第三章 箱の話 ②
翌日。深夜。
宵っ張りのリズが眠ったのを確かめたあと、スィーはそっと『クォランスィネ』を抜け出した。
こんな時刻に外へ出るのはいつ以来だろう、と考えてから、先日ドゥヴァン丘へ行ったことを思い出す。
(あの時は、とても楽しかった)
だから今、すぐに連想出来なかったのだろう。
あの時と今では、何もかもが違いすぎた。
隣にリズはおらず、気さくな王が待っているわけでもなく、そして自分の心は底なし沼に沈んだように暗鬱としている。
スィーは、胸で抱きしめるようにしていた道具に視線を落とした。
ぽつり、涙がその表面に零れ落ちる。
それは、手の平サイズの四角い箱だった。上面と側面に一つずつ丸い穴が開いており、網が張られているだけの簡素な見た目である。
これも、先日の遠視できる筒と同様にアルマンドがスィーのために作ったものだ。
ただし、使用者はアルマンド本人の想定だ。この網の目に向けて声を発すると、人には聴こえない波長の音となって増幅された上で、前方の穴から放たれる。そして自動人形であるスィーの耳だけはその音を捉えることが可能であるため、アルマンドは『クォランスィネ』の方角にこの箱を向けて言葉を発することで、遠方からスィーに声を届けることが出来たのである。
彼がこれを作成した理由は、寂しがり屋のスィーを慰めるために他ならない。製作中、期待に胸を膨らませていたスィーはアルマンドにぴったりと付いてまわり、彼に笑われたものだ。いつもそんな近くにいたらこの装置の意味がないぞ、などという風に。
けれど──アルマンドはこの装置の製作に失敗した。
当初の機能要件は満たしており、スィーにだけ聴こえる音を発することも出来たが──その変換された音波が人体に有害であることが判明したのである。
ある程度離れていれば影響はないが、近くからこの音波を受けると人は内部器官を狂わされて昏倒してしまう。作り出された『箱』には、そうした危険な機能が内包されてしまっていた。
無論、これほどの物となると、スィーにも詳しい仕組みはわからない。生来の才に加え、彼女を製作した頃からアルマンドの才能は異常とも言える進化を遂げたため、後年には殆ど魔法としか思えないような道具も生み出されていたが──これもまたその一つだ。
だがそれほどの才の持ち主でありながらも、アルマンドは弁えることを知る人物であった。彼は、その生涯の中で決して武器を作ろうとしなかった。それは自身の才能の危険性をよく理解していたためだろう。
だが中には、この箱のように予期せず武器に類する機能を持ってしまうものも生まれる。そういう場合彼は未練なく破壊していたのだが、この箱だけはスィーが懇願したため廃棄できなかったのだ。マスターが自分のために製作してくれたもの──それが壊されることが、スィーにはどうしても耐えられなかったのである。
そうして生まれた『クォランスィネ』唯一つの武器。
それを、スィーは今、使用法を記した紙と共に町外れの倉庫の片隅に置いた。
今日この場所に置け、という脅迫者の指示に従ったのである。
もしかしたら、この箱のことまで相手は知っていたのかもしれない。
そう思うと恐ろしさもあるが──今は何よりも、ただ悲しかった。
「……ごめんなさい」
マスターに。『妹』に。そしてリズもきっと、この自分の行いを知ったら喜ぶまい。謝罪の言葉を涙ながらに口にしたスィーは、一度強く唇を噛むと、未練を断ち切るように箱に背を向けて走り去った。
◇
その夜以降、ゼフィール城下ではよく似た内容の盗難事件が続発した。
僅か二日の間に四件である。
現場に痕跡は一切残っておらず、ただ居合わせた人間が軒並み気絶させられていた点だけが一致したことで、同一犯による犯行だとみなされていた。負傷者はおらず、意識を取り戻した者は急に視界が真っ暗になって意識を失ったのだと口を揃えて証言している。
「変な事件」
リズは『クォランスィネ』の作業スペースの椅子に座り、休憩がてら新聞を開いていた。治安の良いとされる王家のお膝元で、これだけ同一犯による事件が続くのは珍しい。よほど捕まらない自信があるのだろうか。
「どうやって気絶させてるのかな」
傷も負わせず、姿も見せず。不可解な手口である。リズは睡眠薬の可能性を頭に浮かべたが、薬品らしき匂いを嗅いだ人間はいないようだ。
「スィーはどう思う?」
何気なく話を振ってみる。だが、なぜだかスィーはいつものように応じてこなかった。リズの声にびくっと身を震わせると、目を伏せて俯いてしまう。
