11-A
フラフラの身体を支えていたのは、死ぬわけにはいかないという強い思いだけだった。
鋭い蹴りを身を低くして躱した私は、一歩前へ踏み込んで剣を振る。
しかしそいつは、私の頭上で宙返りして軽々と攻撃を躱し、そのまま身体をさらに回転させつつ大きな踵を振り下ろしてきた。
それはすんでのところでどうにか避けることに成功したものの、その時にはすでに、そいつの顔は目と鼻の先。
血のように赤い唇が横に大きく避けて弧を描くのを見て、瞬時にぞわりと血が冷える。
「――ぅぐっ!」
次の瞬間、左側頭部に強烈な衝撃が襲う。見開いた目から眼球が飛び出る錯覚に陥るほどの一撃。身体が横へ吹き飛ぶのと、意識が明滅するのは同時だ。
「がっ、はっ……!」
背中から地面に衝突し、一時的に呼吸が止まる。
吸おうとしても酸素が肺に取り込まれないまま地面を跳ね、転がり、うつ伏せ状態でようやく止まった時には、もう身体は動かなかった。
「あ……うぁ……」
苦しい……。死ぬ……。
「ぅはあっ! はぁ! ふはぁ! はぁぁ……」
突然呼吸ができるようになり、仰向けになった身体はありったけの酸素を取り込もうとするかのごとく、私に激しく呼吸させる。
「――!」
私の身体を影で包み込む巨体。逆光の中、その赤い瞳だけはギラリと輝いていた。
――ルイスのお屋敷を出て2時間ほどして街に着いた私は、ふと見上げた遠くの上空に、黒い影を見つけた。街の北にある小さな山の上空だ。
そして、すぐに違和感を覚える。普通の鳥が、この距離であんな大きく見えるものかと。
それは明らかに、この辺りに生息する一般的な鳥の何倍も大きい。
となれば、あれは鳥ではない何か。だけど、鳥以外の生物があんな上の方を飛べるわけがない。
……ファミリアだ。
そう判断した私は、すぐに北の山へ向かうために馬車を探し始めた。
山へ到着する頃、その謎の影はすでに上空には無かった。
意を決して山登りを始めた私は、その中腹にある平地で足を止めることとなる。
そこにあったのは、複数の人間の死体だった。どう見たって、生存者はいない。
私は戦慄した。
その死体のいずれも、肉が裂けていたから。いや、不自然に肉が無くなっていると表すべきか。
肉が無くなっている箇所には、歯型のような痕もある。とすればこれは、何者かによって肉をかじり取られたと見るべきだ。
無造作に転がされている死体の多くは女性。
そして、肉がかじられているのは、頬や胸、腹や尻などの柔らかい部分ばかり。
殺してからなのか生きたままなのかはわからないけど、その何者かは人間を連れ去ってここへ運び、……食っていたということだろう。
そしてそれはきっと、上空に見えたあの影の仕業だ。
そう確信した直後、私は襲われた。
どうにか躱したそれは、大きな翼だった。
ちょうど関節の部分にある手のような部分に鋭い爪があり、それが私の右肩を斬り裂こうとしたんだ。
体勢を整えた私は、襲撃者の姿に驚愕する。
頭部から胴体にかけては、人間の女性と同じような見た目。
しかし、その両腕は巨大な翼、両足は鳥のような形をしていた。
そして、その全身は白い体毛、いや、羽毛のようなもので覆われ、羽毛と同じ色の逆立った髪の下には、赤い瞳と赤い唇が、……冷たい笑みを形作っていたんだ。
ひと目で、普通の生物ではないことがわかる。
だけどこんな生物、今まで見たことがない。
……だとしたら、答えは簡単。
こいつはファミリア。街から見た、あの大きな影の正体だ――
「ぐぅっ!」
太い脚で蹴り上げられた私は、空中で回転しながら近くの木に激突する。
「がっ……!」
舞い散る鮮血は、蹴られた時にその鋭い爪で裂かれた腹部から出たもの。
そしてそこへ、吐き出した血が混ざる。
「あ……ぐ……」
崩れ落ち、地面に横たわる身体。
ヤバい、ヤバいぞ。……本当に、身体が動かない。
手にも足にも力が入らない。頭がクラクラする。
しかし、そいつからは攻撃をやめる気が微塵も感じられない。容赦なんてこれっぽっちも無い。あるわけない。
……こいつは、私を弱らせるか殺すかして食おうとしている。
いや、私はもう限界まで弱っているのだから、やっぱり殺すつもりなんだ。
「死にたく……ない」
私は、死ねない。死んじゃ駄目なんだ……!
右手に意識をやれば、なんと私は剣を手放してはいなかった。
もう、かなりの間攻撃を受け続け、身体の力はすっぽりと抜けてしまっていたはずなのに、剣だけはまだそこに収まっていた。
「……?」
いや、違う。これは私の意思じゃないぞ。剣を握る力なんて、もう無いはずなんだ。
だけど、……そう、手が、私の手が、剣を放さない! 放そうとしない!
