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南雲弘樹 前編

「ちゃんと食べてるぅ?」由美子が俺の顔を覗き込む。

「何で?食べてるよ。ちゃんと」と、校内の売店で買ったフライドポテトを口に入れる。

「それは、ちゃんと食べてるとは言わない!ジャンク食べてるっていうのぉ!油と穀物から生まれるのは多少の満足感と、コレステロールだけだよ!」

 『桜井由美子』は俺の恋人だ。二ヶ月ほど前に告白され、それに答えた。好きだと言われたのは初めてだったので、つい「ああ、いいよ」と答えてしまった。後悔はしていない。むしろ嬉しかった。

「じゃあ何を食べればいいんだ?」平べったい財布の中身を見せる。もう飴玉すら買えない状況だ。一人暮らしをしていると不思議とお金が飛んでいく。一か月前に始めたばかりだが、そろそろ限界だ。計画性のない俺には向いていない。

「自分でお弁当を作ろうとは思わないの?その前に弘樹さ、自炊してるの?」

「それが出来たら苦労しないし、今ここでポテトを食べてもない」フライドポテトを口に入れると油が口に広がる。飲み物が欲しかったが、それを買うお金もない。

「苦労しなきゃダメ!何かを身につけるには努力しなきゃ!弘樹の得意な剣術も、昔から頑張って身につけたんでしょ?」俺は近所の空き地の近くにある道場で、十年ほど剣術の稽古をしている。最近は稽古と言うより、チャンバラ遊びに近い。

 「そうだな。でも、また苦労するのは嫌だな。しかも料理って……」

 「オヌシ、料理を舐めてるなぁ?弘樹は何でも舐めるよね。勉強でしょ、先輩たちでしょ、道場に通ってるオタク達でしょお……」ワザとらしく指折り数え始める。

 「あいつらはいいだろ。舐めても」舐めていると言うよりも、あの手の人種は苦手だった。話しかけても、SF映画に出てくる登場人物の名前やら専門用語を口に出す。内輪話を平気で他人にもふっかけるタイプの奴らだ。

 「この世に舐めてもいいものは一つもない!」と、由美子は断言する。俺より一つ年下だが、そこいらの大人も言わないようなことを言い出す。そこに魅力を感じる。「ねぇ、弘樹のアパートに行ってもいい?今日は木曜日でしょ。『辻斬り長次郎』の日だよ」『辻斬り長次郎』とは、俺の好きな時代劇の内で、最も好きなドラマだった。主人公の長次郎は、昼はお団子屋で静かに団子を焼いているだけだが、夜になると辻斬りに姿を変える。しかも、辻斬りなのに悪しか斬らない、という勧善懲悪の話だ。俺は、その時代劇の殺陣が大好きだった。

しかし、その殺陣を由美子は嫌っていた。『お昼のお団子屋さんのシーンは大好き。でも、どんな理由があっても人殺しはいけない』と、毎回終わりに近づくと言い出す。

「今日は一度、実家に帰って父さんに生活費をおねだりするよ。このままじゃ来月まで生きていけない」俺のアパートは、実家からはそんなに離れていなかったので、すぐに帰れる。何のための一人暮らしなのか……。

「じゃあ私、弘樹の実家に行くよ。前に一度、お邪魔したしね」過去に由美子は、俺の実家に訪ねたことがあった。二か月前に俺が風邪をひいた時に見舞いに来たのだ。因みに、そこで告白された。「あ、でも補修で遅くなるよね。じゃあ私、先に家で待ってるから、早く帰ってきなさいよぉ」と、俺の頬を突く。

雨が降ってきた。校舎裏の階段で腰を掛けて食べていたので、校舎の中に入ろうとする。が、由美子は入ろうとしない。逆に前へ身を乗り出す。

「雨っていいよね」髪が雨で濡れていく。黒く、艶々と光っていた。「こんな田舎の雨ってさ、濡れても私は抵抗ないんだ。なぜだか、わかる?」

「変わり者だから?」冗談のつもりだったが、本当に由美子は変わり者だ。他の女子のすることに逆らい、難しくもくだらない話をする。

「それもある。けど、本当は生きている実感を得ることができるから」

「どういうことだ?」

「雨を感じることができる。雨音を聞くことができる。雨のいい匂いがする。そして……」

「そして、なんだ?」

「そんな日に、弘樹と会ったんだ」由美子が校舎に入ってくる。

「そうだったっけ?」覚えがない。頭の中身をひっくり返して探してもそんな記憶は無かった。

「興味ないんでしょう?男ってそうだよねぇ」残念そうに目を落とす。予鈴が鳴り始める。「じゃ、もうすぐお昼休みも終わるし、教室に戻るね」顔の前に垂れた髪をかきあげる。

 予鈴が鳴り終わると、遠くから由美子が声をかけてくる。「私が弘樹を大切に思っていること、わかっていてね!」と、にっこり微笑みながら手を振る。


 

補修が終わったのは、予定より時間の過ぎた午後五時頃だった。学校から急いで帰宅しようと、俺は走った。傘を持っていなかったので、家に着く頃には頭から足のつま先までずぶ濡れになっていた。濡れることは気にしないが、この状態で家に入ったら母さんが黙っちゃいない。

勢いよくドアを開け、「ただいま!」と、いつもより大きく間抜けっぽい声を出した。由美子が『おかえり!』と言ってずぶ濡れの俺に抱きついてくると予想した。が、予想に反して由美子からの『おかえり』の声はなかった。それどころか、誰からも『おかえりなさい』の声はなかった。『また、生活費をせびりに来たか』という憎まれ口さえない。もう一度「ただいま!」と最初より大きな声を出す。家の中に虚しく木霊する。

誰からも返事がない。とにかく玄関で靴を脱いだ。靴下まで濡れていたので、玄関からリビングまでの床に小さな水溜りをいくつもつくった。とにかくタオルがほしかった。

「ただいま」今度は小さな声を出す。

誰か返事をしてくれ。この時間は家族が全員いる時間だった。木曜のこの時間は父も母も『辻斬り長次郎』を見ている。

リビングのドアに手をかける。テレビの点いている音はした。が、人のいる気配はしなかった。勢いよくドアを開けると、信じられない光景が俺の目に飛び込んできた。

「……嘘だろ?そんな……」

先程、俺のつくった水溜りよりも、はるかに大きな血溜まりがフローリング一面に広がっていた。頭の中が真っ白になる。鼻に血の臭いが強く刺さり、胃がひっくり返りそうになる。とにかく状況を理解しようと、リビングに足を踏み入れる。血溜まりで足を滑らせ、尻餅をつく。また胃がひっくり返る。たまらず嘔吐し、必死の思いで目を正面にやると、頭の半分欠けた父と胸が真っ赤に染まった母の姿が目に入ってきた。

「なんで・・・冗談だろ?おい?」受け止めたくない、受け入れられない現実が俺の目に入り込もうとする。右を向くと、さらに受け止めたくない現実が俺の心に叩きつけられた。

俺の目に、血溜まりにうつ伏せで沈んでいる由美子が目に入ってきた。

急いで駆け寄り、抱き寄せる。胸には大きく、深い傷が痛々しく刻まれていた。テレビで見る傷よりもずっと現実的だった。傷口から覗く肉や内臓が床に零れそうになる。

俺はまともに思考ができなくなった。体中の汗腺から汗が噴き出る。頭が縮む様な錯覚に陥った。そして、呼吸が荒くなった。

由美子が苦しそうに咳をし、「情けない顔になってるよ……」由美子が俺の顔を見ると、吐きだすように言った。温かった由美子の体が冷たくなっていくのを感じる。「せめて悲しい顔はしないでよ。人が死にそうな顔をしている時は」無茶だ。

