第三章 箱の話 ①
ローゼリアは夏の盛りにあった。
首都のゼフィールは山間に練り入るように築かれたため、気候環境はお世辞にも良いとは言えない。湿度こそ低めで極小の器具の扱いに適しているものの、冬は凍えるほどに冷え込み、夏はうだるような暑さだ。
リズはかんかんと照り付ける午後の日差しを呆然と見上げた。だが陽の光を眩しいと感じるより先に、額から目蓋に汗が流れ込んできて、慌てて裾で拭う。
「あうー……」
視界の先では陽炎が揺らいでいた。どこの砂漠よと思う。道行く人の動きもどこか緩慢で覚束ない。リズは最悪のタイミングで外に出た自分の愚かさを激しく呪った。
少女が外出したのは、間近に迫った試験の申込のためである。提出期限が近いこともあり、夏場の室内で閉じこもって修行することに疲れたリズは、気晴らしついでに協会に申請してこようと思ったのだ。
店の中は、スィーが必要としないために空調設備が存在しない。雑貨店としてそれもどうかと思うが、客の来訪を想定していない店だから仕方ないのかもしれない。だから、ちょっと外に出よう──と汗まみれで修行していたリズが考えたのはある意味仕方ないことなのだが、日差しの熱を全く考慮しなかったのは、やはり暑さのあまりどうかしていたということなのだろう。
ようやく協会の建物に辿り着いたリズは、ふらふらになった頭で入り口の扉に手をかけた。が、先に反対側から誰かに開けられてしまい、引きずられるようにたたらを踏む。
「──おっと」
バランスを取る気力もなく、そのまま倒れこみそうになったリズの肩を、何者かの手が支えた。
「あう、ごめんなさい」
「いやいや、こちらこそすまなかったね。……おや、君は?」
「あ、ガシュパールさん……」
リズはぱっと身を離して「こんにちは」と挨拶した。中から出てきたのはガシュパール=メイヤーという人物で、この協会の長である。時計職人の卵であるリズにしてみれば、雲の上の人とも言える存在だ。
彼は外気に触れるなり額に浮き出た汗を拭いながら、リズが胸に抱えた封筒に目を向けた。
「試験の申し込みに来たのかな?」
「はい。そろそろ期限ですし」
「ふむ。どちらを受けることにしたんだね?」
「それは──」
ガシュパールはリズに試験要綱を詳しく教えてくれた人物だ。その際に、少女が正時計士か補助士かで悩んでいることも知られている。
そして、彼には補助士資格の受験を薦められた。それが順当な道であることはリズも重々承知しており──だからこそ少女は言いよどんだ。
「答え難いということは……正時計士を受けるんだね」
「あ、あはは、そりゃあばれちゃいますよね。はい、そのつもりです」
あっさり指摘されてしまったリズは、素直に白状した。
いずれ、協会長の彼には知られてしまうことだし、早いうちに打ち明けられて良かったのかもしれない。
「色々無茶なことはわかってますけど、これだけはどうしても譲れなかったんです」
「そうか。何か事情があるようだね」
思慮深げな目で頷いたガシュパールは、リズの頭上から照りつける太陽を眺めてから、背後を振り返った。そして再びリズに視線を戻し、両手を広げて見せた。
「どうだろう。詳しい事情は聞かないが、高い壁に挑む若者に少々試験の手ほどきをしてあげようと思うんだが」
「いいんですか? あたしなんかがそんな親切を受けちゃっても」
ガシュパールはリズに顔を寄せ、悪戯っぽく囁いた。
「僕もこの暑さの中で外回りするより、涼しい室内にいたいんだ」
◇
初級時計技士の想定課題は、以前のとおりだった。シックスマスターピースの補修技能──。はっきりいって難題である。だがガシュパールは六つの技術の最近の傾向について逐一教えてくれた。たとえば、トゥールビヨンは発明されてからの日が浅いため、注目を浴びてはいるものの現時点では画一的なものしか製作されていない。永久カレンダーは超複雑機構であり時計士の腕の見せ所ではあるが、確立された技術のため、新技術の発明に重きを置くローゼリアにおいては生産数が減少傾向にある、などだ。応用の幅が狭い前者はあらかじめ課題を想定しやすいし、後者はあとで調べてみたところによると近年ほぼ課題の対象となっていなかった。
