主人と従者?
雨が降っていた次の日、お日様が出ている住宅街にいた。
ぼくはプランターの緑に彩られた茶系統のレンガ道を、ご主人とよりそって歩いている。
ご主人は麦わら帽子をかぶって歌を歌ってご機嫌だった。
しばらく雨が続いて家にこもりがちだったから、お日様に当たるのが気持ちいいんだろう。
今にもくるくる踊りだしそうな感じだった。
介助をしているお共のぼくも、ご人のご機嫌な様子につられて、気分が良くなってしまう。
ご主人の歌を聴くのはとても好きだ。
ご主人はぼくと出会う前は、一日中歌を歌っていたらしい。でも大変なことがあって歌うのは止めたって聞いた。
それからぼくと出会ってからこれまで一緒にいるようになった。
最近は、こうして機嫌のいいときは何か口ずさんでいる。やっぱり歌を歌うことは好きみたい。
ご主人の鼻唄は上手だと思う。
お向かいのおじさんの歌はなんか調子はずれだし。ピアノが上手な2軒先のお嬢さんより上手いと思う。
ご主人ひいきを抜きにしてもそう思う。
仕事以外でこんなに肩の力抜いて歌うのなんて久しぶりだわ、なんて言うんだ。
ご主人の歌を聞く人たちはたまに、お金を払わせて下さい、もっと聞かせて下さい、なんて言っちゃう。
ご主人はそんな人たちから逃げ回る。
逃げちゃえ! なんて言っていつも急に走り出すから、ぼくは大変。
周りの人にぶつからないルートを探し出すのに凄く気を遣うんだ。大体は事態を察した近所の人が助けてくれるんだけどね。
ぼくじゃ太刀打ちできないことでも、みんなで助け合ってご主人を支えてた。
そんな風にやってきたんだ。
こんな風に、いつも通りの日常が続くと思っていた。
ぼくがご主人と出会ってからは数年。同じようで少し違う変化の少ない日を過ごしていたし、これからも緩やかに過ごしていくんだと思っていたけれど。
今日でそれは終わりだった。急激な終わりを迎えたんだ。
曲がり角で、人にぶつかることで。
ぼくは滅多にそんな失敗はしない。
まがりなりにも厳しい訓練を経て、こうしてご主人といるんだ。脱落者のたくさん出る試験をパスしたっていう自負もあるよ。
ご主人の行く先に何があるのか確かめて、安全を確保するのが仕事だから。
それにご主人よりずっと耳や鼻は効くんだ。
道の先に何があるのか、潜んでいる危険だって警戒心の薄いご主人より早くわかるしね。
ぼくはご主人のボディガード代わりでもある。
これまでだって、角を曲がった先でバイクに乗った人がいるのが解って、曲がり角に出るのは少し待って、って助言してきた。
そこ水たまりあるから、こっちの道行こうよ、とか。そこ車道に近いから、こっち歩いた方がいいよ。
こんな風にご主人のナビをしてきたんだ。
でも、そのときは。出来なかった。
何も感じなかった。これまでと違って、そこに何があるのか解っても認識できなかった、何も出来なかった。
確かにそこにあるのに、感知さえできない、存在感が全くない、そんな不自然に出会った。
住宅街の曲がり角を曲がって、同じように通りに出ようとしていた人と、ご主人がぶつかったんだ。
ぼくはそのとき、身体がこわばってしまった。
危ない! よけて! なんて言葉をかけることも、何も出来なかった。
「きゃ!」
ご主人はぼくから離れて、尻もちをついていた。ごめんご主人、何も出来なくて……。
通りに出てきた人と結構強めの勢いでぶつかっていた。けれどその人はあまり動いてなくて、ご主人が吹っ飛ばされていた。
こんな時だけど、ごめんねご主人、もっとごはん食べようよ。
同じようにぶつかった人は平然としてるんだからさ。華奢過ぎるよ? お胸もおっきくなれないよ? 背だってもっと伸びないかなって言ってたじゃない。