「……っ」言葉が見つからない。

「どうしたの?ねぇ、何か言っ……」言葉が途切れる。か細かった呼吸がとまり、目を閉じかける。

「おい、ちょっと待ってくれ!」声を掛けると由美子は最後に微笑んだ。

「じゃあね……」そう言うと目を閉じ、呼吸が止まる。息をしてくれ、と強く願ったが願いは聞き入れられなかった。

雨音が静かに聞こえる。その心地よい音がせめての救いだったが、この状況は救いがたい。あまりにも救いがたい。突然、大切な人達を失ったのだ。いや、誰かに奪われたのだ。家族だけではない、俺のことを好きになってくれた由美子までも失ったのだ。

朦朧とする意識の中、警察に電話をしようとリビングを出ようとするが、思うように足が動かなかった。足は震え、血で滑り、何度も尻餅をつく。やっとの思いで電話の所までたどり着き、警察へ連絡をする。警察が来るまで、例え様のない何かを我慢しながら、その場で立ち尽くしていた。悲しみなのか、怒りなのかわからない。いや、その両方が混じり合い、心の中で暴れまわっているのだろう。

サイレンと共に警察と野次馬が到着する。野次馬の中には、高校の同級生や道場の門下生も混じっていた。そのあとは、テレビで見たような状態になった。警官たちの小言が耳につく。俺は雨音に耳を傾ける。先程よりも強くなっていた。

警察が言うには、凶器は刃物のようだ。しかし、ナイフではなく鉈でもない。遺体に残っている痕跡と付着物から、それは日本刀であると断定された。皮肉な話だ。俺の好きだった時代劇の殺陣が、よりによって俺の家でおこなわれたのだ。

警官からは淡々と質問をされ、俺はそれに動揺しながら答えた。相手の警官はテレビドラマに出てくるのとは違い、感情がなく、自分の安定した生活のために職務をこなしている様にしか見えなかった。

その後、自分のアパートへ帰り、布団に潜り込んだ。夜中まで雨は降り続いた。何も考えずに、ただ横になる。

眠れない。雨音が終わる頃には、日が昇っていた。

 それから一週間、あらゆる物事が手っ取り早く行われた。事情聴取に両親の葬式、そして由美子の葬式。回りが素早く流れて行き、俺はその中心にいながらも、ぼぅっと立ち尽くしているだけだった。

 ただ、誰かの強い視線を感じ、吐き気を覚えたのは確かだった。振り向いてみたが、その視線が誰のものだったのかは分からなかった。



葬式の二日後、早くも俺は高校へ行った。休む理由はいくらでもあったし、サボり癖のある俺だが、なぜか学校へと自然に足を運んだ。回りから幾つもの言葉をかけられたが、答える気力はない。ここ最近はロクに食べていなかった。食べないと力は出ない。

教室に入ると、予想通りの哀れみの視線、偽りの同情の視線が俺に突き刺さった。何も言わず自分の席に着くと、後ろから肩を叩かれる。

振り向くと、無表情の空が立っていた。

『鮎川空』は俺の幼馴染だ。栗色の髪を耳の下まで伸ばし、制服を少し着崩して気だるそうな顔をしている。少し前までは後ろ髪を腰の少し下あたりまで伸ばしていたが、ゴールデンウィークを過ぎた頃には今の髪形になっていた。可愛らしくもあり、かっこよくもあるが、かなりガサツで横柄でふてぶてしい子だ。昔から同じ道場で剣術を一緒に習っている。

そういえばゴールデンウィーク前まで付き合っていたが、いつの間にやら俺達のそういう関係は終わっていた。何が原因で終わったのかは、俺は覚えていない。

「おい、朝の挨拶はどうした?」空はまるで教師のような口ぶりで言った。しかし、哀れみや同情よりも俺にはありがたかった。

「あぁ、おはよう……」何も食べてなかったので、声は張れず、擦れていた。今日初めて言葉を発した。

それだけのやり取りに満足したのか、空は自分の席へ戻って行った。そして机に突っ伏して寝始める。彼女は寝るのが好きだ。朝は必ず、教室に入ってきて三十分から三時間は寝る。春は特にそうだ。起きた時間が下校時刻だった事もある。

その後、朝会で校長があの忌まわしい出来事を穿り返し、俺のことや由美子のことを淡々と説明した。そこで安っぽい同情や気休めを聞かされ、教室で担任がまた同じことを繰り返す。普通の生徒ならここで教室を出てヒキコモリになるだろうが、俺はそうしなかった。その後の授業も普段通りに受けた。内容は頭に入らなかったが。未だあの事件が頭で暴れていた。

昼休みになると、俺に話を聞こうとする奴に声をかけられたが黙殺した。もうたくさんだ。

そう思っていると、肩を叩かれた。振り返ると、朝と同様に空が立っていた。「一緒に昼飯食べない?」と、日常的な質問をされた。

朝から何も食べていなかったので、「あぁ」と答える。その時、昼飯を持ってきていないことを思い出した。それを見透かしていたかのように、アルミホイルに包まれたおにぎりを空から渡された。汚い字で『梅』と『コンブ』と書かれていた。みみずのはった様な字だ。

二人で校舎の裏で食べることにした。階段に座り込み、空がおにぎりのアルミホイルを剥がし始める。空のおにぎりには『しゃけ』『たらこ』と、これまた汚い字で書いてあった。そう、空は字がとても汚いのだ。女の子にしては珍しい。

「あたしの大好物の梅をあげたんだからね。感謝して食べなさいよ」空はいつもと変わらず、偉そうな口調で言った。

「俺、梅よりしゃけの方が好きなんだけどさ、交換してくんない?」

「却下」大きな口をあけて、大きなおにぎりを二口で食べた。「もうないし」と『たらこ』と書いてあるおにぎりのアルミホイルを剥がし始める。

「この前の事件について何か聞かないのか?」自分から聞かれたくないこの話題を出してみる。あまりにも普段どおりに接してくる空に、少しだけ違和感を覚えたからだ。

 「聞いてほしいの?」おにぎりを頬張る。剝がれそこなったアルミ箔を地面にペっと吐き捨てる。「あんたの家で起きた惨殺事件について、あんたはあたしにそのことを語りたいわけ?あぁ?」喧嘩越しのセリフが終わる頃、おにぎりを食べ終える。

 「いや、そんなことは……ない」目に焼きついたあの光景が甦る。食事時に語る気にはなれない。それにもし語ったら、空の拳が飛んでくる気がした。

 「でしょ」空は俺の持っている『梅』のおにぎりを手にし、口に頬張り、あっという間に食べ終わる。「嫌なことを蒸し返してどうすんの?ねぇ、由美子ちゃんもあんたの家で殺されたんだからね。由美子ちゃんはあたしの良き後輩であり、親友でもあったの。この悲しみや怒りは、あたしとあんたとで共有しているってことよ。わかる?だからこの前の事件を勝手に蒸し返そうとしないで」そこまで言うと俺の『こんぶ』のおにぎりのアルミホイルを剥がし、かぶりつく。彼女の食べっぷりは見ていて気持ちがいい。

 「あ、俺の昼食・・・」今さら気がつく。

 「突っ込みが遅すぎる」もう食べ終わった。のどに詰まらないのか?そう思った瞬間、空は俺の頬を平手打ちした。本気だったのか、とても痛い。そんじょそこらの拳よりも痛い。

 「反応も遅い」どこからか取り出した『しゃけ』と汚い字で書かれたアルミホイルに包まれたおにぎりを取り出し、「これ食って、力出せ!」と、俺によこす。

 少しそのおにぎりを眺め、「あぁ、そうだな」と横を向くと空はまた、おにぎりにかぶりついていた。いくつ持っているのだ、という疑問を抱きながらやっとアルミホイルを剥がし始める。湿った海苔に包まれたばくだんおにぎりだ。やっとの思いでかぶりつく。いい塩加減の米の味と、少ししょっぱいしゃけの味が口に広がる。だが、飲み込もうとすると、のどに詰まりむせた。それを見て空は「それでいいんだよ」と、六つ目のおにぎりにかぶりついていた。水なしでよく六つも食べるな、と胸を叩きながら思う。