ガシュパールの話してくれたことは、試験要綱に何も抵触していない。時計業界に身を置くものであれば自然と把握できる程度の内容だ。だが、修行先から飛び出して間もないリズにとっては、大変に役立つ情報である。一通りの説明を終えた彼に、リズはテーブルに額がつきそうなほど頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
「いやいや、構わないよ」
ガシュパールは鷹揚に手を振る。こんな人がローゼリアの時計界の舵を取っているのだと思うと、リズは自身のやる気がふつふつと漲っていくのを感じた。早く自分もその中に飛び込んで、周りを牽引していく存在になりたいと強く思う。
「チッ」
その時、誰かが舌打ちする音が聞こえた。咄嗟に音のした方に目を向けると、どこかで見た男が横目でリズを睨んでいる。
(たしか、カイルとかいう人だ)
ガシュパールと出会った時、同じ場所にいた人物だった。またあの嫌な目で自分を見ている。いったい自分が何をしたのだろうか。なんとなくムカムカしてきたリズであったが、正面のガシュパールはカイルの様子に気づかない様子である。協会内で騒ぐと会長さんに迷惑かけちゃうしと、リズはカイルの視線から無視を決め込むことにした。
◇
さて、リズの申請が協会に受理されてから、数日ほど経った日のことである。
その日、スィーはカウンター裏の定位置で船を漕いでいた。以前は日がな一日そうして過ごしていたものだが、リズが来てからは頻度は大きく下がっている。スィー自身は眠りをまったく必要としないので特に問題はないのだが、こうしてうとうとするのは大好きなので、リズが外出している時は大抵眠って過ごしているのだった。
もっとも、最近の彼女はリズとおしゃべりしたり少女が頑張って修行に励んでいる姿を眺めたりしている方が好きだった。だからこの日も、半分夢の世界にいながら、リズはまだ帰ってこないのでしょうか、などと考えていたわけだが──
その時、『クォランスィネ』の入り口扉で小さな音がした。
風の音や外の喧騒に紛れるほどの、ごくごく小さな音だ。長い時をカウンターで過ごしたスィーでなければ気づくことはなかったであろう。
「……?」
スィーは夢うつつのまま、扉に目を向ける。
そこには──おそらく誰かが下の隙間から滑らせたのであろう、一通の手紙らしきものが置かれていた。
「あれは……?」
スィーは腰をあげ、手紙を取りにいく。既に扉の外に誰かいる気配はない。
(顔を見られたくなかったということでしょうか)
かすかなきな臭さを覚えながら、スィーは床から手紙を拾い上げる。
裏表を確かめてみたが、案の定、差出人の名前は無い。本文は──『クォランスィネ』へ、との文言で始まっている。店のことを言っているのか、スィーの本名のことを差しているのかはわからないが、いずれにせよこれは彼女へ向けられたもののようだ。
しかし。
そのまま読み進めていくうちに、スィーの体はがたがたと震え始めていた。立っていられなくなり、その場にへたり込む。頭の中では思考がぐるぐると渦を巻いていた。そして何一つまとまらない。
リズと親しくしているとはいえ、スィーは生来の人見知りである。それは人間という種族が持つ強い感情と対峙することに慣れていないことを意味する。ましてやそれが明確な悪意であった場合などは、怯えきって身動き一つ出来なくなる。
突然の害意に晒された彼女は、腰砕けになったまま両腕で自身の体を掻き抱いた。
どうして、と口をついて呟きが漏れる。
だが手紙は無表情に彼女に要求を突きつけるのみだ。
その要求とは、あることとの引き換えとして、『クォランスィネ』製の武器を引き渡すこと。
すなわち、この日スィーのもとに届けられた手紙は──脅迫状だったのである。
◇
脅迫状の文面は、ごく簡潔なものだった。
『リズ=フォーセッタが無許可で時計の修理を請け負ったことを協会に対し秘密にしてほしくば、アルマンド作の武器を一品渡されたし』
