第三章 箱の話 ③
ローゼリアに宵闇が訪れていた。
陽が沈むと同じ頃から雨が降り始め、『クォランスィネ』の屋根にもぶつかってばらばらと音を立てている。
日照りがちのこの街では恵みの雨だが、店内の二人にそれを喜ぶ余裕はない。
話を聞き終えたリズの反応は、見るだに痛ましいものだった。
少女の性格を慮れば、推測するに難くない。かろうじて身を支えてはいるものの、椅子の背もたれがなければ床に倒れこんでいたことだろう。
「ぜんぶ、あたしのせいだったんだね……」
しばらくうなだれたままだったリズが、ぽつりとそう呟いた。スィーは咄嗟に「違います」と否定しかけたが、事情をすべて話した今、そんな薄っぺらい言葉がどれだけ少女に届くだろう。
やがて、リズはふらふらと覚束ない動きで立ち上がった。そして見上げてくるスィーに向かって言う。
「……ごめん。ごめんね、スィー。どうしてスィーが言いたがらなかったか、よくわかったよ。……あはは、あたし馬鹿だ。心のどこかで、王子の言っていたことが全部嘘で、あたし達のせいなんかじゃないって思い込んでたみたい。でも違ったんだね。本当に、何もかもがぜんぶ、あたしのせいで。それでスィーは、そんなあたしをかばってくれていただけだったんだ」
リズは呟きながら、少しずつ後ずさっていた。カウンターに座るスィーとの距離が徐々に開いていく。何か不穏なものを感じたスィーが立ち上がり、手を伸ばした時──
「あたし、ここにいる資格なんてないよね。スィーがずっと守ってきたものを、あたしが壊しちゃったんだ。──ごめんね。……本当に、ごめんなさい!」
そう言って頭を下げるや、リズは身を翻して店の扉へと走った。そして雨の降りしきる通りへと飛び出し、どこかへと駆け去ってしまう。
「リズ!」
スィーの制止の声は届かなかった。後を追って店から飛び出した時には、既に少女の姿はどこにも見えない。ああ、と雨雲が敷き詰められた空を仰いだスィーは、どうしようもない無力感に襲われてその場に崩れ落ちた。
◇
リズは雨の中をあてもなく走り続けた。すれ違う人々の視線を振り払うように、顔を伏せて、一切立ち止まらずに。雨のせいで、自分が涙を流しているのかどうかもわからなかった。ただ、自分には泣く資格なんてないはずだと思って、きつく唇をかみ締めた。
やがて息が上がると、少女は惰性で歩きながらどこへ行こうかと考えた。『クォランスィネ』に戻ることは絶対に出来なかった。自分に出来ることは何か。すべきことは何かと考えた少女は、その足を王城へと向けた。
だが、既に夜と呼んで良い時間である。更に天候が不順なこともあってか、城門は閉ざされていた。守衛の兵士に話しかけるも、明日また来いとすげなく断られてしまう。
「明日、か……」
力なく呟く。リズはフォグに会うつもりだった。もしかしたらとうに察知されているのかもしれないが、自分が無許可で時計を修理したことを打ち明けて、罪に服そうと考えたのだ。そして自首する代わりに、スィーへの咎め立てを軽くしてもらうよう嘆願しようと思っていた。
しかし今の自分は、それすら出来ない。打ちのめされたリズは城門から背を向け、とぼとぼと雨の中を歩く。目的を完全に失った少女は次に、無意識のうちにこの街へ来たきっかけの場所、フォーセッタ時計店へ向かった。
「……あは。まだ『差し押さえ』のままだし」
シャッターに貼られた張り紙が、雨に濡れて滲んでいた。裏口に回ってみると、出入りに利用した隙間もそのままだ。リズは三度目の不法侵入を果たし、びしょ濡れになった髪や服を絞った。
「中も、そのまま、と」
ランタンの明かりを灯して確かめてみたところ、祖父が使用していた機器も手付かずの状態だった。リズが持ち出した一部の機器を除いて、すべての設備が揃っている。もしかしたら自分には、ここで時計士として店を営むような未来があったのかもしれない。祖父の後を継いでいっぱしの時計士となり、いつかは両親にも誇れるような熟達した職人に──。そう思うと自然涙が零れるが、もはやそれは叶わぬ夢だ。