 やっと一つ平らげると、空はもう一つ、「まだいけるだろう」と渡してきた。そのおにぎりには、何も書いてなかった。

 「何が入ってるんだよ」と聞いてみたが、「食ってみれば分かる」と言う目を向けながら七こ目のおにぎりを咥えていた。

 口にすると、梅干しの酸っぱさが口に広がり、唾液が出る。

 「すっぺ!なんだよ、特別なものが入ってると思った……」

 「あたしの大好物さ」七つ目を食べ終わる。「元気でたか?」と空は自分の腹をさすりながら言った。少し苦しそうな顔をする。

 「あぁ、ちょっとな」それは本音であり、励まされた気がする。少しだけ。

 「ちょっと、じゃあだめだ。これ食って元気出せ」と、またおにぎりを渡してくる。今度は『たらこ』だ。空はどこからか持ってきたペットボトルの中のお茶を一気に飲み下した。

 カラになったペットボトルをグシャグシャに丸める。「ふぅ、あたしのマイブーム」

 「なにが?」

 「水を飲まずに限界まで食べる。どんどん苦しくなるでしょ?限界を感じたら水を飲む。すると何が起こると思う?」

 「まぁ、気持いいよね……運動の後の給水のようなもんだろ」

 「違う、そうじゃない。やり遂げたって気持ちになれるし、水のありがたさもわかる。そして何より腹いっぱいになる。運動の後の給水もいいけど、あたしはこっちの方がいいな」

 「ふぅん……でも危険だよね?」

「そこはさじ加減でしょ。喉に詰める奴は年寄りか、バカよ」空の幸福論は食べ物が絡んだり昼寝が絡んだりする。前に一度、そのことを指摘したら「人間の本能ですよ」と、言い返された。

 「んじゃ、あたしは授業まで昼寝してくるから、それ全部食べてから水を飲んで」それだけ言うと腹を抱えながら歩いて行った。やっぱり食べ過ぎたようだ。

 そのあと、俺は三つ目のおにぎりを食べ終わり、売店でお茶を買い、一気に飲み下した。少なからず達成感を得た。そしてなぜか、心が少し癒えた気がした。

 午後の授業が始まり、席に着く。空は戻ってきていない。おそらく、まだ寝ているのだろう、と思っていたら、そそくさと教室に入ってくる。先程よりも服装が乱れていた。

黒板の前の教師の顔を見ると、鼻で笑ったあとに机に顔を突っ伏し、また寝始める。つられて俺も寝てしまった。数学の時間だったからだ。それに長い間、ろくに寝られなかったので深い眠りに落ちる。

 「あ、いっでぇ!」突然の衝撃に目を覚ます。空が教科書の側面で俺の頭をブッ叩いたのだ。しかし、それがありがたかった。悪夢をみていたからだ。あの出来事のフラッシュバックが夢の内容だった。

 「寝すぎだ、授業くらい真面目に聞けよ」空は自分のことを棚上げして言った。

 「お前も寝てたじゃん」

 「あれはフェイク。芝居よ、芝居」なにを言っているんだか。しかし、それはあながち嘘ではないかもしれない。空は英語以外クラスでトップだった。欠点は英語と字の汚さだ。その点、俺は何も言えない。成績はいつも中の下だ。

 「一緒に帰る?」空は目をこすり、欠伸をする。断る理由はなかった。

 「あぁ、うん」空といっしょに帰るのは久々だ。

 「元気出た?」空はもう一度欠伸をした。顎が外れんばかりの大あくびだ。

 「ああ、だいぶ」これは嘘だ。さっきまで悪夢を見ていたのだから。それを見透かしているかのように空は「無理するなよ」と肩にそっと触れた。



 学校の校門を出たところで、空が唐突に「あのさ、恋人って聞こえがいいのに、愛人ってなんで聞こえが悪いのかな?」と、訪ねてきた。

 「はぁ?いきなり何を言ってるの?寝ぼけてんの?」空はまだ眠たそうな顔をしていた。

 「うん、たぶんね。でさ、どう思う?今の質問」正直、答えられる気力も頭の回転も、俺には備わっていなかった。心は未だにごちゃごちゃしていた。

 「空はどう考えているの?」これが精一杯だ。

 「質問を質問で返すな」空は棒読みで言った。伊達がよく俺に言ってたセリフだ。

 『伊達総一』とは、俺たちと同じ道場で剣術を習っていた幼馴染だ。一年前に都会へ引っ越して以来、会っていない。長身で顔立ちがよく、剣の腕がズバ抜けていた。俺や空以上の腕だ。いくらおだてても『こんな時代でこんな才能があっても、ねぇ……』と苦い顔をした。伊達は今、都会で何をしているのだろう。

 「で、答えは?」空が俺の顔を覗き込んできた。

 「知らない、わからない、考えたくない」難しい質問の時や授業の時も、これで平気で通している。

 「またそれ?あきれた……」空はため息の代わりに欠伸をする。こう見ていると、空が猫のようにも見えてくる。欠伸ばかりする、退屈そうな野良猫。

 「あたしの考えはねぇ、愛人のほうが上だと思うのよ。だって愛が入ってるんだよ?恋より愛の方が上に決まってる。あたしはそう思うよ」空は拳を握りながら力説する。眠たそうな顔の力説は説得力に欠ける。

 「どうして?」素朴な疑問をぶつけてみる。

 「恋は下心。愛は真心でしょ」と、目をこする。この場で寝てしまいそうな顔をしているが話すことは、はっきりしている。

 「何でそんな話をするの?」と、また頭に浮かんだ質問をぶつける。

 「あんたが話題を出そうとしないから」と、こちらを睨み、肩を落とす。

 「今、俺の提供できる話題は一つしかないだろ」少し声を荒立てる。

 「蒸し返すなよ」と、一言。しばらく沈黙が続く。空の顔を見ると、何か考え事をしている表情だった。が、眠たそうなのは相変わらずだ。

 「さっきから、あんたって呼ぶけどさ、」空の欲しがる話題をぶつける。「もう下の名前で呼んでくれないんだ?」俺は何をいっているのか……。

 「もう、そういう関係じゃないからねぇ……」と、また遠くの方を見る。

 「せめて名字で呼んでくれてもいいんじゃない?」

 「いぃやぁだっ!」彼女固有の独特な言い方だ。この言い方の時は大抵、本当に言いたい事を隠している時だった。もしくは、相手を完全に馬鹿にしている時だ。

 「道場によって行かない?」遠くの夕焼けから目を離さずに言う。

 「なんで?」今日の俺は単純な質問をしてばかりだ。いつもそうだが。

 「暇だし。あんた、布団とテレビしかない部屋に帰りたいの?」

 「ぬぅ……そうだな。行くよ」俺の部屋以外には帰るところがなかったので、空と道場へ行くことにした。



 しばらく、中身のない質問と応答をしている内に道場の扉の前に立っていた。俺達の通っている道場は、名門でもなければ、その道の達人が仕切っている道場でもない。しかも、やっていることも正しくは剣術ではなかった。

道場主の『小山』は時代劇オタクであり、昔からチャンバラや殺陣が大好きだった。こんなことを、軽くやってみたいと思い立った次の日に、この道場を建てようと決心したらしい。

 そして、この道場にはそんな時代劇好きが集まっている。しかし最近では、外国のSF映画の影響で集まる奴もいれば、ただ竹刀を振り回したいという乱暴な理由の奴もいる。

 道場自体は狭い。道場と呼ぶにはあまりにも狭かった。その場で運動はできず、どちらかというと仲間内で駄弁る場所だった。実際には道場の近場の空き地で筋トレや試合をする。

