桜散りいこうとも 3
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院長はクリニックから徒歩五分ほどの距離にある、蕎麦屋さんに連れて行ってくれた。
和食、殊に蕎麦好きな院長のお気に入りの店で、良く出前を取っている。
外観からして、庶民な私には敷居の高さを感じたら、店の中もお上品な感じで私が知っている大衆食堂のような感じではなかった。
ものすごく、嫌な予感がして、恐る恐るメニューを見た瞬間、私はその値段の高さに思わずメニュー票を両手で閉じて院長を見る。
普通の店の二倍近い御立派なお値段。
おごりですか?なんて、冗談で言うんじゃなかったと、おもいっきり後悔する。
高価なものをタダで手にする時ほど、そのしっぺ返しは大きかったりする。
特に院長の場合は、仕事で反動が来る。
私の心中に気付いたのか、院長が眩しいほどの似非紳士スマイルを向ける。
「遠慮なく選べ」
遠慮なくこき使ってやるから。と、その言葉の後に、聞こえない付加価値が付いている。
こう言う時、高価なものを選択すると、後々、自分が働きながら後悔をする。
かといって一番安いものを選ぶと、院長が「俺の財力なめてるのか?」と、不機嫌になって、結局は仕事で苦労する羽目になる。
そんな鬼院長は夏でも冬でも、ざる蕎麦の定食を注文する。
私は悩んだあげく、山菜そばを注文した。味にうるさい院長が週三回もお昼に食べるだけあって、文句なしにお蕎麦は美味しかった。
食事中、何を聞かれるのかとずっと身構えていたけど、結局、院長は何を聞くわけでもなく、単純に食事を済ませただけだった。
店を出て、クリニックに戻る道を二人で歩いた。
私はふと目に入ったものに足を止めた。
街路樹の桜の木の枝に、膨らみかけた桜色の蕾がある。
じきに花は開き、この染井吉野もふくよかな花をたくさん結ぶ。
「…もうじき咲くな」
院長も足を止めて私の隣に立ち、同じ枝に視線を向けていた。
「お前、紫苑が夜桜見に行きたいって言ったのを、嫌がったらしいな。しかもそれで喧嘩したってな?」
だから紫苑のことを色々言ったのかと、ようやく合点が行く。
お互いに仲良くないと言うけれど、プライベートのいろんな情報がダダ漏れになる仲。従兄弟と言うよりは年の離れた兄弟みたいで、院長はわりと紫苑を気にかけている。
「どうして蕎麦屋で聞かなかったんですか?」
「うまい飯を不味くする話なんざ出来るか」
そうだ。楽しいことを邪魔されるのが、院長は大嫌いだったっけ。
「…紫苑、怒ってました?」
「鬱陶しいぐらい落ち込んでたぞ。帰ったら、甘やかせよ?」
「…私が花見を嫌がる理由、話してないですよね?」
院長に視線を向ければ、彼も横目で私を見る。
「…そいつは、お前が話すかどうか決めることだろ」
院長の視線が、不意に鋭くなる。
「まだ、桜は好きにならないのか?」
「…嫌いです」
大っ嫌い。桜の花も、この花が咲く季節も。
見るたび、思い出してしまうから。
四年前に、自分が見捨てた人を。
死なせてしまった人を。
「お前は悪くない…あれは、奴らが自爆しただけだ」
院長は、言葉を吐き捨てるように言い放つ。
不愉快だと言わんばかりに。
私は四年前、両親を捨てた。