02-B
モニカ・アイヒマンというのが、その女性の名前だ。
ノエリアより1つ下の23歳で、ノエリアとは友人なんだとか。
別に招待もされていないのに、私たちと一緒にノエリアの部屋に上がり込んだモニカは、ごろんとベッドに寝転がってからすぐに上体を起こし、ベッドの縁に座った。
「まぁ、座って座って」
手を床に向けて私たちを促すモニカに、ノエリアは目を細めて「それは私のセリフ」と言いつつ、部屋の隅に転がっていたクッションを拾い上げ、私たちに差し出す。
「何か飲む? って言っても、水くらいしかないけど」
苦笑するノエリアに対し、私はフランカと目を合わせてから、「いただきます」と声を揃えた。
水を入れたグラスを私たちに配り終えたノエリアは、自分のグラスも丸い座卓に乗せて、クッションの上に腰を下ろした。
「ごめんね。汚くて狭いでしょ」
「あ、いえ……」
そんなことはないと言おうとしたけど、言葉が喉に引っかかって出てこなかった。
……うん。確かに、汚くて狭い。
建物の古さから来る汚れは、まぁ予想通りだ。だけど、汚いってのはそれだけじゃない。
「今は療養のために仕方なくここにいるけど、普段はほとんど倉庫代わりみたいなものだからね。要らない書類とか服とか、捨てなきゃ捨てなきゃって思うんだけど、なかなかねぇ」
恥ずかしそうに笑うノエリア。
彼女の言葉通り、部屋の床、特に部屋の隅には、書類やら手紙やら本やら何やらの山ができていて、そのいくつかが崩れて足の踏み場を奪っている。
「ホント、女の部屋には見えないよねぇ」
明るい声で割り込んでくるモニカを、ノエリアは口を歪めて睨む。
「あんたの部屋だって、人のこと言えないでしょうが」
「えへへ、そうでした。でもでも、私はこんなふうに、ベッドに下着を置きっぱなしにはしないなぁ」
そう言って摘み上げるのは、大人な感じの黒い下着。ノエリアは「わわわ」と慌ててそれを奪い取ると、部屋の隅に置いてあるバッグに突っ込んだ。
「チェストくらい買ったら? 小さいのなら、この部屋にも入るでしょ」
ニヤニヤしながら言うモニカに、ノエリアは「うるさいよ」と眉を寄せた。
……言われてみれば、確かにタンスどころか収納スペースすら見当たらない。もしかしたら、今下着をしまったあのバッグがその代わりをしているのだろうか。
そもそも、この部屋には家具が極端に少ない。
ある物と言えば、ベッドと、私たちが囲むこの座卓くらいのもので、あとは備え付けのキッチンがあるだけだ。
窓辺に掛かっているカーテンだって無地の灰色で、華やかさや可愛らしさの欠片も無い。
本当に、住めればいいという感じだ。
「ここでずっと暮らすわけじゃないんだし、最低限の物があればいいの」
「ええ~? せっかく帰ってきたのに、またどっか行っちゃうの?」
声色は残念そうだけど、顔は楽しげなモニカ。
「当たり前でしょ? 傭兵を辞めたわけじゃないんだし。怪我が完全に治ったら、また仕事に出るよ」
するとモニカは、肩口までの長さの髪を揺らしながらベッドを下りると、ノエリアの横に座り、眼鏡越しに彼女の顔をじっと見つめ始めた。
「……何?」
訝しげに呟くノエリアに、モニカは笑みを深める。
「ん~? いや、あのいっつも泣いてたノエリアが、立派になったもんだなって思ってさ」
「ちょっと!」
「それは本当ですかっ?」
私と一緒に静かにノエリアとモニカの様子を眺めていたフランカが、突然座卓にばしんと手をついて身を乗り出した。
フランカの反応に、モニカは顔だけくるりとこちらに向けて、ニヤリと笑う。
眼鏡が光る。
「そうそう、そうなのよぉ。この子、この国に来たばかりの頃はろくに仕事にもありつけずに、毎日毎日泣いてたのよ」
「ばっ、馬鹿! 毎日は泣いてないよ!」
慌てて否定するノエリア。
「ですが、頻繁に泣いていらっしゃったのですよね? 私、信じられません!」
はしゃぐフランカ。
「いやいや、ホントなんだよね、これが」
ノエリアは止めようとするものの、モニカはそんなの意にも介さずに話を始めた。
ノエリアは、今からおよそ5年前に、ヘルムヴィーゲ王国からこのオルトリンデ王国へ移住してきた。
そうして、オルトリンデの傭兵として働き始めたんだけど、最初から何度も挫折を味わっていたみたい。
オルトリンデには、ヘルムヴィーゲほどファミリアがいない。加えて、内地に行けば行くほどまともな仕事は少なくなる。
その数少ないまともな仕事は、元々そこらを拠点にしていた傭兵らに取られ、やっとのことで仕事にありつけたと思ったら、女だから、余所者だからと様々な難癖をつけられて途中で辞めさせられたり、門前払いされたりしていたらしい。
そうして、住む場所はおろか食べる物にすら困っていたノエリアに救いの手を差し伸べたのが、モニカだった。
彼女は娼婦。人一人余裕で養えるくらいの稼ぎはある。