 扉を開けると、その場には小山が寝転がっていた。四十五歳にしては若く見える。その周辺では門下生が菓子の袋片手に、何やら話し合いをしていた。

 「よ、小山さん」空は軽々しく声をかける。もう眠たそうな顔はしていなかった。外では日が落ちかけている。

 「お、鮎川か。昨日の『辻斬り長次郎』見たか?昨日のも最高だったぞ」俺は見逃した。今の気分であの時代劇は見たくない。

 「ん、南雲も来ていたのか。もう大丈夫なのか?」軽く質問をしてきたので不快ではなかった。しかし聞いてほしくはなかった。顔を歪める。また、あの光景が瞼によみがえる。最悪だ。

 「大丈夫に見えるか?」少しながら苛立ちながら答えた。

 「おまえの悪い癖だな、質問を質問で返す。お前はずっと前から変わらない。もうすぐ十七歳だろ?早くその癖を直さないと大変なことになるぞ」

 「おおげさな……」

 「おおげさではない!」小山と空が口をあわせた。伊達がいなくなってから、この二人に言われ続けている。「まぁこの前、起きたことについて深くは聞かない。聞いてほしくもないだろうしな」小山が立ち上がりながら言う。

 「触れてほしくもないね」俺の正直な感想だ。

 「そうやって現実から逃げるのか?逃げられるのか?」小山が、時代劇のセリフの引用をする。「今のお前には、いろいろ吐き出さなければならないモノがある」時代劇に出てくる親爺のような口調だ。だが、まさに俺の心は吐き出さなければならないもので満ちていた。「せめて、怒りぐらいは発散しなければ後で大変なことになるぞ?その感情で心が押しつぶされるだろう。何とかしなければ、な」と、口の回りの不精髭を軽く撫でる。

 小山は俺の前に立ち、一度咳払いをして言う。「竹刀を持って、空地に出ろ。鮎川、相手してやれ」

 「は?」間抜けな声が道場に響く。空は予想していたかのように、すでに竹刀を持っていた。猫のように伸びをしながら外に出る。こちらをチラッと見ると、顔を外へ戻す。

 「怒りを発散するにはこれが一番だ。時代劇ごっこ」小山は楽しそうに外へ出る。時代劇オタクめ。俺はしぶしぶ、壁にかかっていた竹刀を取り、空き地へ向かう。

空き地では、門下生が集団で周りをランニングしていた。その他の門下生はそれぞれ試合をしていた。ふざけながらやるものもいれば、真剣勝負さながらにやる者もいた。夕日が眩しい。

 「いいねぇ、夕日は。決闘にはうってつけのシチュエーションではないか。美しい!」小山はうっとりしながら顎をなでる。空は、そのセリフには耳を貸さずにストレッチを始める。あまり乗り気ではなかったが、俺もストレッチを始めた。

 周りの門下生たちが集まってくる。真剣勝負をしていた者も途中でやめて、こちらに目をやる。この道場の中では小山も含めて、実力は俺と空が一番だ。そんな俺と空が試合をするのは珍しいことだった。

 刹那、空が俺に胴払いを仕掛けてきた。

小山がいつの間にか「はじめ!」と高らかに声をあげていた。

俺は急いでそれを受けた。手が痺れる。それを合図にスイッチが入ったのか、俺はいつものように、力押し戦法で攻めていた。いつもの手だ。相手が防御に疲れ、怯んだところへ必殺の一撃を放つ。単純だが、下手に攻めるよりはこれが一番だ。

 いつの間にか、昨日の出来事から受けた怒り、無念さなどを空にぶつけていた。

対して空はこちらの攻撃をすべて受け流す。さっきまで眠たそうな顔をしていた人間とは思えないほどの動きを見せた。その動きは時代劇の侍ではなく忍者あるいは、SF映画に出てきた主人公のようだった。

その動きはだんだん速くなる。こちらがムキになって合わせようとすると、空はそれ以上に速くし、竹刀の鋭さを増してくる。油断をすると一本どころか命を奪われかねない。

いつの間にか攻守が逆転していた。俺は守りの戦いが嫌いだ。時代劇の主役は守りの戦いをしない。だから嫌いだ。それに、つまらない。

いったん身を引くと、それに合わせて空も後ろに飛び退く。俺は態勢を整えようとした瞬間、空が それに合わせて飛びかかってきた。最高のタイミングだ。

俺はそれを避ける。受けもせず、右横へと飛びのく。空の竹刀が腕をかすめた。すぐに後ろへと身を翻らせると、空はすでに構え、こちらを睨んでいた。その様は、野良猫ではなく女豹だった。敵意や殺気は無かったが、少し恐怖を覚る。

そこから睨み合いが続いた。夕日に照らされながら、じっと相手の隙ができるのを待つ。回りの門下生は静まり返っていた。小山はまるで少年のような輝く目で俺達の試合を見物していた。

突然、空が欠伸をした。最高の隙だったが、俺は動かなかった。空のよく使う手だ。わざと隙を作り出し、相手の動きを見てカウンターを取る。この手に引っ掛かり、打ち飛ばしから来る袈裟切りを食らう門下生を何度も見てきた。この手を完膚なきまでに破ったのは伊達ただ一人だった。

しかし、欠伸が終わった後、俺は空の小手を狙って飛びかかった。勝ちに急いでいた。勝てばあの事件の無念さを忘れることができる気がした。が、あっさりと受け太刀される。その瞬間、腹に食らい慣れた衝撃が奔った。「ぐほぉうぅ……」

わずかな隙をついて、空が胴払いを仕掛けたのだ。受け太刀からの胴払いが空の得意技だった。空は得意技をいくつも持っている。

小山は満足そうに「勝負あり!」と大きな声で手を挙げた。回りの門下生が、どっとざわめく。俺は負けたのだ。不思議と悔しさは込み上げてこない。充実感だけが残っていた。が、この前のことは忘れられそうにない。

空がこちらに歩み寄ってくる。「なんだよ」俺は赤くなった腹をさする。空の胴払いは食らい慣れてはいたが、やはり痛かった。

「敗者にかける言葉はない」と、時代劇のセリフさながらな口調だった。しかし、腰をかがめ「でも、やっぱりあんた、せっかちだよね。忍耐力が足りない」と言う。

「言葉、かけてんじゃん……」俺はいつもの調子を取り戻したのか、今日初めて俺らしい口調だった。

「あたしはいいのよ」なにを言ってんだかと、俺は苦笑した。

「いい試合だったなぁ。久々だったよ、南雲と鮎川の試合を見るのは」小山が満面の笑みでこちらに走り寄る。

「発散できたか?」

「ぬぅ……微妙」

「そうかぁ」と、小山が笑う。

「見物料ちょうだい」空が手を突き出す。まんざら冗談でもなさそうな口調だ。

「見物料の代わりに、俺の家で飯食ってくか?」

「んじゃあ、それで」俺と空は小山の奥さんの作る夕飯が大好きだった。


 

「あら二人とも、また食べに来たの?よし、今日もたくさん作るわね」小山の奥さんの『涼子さん』は、小山にはもったいないほどの美人だった。年齢は本人からは聞いたことはないが小山が言うには「俺の七つ下だ」と言う。涼子さんの作る料理は素朴だが、とても温かい。今日の料理は何かと期待しながら座布団に腰を下ろす。

「おい、テレビのリモコンはどこだ?」小山が少し慌てる。もうすぐ七時だった。時代劇『田舎侍、貫一郎』の時間だった。

「もう、自分で探してよ。ほら、トイレにあるかもよ!」鍋をかきまぜながら涼子さんが冗談交じりに答える。

「んな訳あるか……お?ちょっとまてよ」小山が頭を掻きながらトイレへ向かう。「ありました、ありました」とにやけながら帰ってくる。なぜトイレに?