「たた……すまん、大丈夫か?」
ぶつかった相手は声からして若い人みたい。
年頃はご主人と同じくらい。
ぶつかった所からほんの少しだけ離れていたみたい。
相当な勢いでぶつかったはずなのに、ご主人と違って全然痛がっている感じがしないんだ。
口では痛いって言ってるしそんな仕草だってしてるけど、なんか裏腹で。
なんでわざわざそんなことしてるのかな。
ご主人の倒れてる方に手を伸ばしてくれた。ご主人の手を引いて、起こしてくれるんだろう。
行動自体はいい人のものだと思うんだ。だけど。
……………………………いい人なのか悪い人なのか、ぼくにはわからない。
においがしないんだ。
いい人か悪い人か瞬時ににおいで解るのがぼくの自慢だったのに。
においだけじゃなく、この人は行動も変。でも気配はもっと変。
痛くないのに、痛いふりをしたり。
悪い人なのか、良い人なのかも解らない。
ご主人もおかしさを感じたのか、その人に手を伸ばされても手を取らずに。その人の方を向いているだけ。
「はい、なんとか……すみません」
不思議そうに、ふむ、とその人は言った。
それから伸ばした手を引っ込めて屈んだ。
「そっちのせいじゃないだろ、曲がり角だったんだ、急いでいたこっちも悪い。
さて、そちらの手に触れてよろしいかな?」
「あ、はい」
ご主人の手に触れた。ご主人はおっかなびっくり。
「差支えなければ、自分につかまって立つと良い」
そう言われてご主人はその人の手を掴んで立ちあがった。
あまりに自然な動きだった。そうするのが当然みたいに。普通はご主人が手を掴んでから引っ張るはずなのに。
「……ありがとうございます」
物珍しさもあって。不思議そうにご主人とぼくはその人を見つめた。
同じように、その人はじっとご主人とぼくを見つめ返した。
「あの……」
「あぁすまない。少し似ている人を思い出してしまって」
「はぁ……」
その人はぼくにはどうしようもない、部分。
ご主人の身の回りを整えた。
転んだ時に服についてしまったほこりや汚れを叩いて落としてくれた。
「手の届かない所や、死角はやはりぞんざいになってしまうんだよな……」
懐かしそうに笑ったんだ。何かを思い出すように。
この人の知り合いにはご主人のような人がいるのかな。
それだからこそ、こういうそぶりが慣れているのかな。
「あ、ありがとうございます」
声が上ずってる。珍しいなぁ。
ご主人照れてる。滅多にこんなのことないのに。
この人かっこいい人なのかな? ぼくにはよく解らないけれど。
「たいしたお詫びも出来なくてすまない」
「どこかに急いで向かっていたのでしょう? 仕方ないです」
名残惜しそうにご主人が笑ってる。
この弾んだみたいな声の感じに、少し釣り上った口元を見ると、わくわくして楽しそうなんだって解った。
「そうなんだが…」
きまり悪そうに頭の後ろを掻いてる。そうするとなんだか最初の印象と変わっちゃう。
理路整然としたきっちりした人に見えたけど。そそっかしい面もあるみたい。
なんだか急に親近感湧いちゃうなぁ。
ご主人も見た目きっちり系だけど、中身はけっこうドジだから。
「急がなくてよろしいんですか?」
「生憎と、バスだったんだ。
ここらへんは一時間に一本しかないからな。悠々と次のバスを待つさ」
本でも読んで時間を潰すから、とカバンを叩いた。
「そうですか……
ではお詫びにうちでお茶していきませんか? ぶつかったお詫びも兼ねまして」
「むしろ、詫びるべきはこっちだろう」
気まずそうな顔と声だった。
どっちかいっていうとご主人の方が被害大きそうだしね。痛いのもご主人だけだったし。