翌朝もう一度お城へ行こうと決めたリズは、適当なシーツを引っ張り出し、嗚咽を堪えながらそれに包まったのだった。
◇
何もする気が起きなかった。
だが、いつまでも店の前で雨に打たれているわけにもいかない。
スィーは店の中に戻ると、入り口の扉に背中を持たせかけた。だが立ち続ける気力もなく、魂が抜け出るような深い息を吐き出して、ずるずると床に座り込む。
膝に顔を埋めた彼女は、しばらくの間そうしていた。雨音。時計の音。それだけが耳に届く。いつも共にあったはずのリズの息遣いがそこになくて、今はただそれが悲しい。
その時、唐突にスィーの耳に別の音が入り込んだ。
はっと顔を上げた彼女は、辺りを見回す。だが店の中に変わった様子はない。そして首を巡らせながら、スィーも理解していた。今の音の主が、この場にはいないことを。あの音は、どこか遠くから発せられたものだということを。
(──箱が、使われている)
脅迫者には伝えていないが、あの箱の武器としての機能は副次的なものだ。本来の存在意義は、スィーへの声の伝達機能なのである。
そして今、そのメインである方の機能が働いた。気づいてみれば、先ほどのは単なる音ではなく誰かの声だったように思える。誰かの──犯人の。
(そうだ、今なら……!)
皮肉なことだが、フォグにもリズにも殆どのことを知られてしまった今、律儀に脅迫に従う必要はない。そして三日連続で犯行に及ぼうとしている脅迫者は、あの箱の機能に溺れて油断しているのだろう。
たしかに、一般人であれば犯人を捕らえることは難しいはずだ。音もなく相手を一瞬で昏倒させる力は、それほどに有効だ。
だがスィーにはその力は効かない。そればかりか、自分の居場所を教えることになる。犯人が慢心してスィーに向けて箱を使おうとするならば、それは決定的な隙となるだろう。
──けれど。
けれど、問題はまだあった。あの箱から届く声だけでは、大体の距離と方角しかわからないのだ。何より、指向性を持つためその方向にスィーがいないと意味がない。距離が近づけば近づくほど検知出来る角度は広がるが、最終的には運が左右する。
それでも、スィーは大急ぎで『声』のした方へ走り出した。犯人が今夜再び箱を使うとは限らない。もし使ったとしても、自分が場所を特定できる保証もない。けれど──安易に明日以降の偶然に頼るわけにはいかなかった。盗難品が戻ってくる保証もないし、いつまでも犯罪者が同じ場所で犯行を繰り返すとも思えない。他国へ逃げられれば──それで終わりだ。取り返しがつかないことになる。
だから、必ず今夜中に犯人を捕まえる。そして箱を取り戻したことをフォグに伝える。そうしてクォランスィネの管理者としての体裁を保てたならば、リズがペナルティを課されることもなく試験を受けることが出来るのではないか。
一縷の望みだった。だが今はそれに賭けるほかない。スィーは傘も差さずに夜道を駆けた。ばしゃばしゃと靴が水を弾く。服が濡れるのも汚れるのも厭わなかった。風邪を引かない体であることをアルマンドに感謝し、一方でリズが綺麗だと褒めてくれた姿を泥で汚すことに一抹の申し訳なさを覚えた。
一回目の音がしたと思しき場所に辿り着いたスィーは、周辺の音に耳をそばだてた。人より優れた聴力を持つ彼女は、集中すれば雨の中で大人と子供の足音を聞き分ける程度のことはやってのける。だが犯人の居場所を特定するには、どうしてもあと一回『声』を聞く必要がある。今は四方から大人の男性の足音が聞こえているが、このいずれかなのか。あるいはもう遠くに去ってしまったのか。先ほどの声が住居侵入前のものであるならば、恐らく今は物色中であるはずだが、そう都合よく推測が当たるだろうか。
スィーは目を閉じて祈った。傍目には奇矯な行動に映るだろう。周囲の人間が怪訝な顔を向けるが、雨に打たれて佇むその姿の美しさにことごとくが息を呑んだ。
だからそれは──彼女の祈りが天に届いたということなのだろう。天使が願ったのだ。神がそれを聞き届けぬはずがない。
(──聴こえた……!)