急いでテレビをつけると、まだニュースがやっていた。「この事件に関しては八時のニュースで特集をやります」と、肝心の部分を聞き逃した。まさかこの前の事件かと思い、俺は顔を歪めた。

「これじゃない?」と、空が夕刊を差し出した。何やら悲しそうな顔をしていた。その夕刊には『連続殺人事件、今回で十一件目。ターゲットは十五~十八歳の男女?』と書かれていた。普段から新聞を読まない俺だったが、その見出しに目を奪われた。

『田舎侍、貫一郎』が始まっても読み続けた。犯人の特徴や情報は一切不明。凶器は様々と書いてある。犯人は俺の家族と由美子を殺した奴と同一犯かと思ったがきっと違うだろう。この事件は都会で起きていた。その事件では高校生の男子二名が殺されていた。被害者の顔写真が写っていたが、同情できないほど人相が悪かった。

「おい、見ないのか?」小山がテレビを指さす。オープニングが既に終わっていた。それと同時に涼子さんがガスコンロを持ってきた。

「今日は鍋です」と声を弾ませる。「何鍋ですか?」と尋ねると同時に匂いが帰ってくる。山菜鍋だ。肉は入っていないが、それが気にならないほど味付けが良かった。腹が鳴る。今日はおにぎりを三個しか食べていなかった。台所に目をやると、空が食器や箸を用意していた。

「あなたも手伝ってよ、テレビばっかり見てないで。どうせ今日も道場のど真ん中で寝そべっていたんでしょ?違う?」と涼子さんがガスコンロを準備する。

「おい今な、俺は『田舎侍、貫一郎』を見ているんだ。今日の回は鳥羽・伏見の戦いの後半だぞ!頼むよ」この時代劇は新撰組の全盛期と崩壊をうまく描いたドラマだった。

「はいはい。んじゃあ、あとかたづけはあなたと南雲君の二人にやってもらうからね」と、手際よく鍋を持ってくる。やはり山菜鍋だ。また腹が鳴る。

準備が終わると、四人でテーブルを囲んで手をあわせた。「いただきます」と俺と空が口をあわせる。それを見て涼子さんが「召し上がれ」と笑う。それには耳も目も貸さず、小山はずっとテレビを見ていた。俺と空の試合を見ていた時と同じ顔をしていた。

 六月という微妙な季節に鍋とは珍しいが、今日は肌寒かったのでちょうどよかった。俺は遠慮なくいただいた。ご飯を二杯いただき、鍋は取り皿に三杯ほどいただいた。

空は、「おいしい」の一言も言わずに黙々と食べていた。しかし表情は、今日見た中で一番ほころんでいた。空の食べっぷりはやはり見ていて気持ちがいい。

涼子さんは、一升瓶片手に酒を呷っていた。こういうところは少しオヤジ臭い。小山は未だにテレビ画面を睨んでいた。今回の内容は、新撰組が薩長軍の鉄砲隊を前に敗退する内容だった。小山の拳が汗ばみ、奥歯からギュウという音が響く。

 ドラマが終わる頃には、俺と空は鍋を食べ終え、鍋の中には申し訳程の具とスープしか残っていなかった。「おい、俺の夕飯はどこいった」と小山が鍋を指さす。

「ここ」と涼子さんが俺と空の腹をつつく。酔いが少し回っているようだ。顔がほんのりと赤かった。

 「おいおい、飯食ってけとは言ったが、俺の分までとは言ってないぞ」と俺や空の顔に指を向ける。「礼儀がなってないな!武士の心はどこへいった!」

 「これで見物料はチャラ」と、空がコップの水を飲み干す。「それに武士だって、さっきの小山さんを見れば『隙あり!』って言いながら、このおいしい鍋にがっつくと思うよ」 

「四十五分も鍋に手を出さなかったのが悪いんじゃない?」と、俺がつけたす。

 「そう、早い者勝ち、隙あり、勝負ありってね!」涼子さんが、声をあげて笑う。

 「お前たちに、年上の人を敬う心はないのか?」と、言い返す小山。

 「ないな」俺は面白くてしょうがなかった。

 「小山さん以外になら」空は無表情だったが、楽しげな言い方だった。

 「私にもない」と涼子さんがコップの中身を一気に飲み干す。どんどん顔が赤くなる。

 「お前らなぁ……」声の割には顔が穏やかに見えた。俺たちと同じく小山もこの状況を楽しんでいるようだ。

 「一日中、道場で寝転がっているだけのおやじのくせに!」と、涼子さんが大声を出す。完全に出来上がっていた。

 「そういえば、それ以外に何やってんの?」と聞いてみる。本当に疑問だった。

 「一応、月謝を取ってるのだがなぁ」と、頭を掻く。初耳だった。

 「月謝を取っているのか、小山さん!」俺はつい声をあげてしまった。昔は払っていた気がするが、今は全く払っていない。月謝の存在を忘れていた。

 「週に三回は剣術の講義をしているし、取ってもいいだろ?ゼニ」

 「講義って、ただ自分の見てきた時代劇の感想かなんかで、剣術も殺陣の見よう見まねでしょうが」実際、小山が中学生に向かって教えているのを見たことがある。

 「それを講義っていうんだよ!」小山は当然のようだった。

 「世界中の講師に喧嘩売ってるよ。あんた」俺の本音だ。

 「それで月謝を取るなら泥棒ですよ」と空が追い打ちをかける。涼子さんが今度は大口をあけて笑う。どんな笑い方をしても、涼子さんは美しかった。

 「んで、俺の飯は?」と、小山が話題を無理やり変える。すると、涼子さんが台所から丼を持ってくる。それにご飯を盛る。そして、鍋に残った山菜とスープをご飯にかけた。

「お、いいじゃない」と小山が箸を持つと、涼子さんが山菜丼をさらさらと食べ始めた。ものの十秒足らずで食べ終えると、箸を置く。口に飯粒がついていた。一息つくと「今日は飯抜き」と小山に向かって指をさした。小山は口をぽっかり開け、箸を落とす。

 「働かざる者食うべからず」と、俺が口を出す。

 「今ではニートっていうんだって。いわゆる無業者って奴」空が被せる。

 「この人の場合、プー太郎よ」口に付いた飯粒を指でつかみ口にいれる。

 「それじゃあ世界中の太郎さんに失礼ですよ」と、空が涼子さんに囁いた。

 「んじゃあ、ただのプーね!今日からお前は小山プーだ!」涼子さんがまた笑い始める。

 さんざん言われ続け、小山はへこんでいた。「ちょっと外でタバコ吸ってくる」ヨロヨロと腰を持ち上げ、外へと出て行った。

 空に目をやると、いつの間にか酒を呷っていた。涼子さんはテーブルに突っ伏して含み笑いをしている。

 「あんたもやるか?ん?」空がコップを俺に寄こしてきた。遠慮をすると、空はコップに入っていた酒を一気に飲んだ。顔は赤くなっていないが、酔っているとわかる。

 「俺も外で風に当たってくる」実際、鍋を遠慮なく食べたので体が熱く、汗が出ていた。それには答えず、空と涼子さんは、二人の世界に浸った。

 外に出ると、真っ暗闇が広がっており、大空には星が無数に散らばっていた。

 「おう、南雲。お前も出てきたか」たばこを咥えて小山が歩み寄ってくる。「今日、来てくれてありがとな」と、にっこりと笑う。意外な言葉が出てきた。

 「礼を言うのはこっちなのに、なんで?」

 「この前の事件のことでな、涼子のやつ、まるで自分のことのように大泣きしてな、今まで……ずっと暗い顔してたんだよ。今日、お前たちが来てくれたから、涼子は元気になったんだ。本当によかった。本当に……」と、篤い煙を吐く。「南雲はどうなんだよ。元気でたか?忘れることはできたか?」 

 俺はしばらく黙りこみ、気持ちの整理をする。「元気はでた。いつもの調子も取り戻した。が、忘れられるわけがない。あの事件は俺の生涯で……最大のショックだ」

 すると小山は大きい手で両肩を掴み、俺の目をじっと見た。「いいか?殺されたことは忘れるんだ。だが、亡くなった、大事な人たちのことは忘れるな」

 「それは難しいよ。殺された方は特に根強く残る」が、いい言葉だった。時代劇からの引用だろうか?