「スィー?」
様子がおかしいことに気づいたリズが椅子から立ち上がった。そういえば昨日あたりから妙に元気がなかったような気がする。時計士試験の準備に忙しいこともあって、あえて尋ねることまではしなかったが──今の反応は普通ではない。
「どうしたの?」
カウンターに近づきながら尋ねる。だがスィーは表情を硬くして口を閉ざしたままだ。
「どこか調子悪いの?」
いつもの椅子に座ったリズは、カウンターに手を置いてスィーを見上げた。スィーはそれでも目を逸らそうとするが、この距離でいつまでも避けられるものではない。純粋な気遣いの視線に耐えかねたスィーは、「大丈夫ですから」と短く告げる。
「でも……ぜんぜんだいじょうぶに見えないよ?」
「そんなことないですよ」
「あたし相手に無理しないでほしいよ。誰が見たって今のスィーは具合が悪いと思うよ、きっと。そりゃ、『クォランスィネ』のことはあたしだってよくわかってないけど」
「そ、そうですよ。私は人形なんですから、人とは違います。心配されるような存在ではないんですから」
「……そんな言い方しちゃ駄目だよ、スィー」
悲しげに呟くリズに、スィーははっとした。けれど──自分が言ったことは決して間違いではない。自分は、人から心配してもらえるほど価値のある存在ではない──。
「いえ、いいんです。私はただの人形なんです。人間の心を持ち合わせていない機械に過ぎなくて──」
「スィー!」
リズは叫んだ。スィーにその言葉の続きを言わせないために。びくりと身を竦ませたスィーの手を取って、リズは囁いた。
「スィーの心は人となんにも変わらないよ。事情はわからないけど、今のスィーは悲しんで、怯えて、それでもあたしのことを気遣ってくれている。あたしはそれがわかるから、スィーがただの機械だなんて言いたくないし、誰にも言わせたくない」
「リズ……」
スィーはリズと間近で見つめ合った。この子は本当に綺麗な瞳をしているな、と思う。時計士を目指し、ひょんなことから『クォランスィネ』に居付くことになったリズ。その純粋な熱意を好ましく覚えるうちに、いつしか妹のように思えるようになってきた。
でも、だからこそこの子の夢を壊したくない。この瞳から光が失われる姿を見たくない。
(けれど、どうすれば──)
スィーは堪えきれずに両手で顔を覆った。驚いたリズが気遣いの声をかけてくる。だがそれが今だけは胸に痛い。心なんてなければ楽だったのにと思う。
その時のことだった。
「──邪魔をする」
突然『クォランスィネ』の扉を開けて、厳しい顔つきの青年が店内に入ってきたのは。
「貴方は──」
見覚えのある顔なのだろう、何か言いかけたスィーの声を、青年が遮った。
「フォグ=ミュラー=ローゼリアだ。クォランスィネ、貴様に尋ねたいことがある」
◇
フォグはローゼリアの第一王子である。国王が外遊中の今、実質的に国の最高指導者と言ってよい。
そんな人物の突然の来訪に、スィーもリズも驚きを隠せなかった。
護衛役の兵士を外に立たせ、一人で店内に入ってきた彼は、平民のように簡素な衣服を身に纏っていた。だが滲み出る気品は王族特有のものだ。道中で人々の耳目を集めたことは想像に易いが、本人にその自覚がないのか、あるいは民衆の目など常より意識の外に置いているのか。
フォグは店の中央で立ち止まり、厳しい目でスィーを睨み据えた。リズの存在などまるきり視界に入っていないかのような素振りである。
彼はもう一度同じことを繰り返した。
「クォランスィネ。貴様に尋ねたいことがある」
「……なんでしょうか」
「一昨日より発生している盗難事件についてだ。──単刀直入に聞こう。あの犯人はアルマンドが製作した『箱』を使っているのではないか?」
「!」
スィーの目が見開かれた。その反応を一瞥したフォグが、嘆息しながら呟く。
「どうやら正解のようだな」
「……どうしてそれを?」
「アルマンドの作品はお前だけのものではない。王家にもそれなりの知識の集積はあるのだ。今回の犯人の手口を突き詰めることで浮上した可能性の一つに、例の箱の存在があった。それだけの話だ」
「ね、ねえ、どういうことなの? 犯人がクォランスィネの箱をって、まさか」
ようやく口を挟むことが出来たリズに、フォグが初めて存在に気づいたような冷たい目を向けた。
「貴様は黙っていろ、リズ=フォーセッタ。嫌疑は貴様にもかかっているのだからな」
「え?」
「ど、どういうことですか!? どうしてリズが」