スィーは一瞬ののちに駆け出していた。人を恐れる彼女が、悪意ある人間を捕らえるために脇目も振らずに走った。きっと自分は、後で自身の行為を思い出して震えるだろうという確信があった。だけど今はそれを忘れることにした。
スィーは普段から薄暗いと思わしき裏道に入った。入り組んだ建物によって視界が大きく制限されている。見上げれば住居から横に突き出た柱が雨を弾いていた。所々に段差があり、走る足を止めなければならなかった。
幾度かの迂回を経て、二度目の『声』のした地点へ辿り着いた。そこには男性が倒れていた。スィーが助け起こすと、すぐに意識を回復させた彼は震える指で道の奥を指し示した。意図を汲み取った彼女はコクリと頷いてみせると、男性を静かに横たえて示された方へと進む。
その先にいたのはフードで頭を覆った男だった。怪しまれないようにだろう、何食わぬ様子で歩いていたのがスィーにとっての幸運だった。追いついたこと、見つけたことに深く安堵したスィーは、意を決して男を呼び止めた。
「待ちなさい!」
いつになく強い声である。男は即座に反応を示した。ただし、振り返っただけだ。フードに隠れ、その表情は見えない。
だが声をかけたのがスィーであることに気づいたのか、男はフード越しでもわかるあからさまな動揺を示した。
「お、お前は──」
「……どうやら、貴方が私を脅迫した人のようですね」
その様子で確信を得たスィーは、腰を落として身構えた。格闘の経験があるわけではないが、彼女はアルマンドが作り上げた自動人形である。幾つかの身体機能については一般的な男性を上回るものを持っている。それが『クォランスィネ』の管理者であるためのものなのか、スィー自身を守るためのものなのかはアルマンドは口にしていなかったが、今ならばその意味を見出せる気がした。
「『妹』を返していただきます」
スィーはきっぱりと言い放った。普段の彼女を知る者が聞けば耳を疑うほどに、その語気は強い。気迫に押された男は僅かに後ずさった。
「どういう了見だ? あの手紙の意味が理解出来なかったわけじゃないだろう?」
「もちろんです。よく理解したからこそ、一度は箱を渡しました。ですが、これ以上見逃すわけにはいきません。大人しく返していただけますか?」
「ハッ──馬鹿を言え」
男はスィーの申し入れを一笑に付し、箱を胸の前に構えて見せた。威嚇のつもりなのだろう。それが威嚇になると信じているのだろう。
だからスィーは、わざと箱を警戒する素振りを見せた。彼女が相手を捕まえるためには、一瞬の油断をつくしかない。心得のない彼女が活かせるのは、せいぜいが瞬発力くらいなものだからだ。
フードの影から、男の口元が覗いていた。にやにやと嫌な笑みを浮かべている。なんて歪んだ笑いなんだろう。スィーはリズの太陽のような笑顔を思い浮かべて、同じ人間でこうも違うものなのかと呆れる。
男には早々に蹴りをつけるつもりがないようだった。騒ぎとなれば人が集まってくるかもしれないのにも関わらず、である。余程箱の力を過信しているのか。そして姿を見られても良いと考えているということは、明日には他国へ高飛びする心算なのかもしれない。
(それなら私は、その余裕の隙を突く!)