 「いつか、忘れることができる、もしくは……いや、なんでもない」小山がいきなり口ごもる。

 「もしくは、何?」

 「仇討ちする、か。時代劇の見すぎだな、忘れてくれ」と、タバコを咥える。今度は煙を不味そうに吐き出す。

 仇討ち。その言葉が俺の心にへばりついた。この時代は時代劇とは違い、仇討ちなどはできない。法律があり警察がある。できるわけがない。が、できるものなら犯人を見つけ出し、自分で天誅を下したいと思う。俺も時代劇の見すぎだな。

 「いいか、馬鹿なマネはするなよ。俺の責任になりかねん」と、たばこを消し、携帯灰皿の中へ吸殻を入れる。そして家の中へ戻っていく。

 「仇討ち、ねぇ……」一度口に出してみる。悪い響きではなかった。だが、心で否定する。仇討ちとは人殺しだ。やっていいわけがない。やってしまえば、家族や由美子を殺した奴と同じになってしまう。そんな奴とは同じにはなりたくない。

 「人殺し……」あえて言葉にしてみる。汚れた味がした。十円玉を舐めた様な気分だ。

ふと昔、父に言われた言葉を思い出す。『最近の若い奴らは軽はずみに、ぶっ殺してやるとか言うよな?おまえはそんな風になるなよ。何の覚悟もない奴がそんな言葉を使うことは、愚かなことなんだよ。いいな』懐かしく耳にその言葉が蘇った。

 (じゃあ、覚悟があれば殺していいのか?)俺の心の中でそんな言葉が響いた。だめに決まっている。

(なぜ?俺の大切な人たちを殺した奴は良くって、なぜ俺はだめなんだ?)うるさいなぁ。俺は自問自答するのに慣れていなかったが、不思議と頭から声が聞こえてくる。それが喧しくなってくる。考えるのをやめよう。強制的に思考をやめ、家の中へ入る。

 居間へ戻ると、小山があとかたづけを終わらせていた。テーブルがきれいに拭かれ、その上にはテレビのリモコンと一升瓶が置かれていた。足元に目をやると、空っぽになった一升瓶が一本、それと一緒に涼子さんが転がっていた。腰にタオルケットが掛っている。「う~ん」と唸る。どうやら寝ているようだ。

 「いつの間にか寝てたんだよね」と一緒に飲んでいたはずの空が後ろから声をかけてくる。不思議と酔っていなかった。さっきまでは酔っているように見えたが、どうしたのだろうか?

 「酔ってなかったか?おい」

 「すっごく元気」と、言葉とは裏腹の表情でその場に腰を下ろす。「酔っているように見える?」そうは見えなかったが、目が据わっているようにも見えた。虎の目だ。

 「一応、見えない」と、俺が答えると空は一升瓶に手を伸ばす。コップにつぐと、また一気に呷る。

 「今日は酔いたい……な」と、目を瞑る。

 「おい、そろそろ寝室に行ったらどうだ?」と、小山が台所から出てくると、涼子さんを起こそうと腰を屈める。

 「だぁまぁれぇ~このぷぅ~」と寝言のように答える。

 「プーはどっちだ?」と言いながら涼子さんの腕を肩に回し、寝室へと連れて行く。酔っぱらった上司とその部下にも見える。

 「いい夫婦だよね」目をつぶりながら呟く。何かを考えているのか時折、顔を歪ませる。

 「今、何考えているんだ?」すると信じられない言葉が返ってきた。

 「仇討するか否か。私はできるなら……したい。でも、由美子ちゃんはそんな私を見て悲しむだろうし、望んでもいない」少しずつ泣きたそうな顔になるのがわかる。しかし、首を何度か振り、また無表情に戻った。

 「変なこと考えるなよ」さっきまでの自分の考えを棚に上げる。空も悲しみ、怒っているんだ。昼に言われたセリフを今、理解した。

 「酔った勢いで討っちゃおうかな、とはおもったけどさ、犯人がどこにいるか、誰なのかわかんないんだよね。どこのどいつだよ……ったく」と、また目を瞑る。俺よりも複雑な自問自答をしているのだろうか?

 「おい、鮎川までここで寝るのか?」と、小山が寝室から戻ってくる。

 「瞑想してんの」空が言いわけなのか、本当にそうなのか曖昧な返事をする。

 「泊まるなら布団、勝手に出してから寝ろよ」と、台所へ向かう。冷蔵庫を開ける音がした。何かを漁っているようだ。

 「そうだな、どうする?」

 「あたしが泊まると言えば泊まり、帰ると言えば帰るんでしょ?あんたはさ」

 「は?そ、そう……だけどさ」俺のセリフのパターンを読まれ、狼狽した。

 「あんた、昔から考えるのが嫌いだもんねぇ」言い返す言葉を考えるが、何も出てこない。こんなところで、自分の無知を呪う。国語は勉強しなきゃダメだなぁ……やっぱ。「あたしは泊まる。堂々とお酒が飲めるのはここだけだもの」

 「そうか、じゃあ俺は」空の言う通りになるのが癪に障った。「帰るよ。布団とテレビしかない俺の部屋に」

 「あら、そう」と、またコップの中の酒を飲む。明日になったら二日酔いになるだろうな。

 「なんだ、帰るのか?」と小山が台所から出てくる。片手には、なにやらゴチャゴチャした具の乗っかった丼を持っていた。

 「ああ、元気も貰ったし、もう十分」

 「そうか、じゃあ気ぃつけて帰るんだぞ」

 「元気料ちょうだい」と、空が手を出す。

俺はその手を軽くたたき、「今度な」と、言うと居間を出る。玄関まで行くと、かすかに「今度っていつだ!取り立てに行くぞ!」と、聞こえた。



 時間にして十時頃だろう。辺りは真っ暗で何も見えなかった。星空の光を頼りに帰路についていた。少し、小山の家で泊まっておけばよかった、と後悔した。鳥の鳴く声がする。梟だろうか。木の上で何かが光って見えて一瞬、背筋が凍った。夜の闇は恐怖を生む。

 そんな時、右横の土手の方から鼻歌が聞こえた。最近のラジオから聞こえてくる曲ではなく、聞いたことのないメロディーだった。そちらの方へ目をやっても暗くて何も見えない。早く自分の部屋に帰りたかったこともあり、無視してそのまま歩き続ける。

今日はぐっすり眠れたが、帰り道に聞いた鼻歌と、仇討ちという言葉が頭から離れなかった。仇討ち……。俺はどうすればいいのだろう?空も悩んでいた。しかし、今の時代ではやってはいけない。時代劇とは違う。が、何もしない訳にはいかない。こんな時に伊達はどうするのだろうと、ふと思う。

 

 

 約二年前、俺と空そして伊達は、道場の近場にある空き地に竹刀を構えて立っていた。小山の時代劇オタクらしい好奇心が俺たちにこうさせた。

 「伊達の負ける姿を、正義の味方が負ける様を見たくはないか?」と、俺達三人に問いかけたのだ。

 伊達は当時、正義の味方として通っていた。正義感に対しての道徳観念や考え方、それに対する実行力を備えていた。

 「私が?なぜいきなり?」伊達は珍しく困った顔をしていた。

 「いや、いつも正義が勝つとは限らない。そんな場面を見たいな……と」小山が頭を掻く。

 「昨日の『正義と人斬りと無法者』で納得いかない話があったみたい」と、空が俺に耳打ちする。当時の俺には難しい話の時代劇だった。

 「で、どうやって私を負かす気だ?」この時、道場では伊達の右に出るものはいなかった。空でさえも敵わなかった。

そこで小山が不敵に笑った。不気味だ。「二対一だ。鮎川と南雲が組んで伊達と試合する。面白いことになるとは思わんか?」

 「いじめの誘発、第一歩だな、それは」中学生がいい大人を注意する珍しい光景だった。

 「え?……あぁ、そうだな、そうだった。すまない」小山が肩を落とす。

 そんな小山の表情を見た伊達が、ため息を押し殺しながらも明るい表情になった。「しかし、面白いな。二人が良ければ私はやろう。どちらかが一本を決めればお終いだ。それなら構わない」その時、俺は伊達に負け続けていた。いいチャンスだと思い、伊達の提案に賛成した。