「ですから、これでおあいこです。
あなたは何かお詫びをしたい。でもわたしはそれはいりません。
あなたはバスの時間までお暇ですよね? わたしはお茶の相手がいませんので寂しかったんです」
ご主人はにこにこ笑って、目の前の及び腰の人にたたみかけた。
「こうも上手く誘われちゃ仕方ないな……お誘いに招かれていい?」
「ええ是非」
ご主人はその人に向けて上機嫌そうに笑った。
「しかし凄いね」
「何がです?」
「本当に見えてないんだよね?」
「ええまぁ」
それはそうだろう。
初対面の人は当惑すると思う。
ご主人は誰かと話すときには、声がする方向を見てくるし、だいたいのものは気配で察するし。
そこに何があるか解っているようにてくてく迷いなく歩く。
位置関係は身体でもう覚えてしまったようだし。家の中は杖なしで歩けるようになっている。こうして家の近所だって距離も位置関係も覚えてしまっていた。
料理だって、位置関係と分量さえ間違えなければなんだって作れるのだ。
ご主人は凄いんだ。
もしかしたらこの人の心のかたちとかが見えてたりするのかなぁ。たまに、ご主人いいひとと悪い人か直感でわかってたみたいだし。
ぼくの鼻みたいにさ。
家に着いて、靴を脱いで中に入った。
「キミは家の中だとお邪魔になっちゃうね」
その人は苦笑してぼくに笑いかけた。
そうなんだよね。
ぼくの図体だと、家の中で御主人の傍にいると邪魔になっちゃう。通路を塞いじゃうし、ご主人の脚をひっかけたりしちゃいそうだし。
家の中ではぼくは役立たずなんだよね。悲しいことに。
電話とか少し離れた所にあるものなら、取次みたいにできるけどさ。
「知人は、そこまで出来なかったから、凄いって思っちゃうな。あ失礼かな」
「いいえ、あなたの声からは褒めてくれる感じがするから」
「そこまでわかっちゃうか」
「案外見えてない方がいいかもしれないわ」
「その分、人の感情の機微が解っちゃうから大変そう、良し悪しだね」
過ぎたるは及ばざるがごとし、と思うよ。何ごともほどほどが良いんだ。
ポットからお湯を注いでティーポットに移した。
芳醇な紅茶の香りが部屋に広がる。
ああ、いいにおいだ。会心の出来だね、これはきっとおいしいよ。
「はいお茶をどうぞ」
「ありがとう………………おいしい」
お茶を一口飲むと、驚いたみたいに目を丸くしてた。
そうでしょ! 凄くおいしいでしょ!
「よかった。うちで作ってるハーブのお茶なの」
「凄いね、手作りだ」
「ありがとう」
花がほころぶような、そんな表現が似合いそうな笑みをご主人は浮かべた。
ご主人が凄いって解って、褒めてくれるのは嬉しいんだけど。なんとなくぼくは、面白くない気分だった。
ご主人のお気に入りのイスの下に寝そべって、腕を組んで寝そべった。
ぼくは家の中では特に出来る事はないし、ここで何かあるまで待機するつもりだった。
ふん、と鼻でため息をついた。
「あ、お邪魔だったか」
「ふふ、やきもち焼かれちゃったかしら?」
もう、2人ともにこにこしてこっち見ないでよ。ぷいと顔を背ける。
「かわいいレトリーバーだ」
ぼくのそばに屈んで、背中をなでられる。
うー正直気持ちいいけど、ほだされないぞ。頭までなでないでよ。
犬特有の本能を刺激されてるけど。必死に抗う。
「でも頼もしいの。わたしをナビしてくれるパートナーなのよ」
ご主人が嬉しいことを言ってくれた。
「立派な盲導犬だな」
なでなでなでなで。ねぇなで過ぎじゃないかな、ちょっと。ほだされちゃうじゃないか。
でも立派のは当然だよ、だってそれがぼくのお仕事だからね。
某所で書いた別名義のものを手直ししました。
主人と従者? いいえパートナーです。