第八十四話
「これからはミノリさんの事を『姉様』と呼んでいいですか?」
ノノにそう聞かれた時、私の頭に昔の記憶が蘇った。
私は以前にも、ある娘から『お姉様』と呼ばれていた。
しかしとある出来事を契機に、今ではその娘からは『お姉様』と呼ばれなくなった。
だからもう二度と、誰かから姉のように慕われる事はないと思っていた。
『お姉様』と呼ばれる資格すらないと思っていた……けれど。
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「それじゃ午後の訓練を開始するぞ。って言っても『乙女練武祭』前だ。各自怪我だけはしない様に気を付けろよ。解散!」
ミコ先生の号令でちりじりになる生徒達。
この時期――『乙女練武祭』前の訓練は、各自で自由に時間を使って良いことになっている。
教室に残って術の教本を読む生徒。身体を動かすために運動場へ向かう生徒と様々。
そんな中、私は一人ミコ先生に近付く。
「ん?どうしたミノリ?」
「……ノノの姿が見えないのですが」
昨日からAクラスに入ってきたノノが、この場に居ない事が気になってミコ先生に聞く。
「あいつなら寮の部屋で休んでいるぞ」
「何かあったのですか?」
「ただの体調不良だ。午前中から休んでいるってナナシ先生から連絡が来ている」
「そう……ですか」
ミコ先生の言葉に頷きつつも、私は疑問を覚える。
今朝のノノは、どこかぼーっとしている所はあったけど、体調が悪そうには見えなかった。
とすると、やっぱり何かあったのではと考えてしまう。
「それよりミノリ、やっぱり『乙女練武祭』に出る気は無いのか?」
「……いえ」
「それに個人的にはハルカとの対決が見たいんだがな」
「先生は知っているでしょう」
私とハルカが仮契約する『タリアの娘』の事情ついて、ミコ先生は知っている筈。
それなのにハルカとの対決が見たいと言う。
「それでもどうなるかはその時になってみないと分からないだろ。ま、お前もこれが最後の『乙女練武祭』なんだ。ちゃんと考えとけよ」
ミコ先生はそう言い残し、教室から出ていった。
最後。その言葉に焦りを覚えるが、どうしたらいいのかは分からない。
残された私は特にすることも無いため、ノノの様子を見るために寮に向かう。
歩きながら私は考える。
ノノの様子がおかしいと思ったのは昨日の昼から。
昨日の朝までは、私の事を「ミノリ姉様」と呼んでいたのに、昼に会った時は「ミノリ先輩」と呼ぶようになっていた。
そしてノノの傍らにはハルカが居て、私がノノを手篭めにしたとか言っていた。……手篭めって何?
それからハルカは、ノノを自分の部屋に引っ越すよう誘った。
結局ノノの答えもハルカとの関係も、有耶無耶の内に聞けていない。
ノノは何て答えるのだろう?ハルカは何を考えているのだろう?
そして、私はどうしたいのだろうか?
私の家は古くからある貴族の家系。それも上流貴族に分類される名家の一つである。
家族は父と兄が二人居る。母は私が生まれてすぐに亡くなっており、私の記憶には残っていない。
男家族に女が一人。私は父や兄達にすこぶる可愛がられた。
そのせいか何時の頃からか私は、甘やかされるだけで満足せず、他の誰かを甘やかしたい、世話を焼きたいと思うようになった。
父は貴族の領主にしては珍しく妾を囲わず、生涯を母に捧げていた。
私はそんな父に、弟や妹が欲しいと言って随分と困らせたものだ。
私がハルカと出会ったのは、7歳の頃。ハルカは4歳。
ハルカの家も上流貴族で、私の家とは曽祖父の代から親交があった。
そして祖父の代で傾きかけた我が家に、金銭を惜しまず援助をしてくれた家でもあった。
しかしそんな事は私には関係なく、ただ世話を焼く相手が出来たとことが嬉しくて、私はハルカを実の妹の様に可愛がった。
そしてハルカも私の事を「お姉様」と呼び、よく懐いてくれた。
私が9歳になったある日、父に呼び出された。
父は珍しく複雑な顔をして私に告げた。
ハルカの家から、私に対してハルカの兄との婚約を申し込まれた事があったと。
ハルカの兄は私の三つ上で、ハルカの家を訪れた時に何度か顔を合わせて軽く話をする位の仲。
私としてはハルカ兄に悪い感情を持っている訳でもないため、特に断る理由も無かった。
それを聞くと父はホッとして顔に戻った。実は祖父の代でハルカの家から援助を受けているため、断り辛かったのだろう。
そして父は「それから」と更に告げる。
10歳になったら『タリアの乙女』の学院に入学させると。これは私の母の遺言だと。
私も始めて知った事だが、母は父と結婚する前に学院に入っていたらしい。
幸か不幸か一人前の『乙女』にはなれなかったが、そこでの経験が母の人生に多大な影響を与えたらしく、娘が生まれたら絶対に学院に通わせたいと、生前に父に言っていたそうだ。
こちらについても異論は無かった為、承諾した。
後日、ハルカに婚約の事を教えると「これで本当のお姉様になりますね」と我が事の様に喜んでいた。