 そして空地に集まり、竹刀を構えた。俺と空が並び、伊達が正面に立っていた。

伊達は試合の時になると、普段の穏やかな目から冷たい目になる。他の門下生は、その目を見て固まるらしい。

最初に詰め寄ったのは俺だった。いつもの戦法で押したが、すべて受け太刀される。しかも片手で。俺の後ろから空が飛びかかる。それに怯まず後ろに飛び退く伊達。不敵な笑みを見せていた。その笑みが面白くなかったのか、空が再び飛びかかる。下からの斬り上げからの袈裟切りを試みたが、あっさり受けられる。伊達は責める気が無いのか、仕掛けてこない。

「なに?余裕なの?」長い後ろ髪を振り乱しながら伊達を睨みつける。

「無駄口を叩くな、鮎川さん。君の悪い癖だ」伊達が言うには、空は余裕がなくなるほど無駄口を叩くらしい。だから空は、俺と戦う時は無口だった。

それにしても伊達の目の色は、相変わらず冷たかった。一度竹刀を振い構えなおす。余裕の表情ではあったが、そろそろ何かを仕掛けてきそうだった。

仕掛けられる前に、俺と空は一斉に攻め込んだ。左右からの矢継ぎ早の攻めにも伊達は対応して見せた。二人分の攻撃を涼しげな顔で受ける伊達。だが、後退せざるおえないのか、逃げ場が少なくなる。

すると、伊達が近くの木に足を懸け、俺の後ろへと飛ぶ。目で追えたが、体が追い付けなかった。背に蹴りを入れられ、俺は空を巻き込んで、無様に転倒した。

「足を引っ張らないで!この猪武者ぁ!」空はいつの間にか立ち上がり、伊達に飛びかかっていた。今度は胴払いからの面だったが、それも受けられる。伊達はそれでも余裕だった。俺達は必死だったが、伊達は試合を楽しんでいた。

空が後ろに飛び退き、態勢を立て直す。そこでも伊達は攻め込まず、こちらの様子を見ていた。そこで空が欠伸をした。このころから空はこの技を使っていた。これを技と呼べるのかは怪しかったが、これに引っ掛かる門下生は少なくない。俺もその中の一人だった。

以外にも伊達はその罠にあえて乗った。この試合で初めての攻めだった。

空のカウンターを一瞬で押し返し、激しい攻めを見せた。時代劇の殺陣でもこんな攻めは見たことがない。伊達は空の首をつかみ、突き飛ばし、さらに押し進む。俺が加勢できる余地はなかった。

「ゴホ!」ついに空が胴を取られた。伊達は、すぐさま竹刀を俺の方へ向けた。

「どうする?南雲」ここで降参するのが賢い方法だったが、俺は賢くなかった。

すぐさま足と腰に力を入れ、伊達に詰め寄ろうと駆ける。伊達の向けていた竹刀の切っ先を払い、猛攻をかけるが、気づいた頃には俺は何もない空間を素振りしていた。その時、伊達はすでに後ろに回り込んでいたのだ。俺が振り向くと、伊達は俺の額に、やさしく面を入れていた。「あ、いって!」まさに完敗だった。

約二年前の忘れられない試合だ。今の伊達なら、俺にどう答えてくれるだろうか?

 

 

 次の日、雨が降っていた。俺は学校を休み、警察署へ向かった。

電話で呼び出されたのだ。雨音が心地よかったが、あの日のことを思い出し、そう思えなくなる。

向かう途中で由美子の家族の人達とはち合わせた。俺は気まずくなったが、むこうはこちらを見ると微笑んで会釈をして通り過ぎて行った。

 警察署に着くと、事務的な対応で奥まで通された。奥の部屋で取り調べを受ける。相手の人は一週間前の警官とは違い、やわらかい性格をした中年の刑事だった。が、感情は籠っているが中途半端な同情を聞かされ、警察署を後にした。

大したことは聞かれなかった。こんなんだったら学校を休むんじゃなかったと思う。足が道場の方角へ自然と向く。小山に、涼子さんに会いに行こうと思った。

 すると、昨日聞いた鼻歌が、雨音に交じり昨日と同じ土手から聞こえてきた。土手の下へと目をやると、こんな田舎には似合わない格好をした男が寝転がっていた。年齢はおそらく二十代前半くらいだろう。黒い半袖のYシャツに黒いズボン。青いネクタイをしていた。肌は白く、短く切った髪は黒く、しっとりと雨に濡れたていた。男の隣にはベージュ色のジャケットが無造作に置かれている。

 「んぅ?」と男がこちらを向く。俺は驚き、目をそらそうとするが、逃げられない。「お、なんだなんだぁ?」とこちらの顔をまじまじと見てくる。そして、立ち上がるとポケットに手を入れてこちらに歩み寄ってくる。不思議な歩き方だった。千鳥足でもなくダンスのステップでもない歩き方だ。「君、最近何か大切なものを失ったでしょお?そんな顔しているよぉ」少しひるむ。顔の割には声が高かった。

 「今の曲は何ですか?鼻歌の……」とにかく、気になっていた質問をしてみた。

 「さあ?なんだろうねぇ。何気なくラジオで聴いた曲かもしれないし、僕が作曲のかもしれないなぁ」男は適当さと真面目さの狭間を行ったり来たりするような言い方をした。

 「変わった曲調ですね」何気なく答える。

 「そうだろそうだろぉ?おたく、名前は?」

 「南雲弘樹です」つい、答えてしまう。

 「珍しい名字だな。それに、いい名前だ。覚えとくよ」男は独自の笑い方をする。違和感のない、どことなく不思議な笑い方だった。

 「あなたの名は?」

 「僕のことはいい」男は目を細める。不思議な顔立ちをしていた。「っで、何を失ったんだい?」他人の心に土足で上がりこむ真似を、その男は平気でしてきた。が、不思議と怒りは込み上げない。むしろ話したくなった。

 「家族と彼女を」そこまで言うと一回深呼吸をし、「奪われた」と吐き出す。

男はさらに目を細める。一回息を吐き出した。「なるほどねぇ、そんな顔だ。んで、南雲君はどうする気なんだい?」興味ありげに聞いてくる。まるでこの手の話に慣れているような口ぶりだった。

「わからない。何か行動したいとは思うけど、何をすればいいのか」初対面の男に何を言っているのか。

「スッキリしたいかぁ?」男は上を見ていた。

 「はい?」まさか麻薬の売人じゃないだろうな?テレビでよくある話だったので不意に頭に浮かんだ。

 「復讐だよ。犯人を見つけて罰を下す。当然だろぉ」今度は真面目にも聞こえ、冗談にも聞こえる言い方だった。偶然にも昨日、俺の考えていたことが話の話題になったのだ。男にとっては必然なのだろうが。

「それはやってはいけない」と、もっともでつまらない返答をする。

 「誰がそんなことを言ったぁ?親かぁ?先生かぁ?友達かぁ?なにがそう思わせるのか!それは秩序だ。この世は秩序で固まっている。人も社会も国も。その秩序が乱れると、法律が修復にかかる。が、法律は完全ではない。だから秩序も完全には修復できない。それにだ、そんな法律のおかげで、今の秩序はぐちゃぐちゃだし、法の目の届かないところでは無秩序が行われる。今もどこかでな。そして、南雲君の家で無秩序が行われた。しかも法の目が届いたにもかかわらず、秩序は回復していない。それどころか、南雲君の心が病む一方だ。これを解決するにはどうすればいい?そう、無秩序だ。毒を以て毒を制す、という言葉通りにすればいいんだよ。自分なりに法の目の届かないところで無秩序、つまり復讐をするんだ。犯人をみつけだして、ね」男はそこまで、淡々と話した。そんな男の話はとても魅力的に聞こえてしまった。

