第五話
「グゥルォォォーーッ!」
私の前方で、こちらを威嚇する圧倒的な存在。
優に3メートルを越す体躯に茶色の毛皮。
私の腹の底まで響く、大きな鳴き声。
口から剥き出しになった鋭い歯は、滴り落ちた血で鮮やかな赤に染まっています。
そして口から吐き出されるのは、獣臭い息と血の香り。
優に50メートルは離れているのに、こちらにまで届いてきそうな錯覚を覚えます。
その存在に対峙するのは、一人の少女。
少女――ナナは、背中に乗せた私がぶるぶる震え出すのを知ると、「大丈夫ですよー」といつもの様に優しく語りかけてきます。
(いえ、全然大丈夫ではありません!早く逃げて下さい!?)
「ママがしっかり付いているので、怖くないわよ。それにしても、私のノノを怖がらせるなんて――」
ナナが全てを喋り終わる前に、
「グゥギャォォーーッ!!」
先ほどよりも一際大きな鳴き声を挙げたソイツは、四肢を地面に付けると、もの凄い速度でこちらに駆け出して来ます。
その姿はまるで、突進して来るダンプカーの様な勢いです。
迫り来る巨体を見て、私はびくっとなって恐怖の余り、
(――あっ!……おしっこ)
漏らしてしまいました。
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「ま、魔獣が出ました!」
そう言って息を切らして慌てているのは、初老のおじいさん。
彼はこの村の村長です。
ここまで走って来たのでしょうか。顔を真っ赤にしていて、禿げた頭からは今にも湯気が昇りそうです。
「魔獣が出たのは何処ですか?」
対称的に、冷静に質問をするナナ。
その凛とした姿に村長も少しは落ち付いたのか、ここにきた理由を喋り始めます。
「あぁ、実はの……」
と、村長の語る内容は以下の通りです。
バール村の西にあるガントの森。この森では、普段から狩猟が行われてます。
今朝も猟師が森に入りますが、なかなか獲物が見つからないため、いつもより深い場所まで入ったそうです。
しばらく森を進んだ所で、猟師は薙ぎ倒された木々を発見します。
木を調べてみると、何か鋭い物で抉り取られた痕があります。
この森には鹿や猪、そして熊が住んでいます。
そのため、もしかして熊が暴れたのではと思い辺りを窺うと、今度は風上から微かに血の臭いがします。
そして慎重に風上に向かった猟師が見たものは、バラバラに解体された、熊の死体らしいです。
辺り一面に飛び散る血や内臓。
驚いた猟師が思わず寄り掛かった隣の木には、熊の右半面が付着してたそうです。
それを見た猟師はパニックになりながらも急いで引き返し、幸運にも何事もなく村に戻ってきました。
そうしてこの事を村長に伝えたそうです。
「分かりました。これから森に向かいます」
話を聞いて、そう返すナナ。
(……え?)
「やはり魔獣でしょうか?」
「十中八九は。念のため村の人間には、村の外には出ないように伝えて下さい」
「既に村の者で分担して、畑や外に出ている連中を呼び戻しに行かせてます」
仕事速いですね村長。
……ではなくて、なんでナナが森に向かう必要があるのでしょうか?
私の疑問を余所に、子供達を解散させたナナは二階の物置部屋に行きます。
修道服の上から外套を羽織ると、あらかじめ用意していたであろう荷物を肩に提げ、家を出ます。
村の南に向かう道すがら、すれ違う村人に「気を付けて下さい」と声を掛けられます。
ナナは軽く返事を返すと村の出入り口に向かい、そのまま村を出ました。
(……うん?……私も一緒にっ!?)
私を背負ったまま。
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そうして森に入って数時間。
小休憩を挟みながら、なんとか猟師が目撃したであろう現場に到着しました。
辺り一面はかなり悲惨な状態になっています。
正直、余り気分が良いものではありません。あんまりにもスプラッタな現場に、見ているこっちが参りそうです。
しかしナナはある程度辺りを見渡すと、更に森の深くに入って行きました。
ここまで彼女の背中で揺られながら、色々考えました。
ナナと村長の会話の流れから、ナナが魔獣を退治するものと思われます。
しかし、どうしてナナが退治するのかは分かりません。
確かにナナは結構、体力があります。
それは私を背負いながら、息一つ乱さずにここまで来たことから、それは明らかです。
随分と森歩きにも慣れているみたいですし。
でも、それでも魔獣?と呼ばれる存在に、天使の様な少女であるナナが勝てるとは思えません。
(それとも、実は魔獣が大したことないのでしょうか?)
とか考えている矢先にソイツ――魔獣と遭遇しました。
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さて、現在進行形で魔獣が迫ってきます。
しかしナナは落ち着き払っていて、
「私の可愛いノノを怖がらせるなんて……」
先ほどの言葉にさりげなく『可愛い』を追加しながら、彼女が両手で棒か何かを握る動作をします。
すると両の腕の中に微かな輝きが灯り、一瞬にしてある物が顕現します。
それは彼女の身長以上もある長柄に湾曲した長い刃を持つ武器――大鎌です。
この時点で魔獣との距離は約20メートル。
彼女は体を捻り大鎌を構えると――魔獣に向かい駆け出す!
残り10メートル。
魔獣は進行方向にある木々を薙ぎ倒しながら、こちらに一直線で迫ります。
私は逃げ出したい衝動に駆られますが、ナナの背中に括り付けられているため、それは叶いません。
そしてナナと魔獣がぶつかりそうな距離まで近付き、私は思わず目を閉じてしまいます。
……。
(……あれ、何ともない?)
ナナが立ち止まったため、私は目を開いて振り返ります。
後方では遠ざかる魔獣の勢いは落ち、その身体がゆっくりとズレて……上下真っ二つに分離しました。
「……死で償いなさい」
呆然とする私の耳にナナの言葉が届きました。
大鎌を振り切った姿勢で風に舞うナナの銀髪は美しく、その姿は私の脳裡に強烈に焼き付きました。
そう……私のおむつの中で感じる、湿った気持ちの悪い感触を忘れさせるくらいに。