「それはこちらが尋ねることだ。記録によれば、箱はあの建物の倉庫の最も奥まった場所に保管されていたとある。加えてあの倉庫はアルマンドが施した多くのギミックにより、城の宝物庫を超える堅牢さを有している。ではなぜそのような場所に保管されていた箱が犯人の手に渡ったのか? こちらは一つの回答しか有り得ない。クォランスィネの管理人たる自動人形よ、貴様が持ち出したのだ」
「い、言いがかりよ! 何の証拠があってそんなひどいことを!」
「リズ=フォーセッタよ、私は黙れと言ったはずだ。だがお前にもわかるだろう? そこの出来損ないの人形の顔を見るがいい。私の言った推測が的外れなものかどうか──」
フォグに詰め寄ろうとしていたリズは、ばっと背後を振り向いた。戸惑いの目を向けられたスィーはしかし、一旦目が合うや視線を逸らして俯いてしまう。
リズの中で嫌な予感が急速に膨れ上がった。
「ス、スィー? どうしたの? 違うよね? スィーがそんなことするはずないよね?」
「──これでわかっただろう、リズ=フォーセッタよ。そして問題はクォランスィネだけに留まるものではない。場合によっては貴様たちは二人共に国家への重大な反逆罪に問われる可能性がある」
「あたしが……?」
「な、なぜリズまで!?」
スィーが弾かれたように顔を上げ、叫んだ。
「現時点ではあくまで可能性だ。だがクォランスィネよ、次の問いに対する貴様の答え次第ではそれも検討せねばならん。──そもそもの話だ。貴様はなぜあの箱を犯人に渡した?」
「そ、それは──」
「やはり言えぬか。だがこちらとしては一つ推測がある。アルマンドの死後、その作品を手に入れようとする輩は常に存在していた。王族の中にすらそのような者はいた。しかし貴様は主人の指示に忠実に従い、そのすべてを防いできた。倉庫の堅牢性と、機械のように指示に忠実な貴様の存在。クォランスィネの流失を避けるために、これは万全な体制だったと評価されてきた」
フォグは店の中をゆっくりと歩きながら、矢継ぎ早に声を発した。畳み掛けるようなその口調に、スィーは怯えて一言も返せないでいる。リズとて同様だ。大いなる権力を持った者の放つ威圧感に、声を失っている。
「然るに、今回。おそらくは初めて、この備えが破られた。百数十年にも及ぶ記録の中で、初めての例外が起きた。それはなぜかは不明だ。だが、気にかかる点がある。それはリズ=フォーセッタ、お前の存在だ」
「あ、あたし……?」
「そうだ。クォランスィネの人形よ、貴様はこれまで一度として人間をそばに置いたことはなかったはずだな。それを我等王家は、人との関わりを避けて情にほだされることのないように、あえて貴様がそうしたのだと見なしていた。アルマンドの作品は、人に有益なものが圧倒的多数を占めているからな。だが、それはこちらの過大評価だったようだ。貴様は過日よりその娘を店に住まわせるという例外を認め──時を近くして、箱が盗まれるという例外が起きた。そして問おう。この百年に一度ずつしか起こっていない二つの例外の時期が重なったことが、ただの偶然だと言えるのか? 人にあらざる者よ、出来損ないの自動人形よ。何の役割も果たしえぬ貴様は白々しくそう主張できるのか?」
「ス、スィーにひどいことを言わないで!」
たまらずリズは叫んだ。フォグのあまりの物言いに我慢の緒が切れたのだ。
だがフォグはそんな少女を視線で射抜く。
「弁えるがいい、娘。お前も容疑者の一人なのだ」
「それって、あたしがその箱とかいうものを持ち出したって、疑われてるってことなの?」
「その可能性もあると言っている」
「ち、違います! リズは絶対にそんなことしません!」
「スィー……」
「だが遠因の一つかもしれない。たとえば──」
フォグはそこで言葉を切り、二人を順に見た。心の奥底まで貫くような鋭い視線だった。射竦められた二人は声も出ない。ただスィーは、不意に「もしかしたら」という想像を抱いて身を震わせた。
(もしかしたら、この人はリズが時計を修理したことも含め、すべてを察知しているのかもしれない。その上で、自分達の反応を見て確証を得ようとしているだけなのかもしれない)
だがフォグは、意外なことにあっさりと視線を外した。
「まあいい。とりあえずはここまでとしよう。話が性急にすぎることは私も承知している。この場は一旦引き下がらせてもらう」
そう言うと、フォグは踵を返して出口へと向かった。そしてスィー達に背を向けたまま、最後に通告の言葉を残した。