私もその時はそれでいいかなと思っていた。
10歳になると、私は母の遺言通り学院に入学した。
入学試験には問題なく通った。
学院の勉強は、小さい頃から家庭教師が付いていたので特に難しくはなかった。
問題だったのは『乙女』の訓練だ。
周りが次々と、始めての仮契約を済ませてFクラスからEクラスに上がる中、私だけは一人でEクラスに残ったままだった。
気付いた時には、私以外の全員が仮契約を済ませていた。
この学院では勉学よりも『乙女』としての能力の方が優先される。『乙女』のための学院だからそれが当たり前。
私は落ち零れ扱いされ、陰では『白紙』とバカにされていた。
試験用紙を白紙で提出すると点が付かない。つまり0点、落ち零れ。私の髪の色とかけたのだろう。
仮契約が出来なければ、顕現も術も使えない。私は何も出来ない、どこにも進めない状態だった。
私には仮契約が出来ない理由が分からなかった。私だけでなく教師も分からない。すべては『タリアの娘』の思うまま。
そんな理不尽さに、私は寮の部屋でよく泣いていた。
そんな私をよく慰めてくれたのは、同室の先輩。
彼女は「とりあえず寝て、明日から考えればいいよ」とおかしな事を言っていたけど、私はそれで大分気が楽になった。
そして入学して10ヶ月が経った頃、やっと私も仮契約を済ませる事が出来た。
契約した『乙女』の名はバーリ。
私が仮契約に成功したことを先輩に伝えると、その先輩はおめでとうと言いながら布団に潜って寝ていた。
14歳。四年生に進級した私はBクラスに上がっていた。
仮契約を済ませた後、早く皆に追いつこうと努力を怠らなかった結果、これまでの落ち零れっぷりが嘘の様にぐんぐんと『乙女』の顕現や術を覚え、あっと言う間にクラスが上がっていった。
そして『乙女練武祭』で優勝を果たした私は、とうとうAクラスまで昇格したのだった。
その頃には『白紙』ではなく『白』と呼ばれる様になり、皆からも頼りにされるようになっていた。
また私を追って学院に入学したハルカとも相変わらず仲が良く、昔の様にハルカの世話を焼いていた。
五年生になって、二度目の『乙女練武祭』優勝を果たした少し後。
15歳の私は、このまま本契約を結ぶかどうかについて迷っていた。
父とは五年生が終わったら、進級せずに戻ってくる約束になっている。そして戻ったら、婚約者であるハルカ兄と即結婚することも承知していた。
しかし私は『乙女』というものに未練を残していた。
最初のスタートこそ躓いたものの、自分自身の努力によってこうして学院でもトップクラスの実力を得たのだ。
貴族に戻れば、それを捨てる事になる。その踏ん切りが出来なかったのだ。
あれこれお考えた末、私は本契約に挑戦することした。
本契約が成立すれば『乙女』として、失敗すれば貴族として生きようと、自分の運命を『タリアの娘』に任せることにした。
ハルカには黙っていた。反対されるのが分かっていたからだ。
そして運命の日。
私の本契約は――失敗した。
私は『娘』に、仮契約したバーリに見向きもされなかった。
そんな落ち込む私の元にハルカがやって来た。
ハルカは私が本契約に挑戦したことに怒っていたが、それが失敗したことに安堵もしていた。
「これで心残りなく、家に帰れますね」とハルカは言った。
その言葉に私は心がズシリと重くなった。そして同時にどうして落ち込んでいるのかに気付いた。
私は、『乙女』になりたかったのだ。
そしてこれからの事を決意する。
翌年。私は六年生に進級していた。
家には戻らない旨を手紙で伝えてある。
親子の縁が切られることも覚悟はしていたが、父からは卒業するまで待つという返信。
それは同時に、ハルカ兄との婚約もまだ有効であることであった。
ハルカは私が学院に残っていることを知ると、私を家に戻るように説得していたが、私の意志が固いのを知ると激怒し、私のことを「お姉様」と呼ぶことは二度と無かった。
今では私とは碌に会話すらせず、たまに顔を合わせても「この学院には相応しくない」だのと口煩く言われる様になった。
仕方の無い事だ。私はハルカを裏切ったのだから。
ハルカが愛想を付かせるのも無理は無い。
そして二年が経ち、私は最上級生である八年生になった。
あれからも本契約に挑戦しているが、一向に成功することは無かった。
年が経つにつれ、私の元々多くはない口数は減っていった。
周りの同級生もどんどん学院から去っていった。
『乙女』になって軍部に進む者、実家に帰る者。入学した時に居た30人の内、学院に残っているのは数人しか残っていない状態だった。
そして今年が学院に居られる最後の年。
私は一年生の頃の何もできない状態に戻ってしまっていた。
そんなある日。
私の部屋の扉がノックされた。
同室の娘は、所用で数ヶ月は戻ってはこれない。私を訪ねてくる人も少ないから気のせいかとも思ったが、ミコ先生の声がした。
何だろうと扉を開けると、そこにはミコ先生の他にもう一人、銀髪の小さな少女が一緒に居た。