「仕事帰りに、朝っぱらから駅前でフラフラしてる女を見つけたの。そしたらその子、私の目の前でいきなり倒れちゃってさ。まぁ、それがノエリアだったんだけど、仕方なく肩を貸して私の部屋に連れ帰ってご飯を食べさせてあげたのよ。そしたらこの子号泣しちゃって。住む場所も何も無いって言うもんだから、しばらく部屋に置いてあげることにしたの」
得意気に話し続けるモニカの横で、ノエリアはなんとも居心地の悪そうな顔をしている。
「なんて言うのかなぁ。そう、捨て犬を拾った時のような感じ? 親に元いた場所に戻してきなさいって怒られるんだけど、捨て犬が可愛すぎて手放せないみたいな。あの時の、私に縋るようなこの子の瞳は忘れられないね。母性本能って言うの? 胸がキュンとしちゃってさ。これはほっとけないだろって感じで、その後もしばらく一緒に暮らしたんだよ」
そうして、「ねー?」とノエリアに向けて首を傾げるモニカ。
ノエリアは頬を少し赤くして、無言のまま顔を背けた。
隣のフランカは目を輝かせながら、モニカの話を「へー」を繰り返しながら聞いていた。
私も、声には出さないけど心の中で同じ相槌を打っていた。
あんなに強くてカッコいい女傭兵のノエリアにも、そんな時代があったんだな。
すごく意外だ。
……でも、思い返せば、そういうのを匂わせることを言っていたような気がしないでもない。
「最初の頃は、比べるまでもなく、娼婦である私の稼ぎの方が多かったんだ。だけど、この子もいろんな環境に慣れたんだろうね。少しずつ確実に傭兵としての実績を積んでいって、北部ではちょっとは名の知れた女傭兵になっていった。もうね、我が子の成長を見ているようで、何度感動の涙を流したことか……」
わざとらしく泣き顔を作って涙を拭うような仕草を見せるモニカに、ノエリアは口を歪めたまま、「そんなもん見たことないっつーの」と忌々しげに呟いていた。
そして、ノエリアがCランクに昇級して稼ぎが安定し始めた1年半ほど前に、別々に暮らすようになったということらしい。
別々と言っても、ちょうど空いてた隣の部屋に移っただけなんだけど。
「……モニカには、本当に感謝してるよ。あんたがいなけりゃ、私はどうなってたかわからないもの。もしかしたら、あのまま野垂れ死んでいたかもしれない」
神妙な顔で感謝の言葉を紡ぐノエリアに対し、モニカは嬉しそうに「そうだぞ~?」と白い歯を見せる。
「私も、あんたに会えて良かったよ。だって、仕事の愚痴を言い合いながら酒を飲む相手ができたんだからさ」
目を丸くするノエリアに、照れ笑いを浮かべるモニカ。どうやら、お互いの気持ちを言葉にし合ったことはあまり無かったようだ。
隣のフランカを見れば、身体は前のめりのまま座卓に両肘をついて頬杖をつき、目の前の2人の様子をニコニコしながら眺めていた。
私も、知らぬ間に笑みを浮かべていた。
一通り話してというか、ノエリアに散々絡んで満足したのか、モニカは疲れてるからと言い残し、あくびをしながら自分の部屋へ戻っていった。
そういえば、さっき眠そうな感じで出てきたっけ。
その後すぐに、フランカが突然、「お部屋のお掃除をさせていただいてよろしいでしょうか」と声を張り上げ、私を巻き込んでノエリアの部屋の掃除を始めた。
ノエリアが「そんなことしなくていいよ」と困ったような表情で言うものの、フランカは「遠慮なさらずに」と終始明るい笑顔を振りまきながら、掃除の手を休めようとはしなかった。
これに関しては、私は特に嫌だなとは思わなかった。
担当官として3ヶ月間私たちのためにいろいろしてくれたノエリアに、どうにかして恩を返したいと考えていたから。
まぁ、こんな掃除程度じゃとても返しきれない恩なんだけど、お礼の言葉だけで済ますよりはマシかなと思ったんだ。
部屋の掃除を終え、3人でお店へ行って食事を済ませれば、もう帰りの汽車に乗る時間だ。
これからもお互いに頑張っていこう、と別れの挨拶などを一通り済ませた後、私はふと思いついたことをノエリアに聞いてみることにした。
「ノエリアさんは、どうしてヘルムヴィーゲからわざわざこんなオルトリンデの内地まで来たんですか? もっと仕事のある場所はいくらでもあったはずなのに」
するとノエリアは、「ああ、それは……」とどこか遠くを見つめる。
「先生がオルトリンデ北部の生まれって言ってたのを覚えててね。ここに来ても先生に会えるわけじゃないのに、ここ以外行き先を考えられなかったんだ。結局、先生の生まれ故郷がどこなのかもわからず、仕事もうまくいかず、フラフラと立ち寄ったこの街でモニカに助けられたってわけ」
「そうだったんですか……」
よっぽど、その先生のことを慕っていたんだろうな。それこそ、自分の肉親のように。
「その方の生まれ故郷を、今でも探していらっしゃるのですか?」
フランカの遠慮がちな問いに、ノエリアは「それはもういいの」と明るく笑った。
「そんなことより、今をちゃんと生きなきゃね。先生もきっと、そう言うと思うし」
その言葉に、私はフランカと顔を見合わせ、微笑した。
汽車の窓から手を振る私たちを、ノエリアはいつまでも見送っていた。
きっとまた会いに来よう。
私は、いや私たちは、そう強く思った。