 「でも、いけない。復讐をしてしまったら、俺を殺した犯人と同じになる」俺は男と真剣に会話をしていた。空と会話するのとも、小山と会話するのとも違う。そして、この男には、二人にはない不思議な何かがあった。こんな魅力のあることを言う人は由美子くらいだ。いや、今の俺にとっては彼女以上だった。

 「その犯人と南雲君とは何が違う?同じ人間で、同じ男かもしれないし、同じ年かもしれない。何が違う?服装か?身長か?声か?南雲君と犯人の違いはその程度だ。考え方は人それぞれ違う。当たり前だ。だがな、違いはその程度だ。そして、南雲君の愛する家族や恋人はその犯人の、人それぞれ違う考えによって殺されたんだ。南雲君は何を考える?南雲君は何をすれば満足する。人間は自分の満足を満たすために働き、食べ、眠り、人を殺す。その犯人は南雲君の家族と恋人を殺して満足をしたのだろう。否、していないかもしれない。また新たに誰かの家族や恋人を殺そうとしているかもしれない。そんな犯人は法の目をかわして、人の目をかわして今ものうのうと生活している。法の目に捕まっても、妥当な裁きが犯人に下るのか?もしそいつが死刑になったとしても、南雲君は満足できるのかな?どうだ?」

 「……っく」言葉が出ない。男の言葉の魔力にかかってしまった気分だ。そこで男が追い打ちをかけるように口を開く。

 「南雲君、仇討ちという言葉を知っているかい?時代劇の話の中には仇討ちという行為がある。今の時代と時代劇のころの時代と何が違う?法律か?『人は殺してはいけません。なぜ?いけないことだから』という道徳観念か?そんな考えで今の人間は縛られている。南雲君もだ。人は自由であるべきとまでは言わない。それは無秩序だ。しかし、多少の無秩序くらい許される。法の目が届こうと届くまいと関係ない。やろうと思えばやれる。いつの時代もそうだ。世界ではそんなことが毎日起きている。個人個人の考えが渦巻き、ありとあらゆる犯罪が起きている。いいか?その人間たちと南雲君のどこが違う?南雲君は大事な人たちを身勝手な人間に奪われた。それどころか心まで病んでいくことになる。それでいいのか?南雲君は自分の満足を満たしたくはないのか?」男は手を不思議に動かした。魔法でもかけるような仕草だった。

 「仇討ち、か」また自然に口から出る。

 「ま、決めるのは南雲君の意思だ。それが人間のいいところだ。意思は自由だ。僕も意志を持っている。南雲君の回りの人も、犯人も、法を武器に掲げる奴らも意志を持つ。南雲君は?」ジャケットを拾いに土手を下り、戻ってくる。

 「深く考えるのはよくない。自分の欲求にしたがい、意志を持って行動するんだ。いいね、南雲君」

 「なぜ俺にそんなことを語るんです?俺に何をさせたいんだ?」

 「その場で足踏みするより、歩いた方がいい。僕は今、足踏みをしている南雲君に歩いてほしい」男に嘘はなさそうだった。「しかし、ここはいい所だなぁ。都会とは違って、汚くないしぃ、馬鹿も少ない」と、いうと俺に背を向け、不思議な歩法で歩いて行く。まるで幽霊だ。

 「都会では何をしているんですか?」最後に聞いてみた。本当に気になった。

 「僕のことはいい」と、また歩き始めた。鼻歌を始める。不思議な曲だった。その後ろ姿を黙って眺めていた。何者だったのかという疑問よりも、俺の大切な人たちを奪った奴はどこにいるのかを疑問に思った。俺の中で沸々と、何かが変わりつつあった。

 その後、俺はさっきの男と同じく、土手で寝ころんでいた。心の中の靄を取り除きたかった。雨が強くなるが、かまわず寝ころんでいた。さっきの男のセリフが、頭の中で回り始める。(なぁ、やってもいいんじゃないのか?俺の大事な家族、そして何より由美子を殺した、奪ったやつを殺してもいいんじゃないか?)今、その問いかけに対する否定の声を失いつつあった。(殺すんじゃない。仇討ちだぞ?『辻斬り長次郎』も、あれは正確には辻斬りではなく、正義の制裁の話だ。長次郎と俺のどこが違う?あいつが仇討ちをするのが認められて、俺は認められないのか?変わらないね。長次郎と俺は何も変わらない。俺もやろう。仇討ちをする。すれば、俺の心の靄は晴れるだろう)俺は心の中の声に流されそうになった。

 が、由美子の言葉を思い出した。『どんな理由があっても人は殺しちゃいけないよ!』と、耳に甦る。そうだ、もし俺が人を殺したら由美子はなんて言うだろうか。そんなことを考えながら俺はその場で眠ってしまった。難しい話は苦手だ。



 ここはどこだろう。見たことのある風景だ。校舎の裏、いつもそこで由美子と昼飯を食べた。

誰もいない。雨が降っていて、少し肌寒い。俺はそこにある段差に腰を下ろしていた。隣には由美子がいた。肩まで伸ばした黒い髪を指で分けながら、こちらを向き微笑んでいた。

「今、何を考えているのかな?」由美子が俺の表情を覗いながら問いかけてくる。

「俺がこれから、どんな事をすればいいのか」

「もしかして、仇討ちなんか考えてるでしょ」俺は肩をビクッとさせる。「やっぱり!弘樹は時代劇の見すぎだよ!現実とテレビを混同しちゃダメ。それに私、言ったじゃない、人殺しはいけないって」残念そうな声だった。

「じゃあ、どうすればいい?」

「弘樹がやりたいようにすればいい」

「でも仇討ちはダメなんだろう?」

「もちろん」顔をにっこりさせる。

「仇討ち以外に何をすれば?」

「考えが固執しすぎ。もっと柔らかく考えてよ」

「やわらかく、か」

「それとね、弘樹は影響されすぎだよ。さっきの言葉の影響でそんな考えを肯定しかけたんでしょ?」

「あぁ……」

「それに弘樹は、時代劇を見て剣術を始めたんでしょ?」

「あぁ、そうだったな」子供のころに、『俺、将来、新撰組になる』と、夢を見たことがあった。

「ね?影響されやすいし、自分で考えようとしない。考えてみても、今みたいに苦しむだけでしょ、だから」と、雨の滴が落ちてくる空を見上げる。

「だから?」

「誰にも影響されず、何も考えなければいいんじゃないかな?直感で行動するの」

「それこそダメじゃないのか?直感で行動したら、いずれ仇討ちに走ると思う」

「仇討ちはダメぇ!自分でもわかってるでしょ?いけないことだって。だったらさ、仇討ちの次に思いつくことをしてみたら?」

「次って・・・」すぐには思いつかない。

 「だからね、仇討ちはダメだよ。私や家族のみんな、空さんも悲しむことになるからね」と、俺の頬を指でつついた。



「風邪ひくぞ、浮浪者」目を開けると、空が木の枝で俺の頬を突いていた。雨はやんでいたが、俺の体はびしょびしょに濡れていた。

「こんな所では、さすがのあたしでも寝ないよ。雨が降った後の土手ではね。ん?その顔はなんだ?夢でも見たか?」

「由美子が会いにきた」空が木の枝で俺の頬を、今度は強く突いた。

「何すんだよ!」

「蒸し返すなって」と、空が腰を上げる。俺も泥を払いながら立ち上がる。

「アドバイスをもらった」

「由美子ちゃんのことだから、『考えるな、感じろ』とか言ったんじゃないの?」

「近いな」結論はそうなる。

「あたしも、夢で会おうしているんだけどね、まだ会いに来てくれない」持っていた木の枝をくるくる回し始める。「今から道場に行くんだけど、あんたも来る?」

 「今日はいい」なぜだか断った。今の心境で、道場に行きたくはなかった。

 「反抗期か?若造」

 「なに言ってんだ?女浪人」


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