
スィーにも見覚えのある時計だった。かつて、アルマンドが王家に贈った品だ。
リズの胸に下げられた時計がそうだったように、スィーにも詳細を把握できていない品は存在するが、この時計は別だった。
突飛な機能はなく、ただ使用者に優しい機械。ある人のことだけを考えて作られた贈り物。
これは、フローリカ王女のためにアルマンドが作った時計なのである。
(懐かしい)
スィーの心のどこかの部分が呟いた。
そうして声もなく見つめた、彼女の耳に──リズの声が響いた。
「あたしはこの子を直したいの。フォグ王子に命令されたからじゃなく、直すのが難しいとか簡単とかそういう話でもなく。だって、この子は『クォランスィネ』なんだから。スィーのお姉さんか妹なんだから。……あの日、お店を飛び出しちゃった時からずっと考えてたんだ。あたしはここにいていいのかなって。スィーに迷惑かけちゃうだけの存在なんじゃないかなって。でも、この時計を直すことが出来たなら。そうしたら、スィーを助けることが出来るようになるんじゃないのかなって思ったんだ。……だからね、スィー。あたしは、時計士の資格がほしいんじゃないの。『クォランスィネ』の──スィーのそばにいる資格がほしいんだよ」
「リ、リズ……」
スィーは時計を持つ少女の手に、自分の手を重ねた。
涙がぽろぽろと零れ出し、その上に落ちる。
「ずるいです……リズ。そんなことを言われたら、私は何も言えなくなってしまうじゃないですか」
「何も言わなくていいんだと思うよ。絶対に、絶対に、あたしはこの子を直してみせるから。だからスィーは信じて、泣かないで待っててよ。それで、そのあと一緒にお店に帰ろ?」
「はい……はい。ありがとう、リズ……」
いくらなだめられても、スィーの涙は止めどもなかった。むしろリズの声が耳朶を震わすたびに、奥から奥から溢れ出てきてしまう。
こんなにも泣いてしまったのはいつ以来だろうか。マスターが亡くなった時が最後だったように思う。けれど、こんなにも嬉しくて泣いた日はなかったはずだとも思う。
リズの声を聞きながら。
スィーはそうして、しばらくの間嬉し泣きを続けたのだった。