「だが戻り次第調べは進めていく。場合によっては貴様たちに手が及ぶこともある。心しておくがいい」
◇
フォグが去ったのちも、リズ達は言葉を発することが出来ずにいた。互いに声をかけることが躊躇われ、居心地の悪い空気が店内に満ちる。
これまでに一度もないことであった。若いリズと、気の小さなスィー。フォグの言葉は、そんな二人に重過ぎる圧力となって覆い被さっていた。
ポーン、と。柱時計が五回音を鳴らした。普段ならリズが修行の手を休めて、スィーとのおしゃべりに興じる時間だ。二人ともそのことに思い至ったのだろう、ふと目を合わせてまた再び顔を背け合う。
けれど、それが僅かなきっかけにはなったようだ。
リズは目を逸らしたまま、口を開いた。
「さっきの話、さ」
「は、はい……」
「スィーがけなされて、あたし、すっごくムカついた。蹴っ飛ばしてやろうかと思ったくらい。ほんとだよ? でもね、でも、あの王子の話の中に、もしかして、って思えるところもあることに気づいたんだ」
「……」
「ねえ、スィー。正直に言ってほしいの。スィーがその、箱とかいうものを犯人に渡したのって……あたしの、ためなの?」
「そ、それは」
スィーはなんとか否定しようとした。けれど不器用な彼女には、それが出来ない。違います、と。私が手違いを起こしただけなんです、と。そう嘘をついて取り繕うことが出来ない。
スィーは泣きたかった。ただの人形であれば、嘘など簡単につけるはずなのに。表情を消して、感情を殺して、そうすればリズを安心させることが出来るはずなのに。
なのに、中途半端に心を持った出来損ないの自分は、そんなことさえこの子にしてあげられない。
「そう、なんだね?」
ああ──と、スィーは目を瞑った。やっぱり、聡いこの子には気づかれてしまった。そしてやっぱり自分には言いつくろう言葉を見つけることが出来ない。
こんなことになるなら──。スィーの心は幾つもの後悔の念に押し潰されそうだった。どうすることも出来ず、ただ涙が溢れ出て止まらない。
「ス、スィー……泣かないで。悪いのはあたしなんでしょ?」
リズが俯くスィーの両肩に手を乗せて、顔を覗きこんできた。けれどスィーは、いいえ、いいえと何度もかぶりを振ってそれを否定する。
スィーにとって、あの箱を脅迫者に渡した理由がリズにあることは事実だが、それもあくまで自分のせいだと考えていた。自分があの時、時計の修理をするようリズに薦めたりしなければ。そしてきちんと距離を置くようにしていれば。この子が、フォグからあらぬ疑いをかけられることもなかったし、自分の夢を追い続けることが出来ていたはずなのだから。
「……王子の言ったとおりです。私はどこまでも出来損ないの人形に過ぎません。すべて私が悪いんです」
「ス、スィー? どうしてそんなことを言うの?」
戸惑うリズに、スィーは無理やりに微笑んで見せた。
「ですからリズ、安心してください。貴方が心配する必要はどこにもありません。これは、私だけが罪を償えば良い話なんです」
「そ、そういうことじゃなくて──」
「王子にはこちらから嘆願します。リズには迷惑かけません。きっと、もう一緒にいることは出来なくなると思いますが──どうか私なんて忘れてしまってください」
「だ、だから、スィーってば!」
リズはスィーの首筋に手を回し、強引に自分に顔を向けさせた。
「あたしの話を聞いて! あたしの顔を見てよ! どうして目を合わせてくれないの!? どうしてそんな悲しいことばかり言うのよ!」
「だ、だってそれはリズを──!」
口をついて出かけた言葉を、スィーははっとした顔で飲み込んだ。だが手遅れだった。リズは額を触れ合わさんばかりにスィーに顔を寄せて、問いただす。
「あたしを? 今、そう言ったよね? やっぱりあたしが関わってるんでしょ? だったら、きちんと話して。一人で罪を負うだなんて言わないでよ」
リズの追及は激しかった。しかしそこには一心に相手を案じる心が表れており、だからこそスィーは何も言い返せなかった。
リズは若く、精神的に未熟だ。それゆえ、自分の言葉がスィーを追い詰めていることに気づくことが出来なかった。
もしこの時、一旦落ち着いてから話し合うことが出来れば、二人が離れるような事態には陥らなかっただろう。けれどそれは、後でこそ言える話だ。
「……わかりました」
そうして、少女から逃れることが出来ないと悟ったスィーは──虚脱しきった顔で、すべてを打ち明けることを承諾したのだった。