あとは、受け渡し方法が、場所と日時とともに指定されているだけだ。
一読した直後はその滲み出る悪意に顔をしかめていたスィーであったが、落ち着いてからはそもそもこれが脅迫たりえるのかを疑問に感じ始めた。
だが突き詰めて考えてみたところ、これが状況をよく把握した上での周到な脅迫であることに気づいた。
無論、無免許による修理の請負はローゼリアにおいて重大な違反である。職人の国として、その質を下げないために、他国からの評判を落とさないために、各工人組合は厳密なルールを敷いている。
だが当時のリズはローゼリアの方針を知らなかったし、職人としてのルールについての知識も乏しかったので、深く考えずに修理をしてしまった。かたやスィーも、極めて特異な存在である『クォランスィネ』の品の扱いが、一般的な決め事の中に置かれるとは考えていなかった。
しかしスィーには、この脅迫状が送られてきたこと自体が、協会がリズの行為を認めないであろうことの証左であるように思えた。
協会が知れば、リズはおそらく試験資格を剥奪される。
その前提がなければ、脅迫者がこんな手紙を送るつけるはずがないのだ。
もちろん脅迫者の認識が甘いだけという可能性もある。しかし、それは浮かび上がる犯人像と結びつかない。犯人は周到な人物である。抜かりなくこのタイミングを選んできたことが、それを証明している。
なにせ──この脅迫が有効なのは今だけなのだから。
そもそも、先般のケースにおいて、修理の依頼者は国王その人だ。たとえ職人協会の力が強い国だとて、はたして王の依頼を受けたリズが罪に問われることが有り得るだろうか。
だが、今だけはそれが有り得るのかもしれない、とスィーは思う。なぜなら、現在ローゼリアに、国王はいないのだ。先月より長期の外遊に出ており、帰国は試験の後となる。不在の国を任されているのは二人の王子だ。
そして問題なのは第一王子の方である。周囲の評価は厳格・堅物・融通が利かない。政務はきっちりこなすが、性格的に父とも弟とも折り合いが悪く、王不在の今も、城内で様々な軋轢を生み出しているらしい。
それに──彼は、職人とそれ以外との区別が曖昧になっている今のローゼリアに疑義を抱いている人間だ。技術立国として他国と渡り合っていくためには、その要素たる職人の権威をもっと高めなければならないと考えている。そのために「職人の資格と権限との間のルールをより厳密に」敷こうとしている。無資格者が時計を修理したなどという話は、まさにその槍玉に挙げられるためにあるような事案だ。下手に嘆願などしようものなら、王ごと糾弾の対象とされかねない。
そして、第二王子のフライゼ──セインは仕事を兄に放り投げている。職人としての修行から早くに脱落したため、協会からの覚えも悪い。その意味で、彼には悪いが頼りに出来ないのだ。
王家に助力を請うことは出来ない。かといって王が戻るまで先延ばしにすることも出来ない。リズは、今回の試験に受からなければ故郷に連れ戻されるかもしれないと言っていた。まして不祥事の末のことだと知れれば、少女は二度と時計職人を目指すことを許されなくなるだろう。最悪は家を出て他国へ移住し、当該国でのみ通用する資格を得る道もあるが、はたしてローゼリアの協会がNoを出した人間を他国が認めるだろうか。それほどに、ローゼリア職人協会の各地への影響力は強いのだ。
一見、脅迫として成立するとは思えないような、ウィシュタル王とリズとの間で行なわれた些細なルール違反。より明確な落ち度であればそもそも王が何らかのフォローをしていただろうが、注意深いのかの人ですらあまりに些細なことゆえに放置していた。
だが今回、犯人はその隙間を縫うようにして、脅迫の材料として仕立て上げたことになる。
浮かび上がるのは、狡猾そのものの犯人像だ。
獲物を狙う蛇のように抜け目なくずる賢い、悪意の塊だ。
そのような人間を相手にして──こんな自分に、いったい何が出来るというのだろうか。
まだ日の明るい、静かな店内で。
自らが苦境に立たされたことを悟ったスィーは、一人絶望に沈んだ。