スィーはもう一段深く腰を落としてから、爆発するような勢いで前方へ駆けた。彼我の距離は五メートル程度。その間を、水飛沫を蹴立てながら一気に詰める。
「──!」
男の目が驚きに見開かれた。想像を超える速さだったのだろう。だが互いの距離がゼロになるよりも先に、男は箱に向けて声を発していた。変換された『音』がスィーに対して放たれ──確信の笑みが男の口元に浮かび──そして。
「なに!?」
そして再度の驚愕がその顔を覆い尽くした。
「──フッ!」
スィーは短く息を吐き出しながら、男の腹に拳を打ち込んだ。初めて味わう肉の感触に顔をしかめる。男は口から汚らしく吐瀉物を撒き散らしてその場に屑折れた。スィーは咄嗟に距離を取って身構え直すが、相手に起き上がってくる気配はない。
「や、やった……のかしら?」
つい疑問系になってしまう。いまひとつ、実感が沸かなかった。戦い慣れしていないせいもあるが──それ以上に、やけに呆気なく事が運んだことに違和感を覚えたのだ。
しかし今は、余計なことを考えている場合ではない。首を振って雑念を振り払ったスィーは、箱を回収し、持参したロープで男の手足を縛った。危ういことに途中で男が意識を取り戻して暴れたが、なんとか間に合った。
驚いたのは、男の素性である。スィーもかすかに見知った顔だったのだ。記憶が確かであれば、ガシュパール卿の部下のカイル=クロックワーズという男のはずだ。リズが協会に一人だけ嫌な人がいたとぼやいていたので、なんとなく頭に残っていたのだが──ここで遇うことになるとは。
「てめえ……覚悟しておけよ」
カイルが醜く歪んだ顔で毒づいた。元の造作は整っているが、本性を露わにした今は見るに堪えないものがある。
「全部ばらしてやるからな。それが嫌なら今すぐここで俺を殺せ。人形のてめえなら、そのくらい簡単だろう? 心なんて持ってねえんだからな!」
「……たしかに私は人形で、必要なら貴方を殺すことに躊躇いはないですが」
スィーは自分の声がいつになく凍てついていることに気付いた。こんな声が出せるのかと自分で自分に驚くが、口をついて出る言葉は止められない。
「残念ですがもう意味がないんですよ。だって、既に知られているんですから」
「……どういうことだ?」
「申し上げたとおりです。リズの件について、フォグ王子は既に察知されています。協会──ガシュパール卿がご存知ないとしても、その上に露見してしまっているんですよ」
「な、なぜフォグ王子が!? それじゃ話が──」
「話? どういう意味です?」
「あ、いや──」
カイルは急にしどろもどろになった。奇妙な反応だった。そしてやはり──この男は違う気がする。
盗難事件の実行犯はこの男だろう。しかし、スィーへの脅迫に始まる一連のシナリオを描いた者は別に存在する気がしてならなかった。
あっけなく自分に捕えられたカイル。いまや自分の足元で虚勢を張るだけのこの男が、あの周到な計画を立てたとはどうにも考えにくいのだ。
「貴方は誰かとこの件に関わる話をしたということですね? それは誰ですか?」
まさか上司のガシュパール卿だろうか。あるいはフォグ王子が──いや、流石にそれは結論を急ぐあまり飛躍しすぎている。
スィーは幾度もカイルを問い質した。彼の口を割らせるのが一番確実な方法だからだ。
しかしカイルは急に無口になったようだった。硬く口を閉ざしてスィーの問いかけの一切を無視する。単に欲望に駆られて盗難を起こした人物とは思えない頑なさだった。
(何か脅されているのでしょうか)
だがスィーはこれ以上彼を追及するすべを持たない。それに、この先はフォグ王子に任せるべき範疇の仕事だろう。
周囲には結構な数の野次馬が集まっていた。スィーはその中から、リズと同じくらいの年頃の少女に声をかけた。そして幾ばくかの謝礼を先に渡してから、少女の家で紙と筆を借りて王子宛の手紙をしたためる。
折よく、がしゃがしゃと金属同士がぶつかり合う音と野太い声が響いてきた。騒ぎを聞きつけた兵士がやってきたのだろう。スィーはカイルに猿轡をかませてから、その体に「窃盗犯です」と書いた張り紙を貼った。それから張り紙の上にしたためたばかりの手紙を載せて、夜に紛れるようにその場を離れる。
「──ふう」
兵士がこちらに来る気配がないことを確かめてから、スィーは大きく息を吐き出した。
ようやく人心地が着いた感じがした。そして予想した通り、今更ながらにがたがたと体が震え始める。
怖かった。無我夢中で犯人を捕らえることに成功したものの、臆病で店に閉じ篭っていた自分がそれをなしたということが未だに信じられない。夢を見ているような感覚が終始付き纏っている。
けれど、まだ彼女は夢の世界に逃げるわけにはいかなかった。
カイルの後ろに何者かがいることはほぼ間違いない。思惑がまるで見えないことが厄介だが──その人物を引きずり出さないことには、この一件が収まるとは思えなかった。
スィーは、よし、と口にしてから自分の頬を張り、『クォランスィネ』への帰途に着いた。眠らない彼女は休むこともない。戻ったらすぐに、もう一人の犯人へ繋がる糸を捜すつもりだった。