「ぅ……」
左足を掴まれる。
そのまま握り潰されるのではないかと思うほどに力の入ったそれは、そいつの翼の関節部分にある手のような物だ。
人が物を掴み上げるように、そいつは私の身体を軽々と持ち上げ、そして大きく振り上げた。
「――!」
振り下ろされる私の身体。直後に何が起こるのかなんて、説明するまでもない。
私は頭から地面に叩きつけられた。
言い表しようのない衝撃が、頭部から首を通って全身を駆け抜ける。
「ぁ……」
もう、声も出ない。痛みも感じない。視界が真っ赤に染まる。
……ああ、頭が割れたのかな。
頭が熱い……。
再び振り上げられる感覚。そしてまた衝撃。それを何度も繰り返される。
そのたびに、もう全く動かなくなった身体がビクンと跳ねる。
……そう、跳ねていた。
それを、すでに意識が無いはずの私は感じていたんだ。
(……?)
あれ? 何が起きた? 視界が、逆さまではなくなっている。
足を掴まれて持ち上げられていたはずなのに。
ぼやけた赤い視界に、そいつの姿がある。
(……!)
なんで? どうしてこいつは左の翼を失っているんだ? 付け根から、血が噴き出しているじゃないか。
一体、何が?
(……?)
私の身体が、……動いてる。
でもそこに、私の意思は無い。勝手に動いているんだ。勝手に動いて、目の前の敵を右手に握った剣で斬り裂いている。
斜めに振り上げた剣が、そいつの右脇腹から左の乳房までを斬り裂き、噴き出す血を浴びながら私は、引き戻した剣でそいつの胸の間を貫いていた。
そのまま、剣を斜めに動かす。
刀身は、そいつの鎖骨を破砕しながら首の左から抜け出し、一歩踏み出すと共に袈裟懸けに振り下ろした剣が、そいつの首を刎ねた。
「――――はっ!」
唐突に、全ての感覚が戻る。五感と共に、全身の痛みも。
そしてその視覚が捉えるのは、崩れゆく敵の姿。
翼、胴、そして首。斬られた全てから赤黒い血を噴き、その糸を空中に残しながら大地へ。
一瞬遅れて頭部が落ち、地面を転がる。
見る間に広がる血の海で、そいつは鋭い牙の生え並んだ口を半開きにし、虚ろに開いたままの赤い目で、空を見上げていた。
「ぐっ、……あっ」
強烈な目まいに負け、私はその場に膝をつく。足に力が入らない。
ガシャリと私の右手から落ちた剣。その刀身は、半ばから折れて無くなっていた。
その事実にショックを受ける暇も無く、私は四つん這いになることも許されず、顔面からその場に倒れ伏した。
最後に感じたのは、頭部からどろりと流れる熱い血液の感触だった……。
「…………」
ぼんやりと、視界が開き、明るくなっていく。
「…………?」
最初に視認できたのは、天井だった。
「……!」
次いで、横になっている感覚。そして、ベッドに寝かされていることを理解する。
ここは、どこだ……?
「気がついたようだね」
「?」
突然横から湧き出した声に、私はわずかに首を巡らせた。それだけで、全身が痛む。
「――!」
「やあ。また会ったね」
ベッドの横に座って私を見ていたのは、金の髪と緑の瞳、そして優しい微笑みを浮かべたあの少年。
「ローレンツ……」
そう。そこにいたのは、AAAランク傭兵のローレンツだった。
「よかった。目を覚ましてくれて」
安堵したようにそう漏らした後、ローレンツは椅子をベッドに近付け、私の顔を覗き込んできた。
近付く彼の顔に、なぜか自然と鼓動が激しくなっていく。
「ティナ。君はね、血まみれの状態で山の麓に倒れていたんだよ」
「――? 山の、麓?」
そんな馬鹿な。山を降りた記憶なんて無い。
私の身体がひとりでに歩いて、山を降りたとでもいうのか?
「僕は、偶然そこを通りがかってね。慌てて君をこの街まで運んだんだ。ここは、街の病院だよ」
私は、何も言えなかった。ただただ困惑していたんだ。
……いや、気味が悪かった。
あのファミリアとの戦闘を思い出す。
私は、あのファミリアに全く歯が立たずに、一方的に痛めつけられていたはずなんだ。
ただの一撃だって、あいつには与えられなかった。それははっきり覚えてる。
……だけど、私はあいつをこの手で殺した。しかもその後、山を降りたらしい。
訳がわからない。一体、何が起きたのだろうか。
わからない。全く理解できない……。
その後、私から事情を聞いた街の警官たちは、ローレンツを伴ってあの山へ向かった。
そして、私の話した通り、山の中腹の平地で複数の人間の死体とファミリアの死体を発見したようだ。
ローレンツによれば、そのファミリアはハーピーという名で、オルトリンデではなかなか見られない強いファミリアなんだそうだ。
群れに出くわせば、高ランクの傭兵ですら苦戦するような強敵らしい。
それをEランクの私がたった1人で倒したことは驚かれたけれど、全くその自覚が無いし、まさか妙な感覚に囚われている内に倒したなんて言うわけにもいかず、ただ黙っていることしかできなかった。
……本当に、なんだったんだろう。
あれは。




