桜散りいこうとも 2
§
きっかけは些細なことだった。
昨日の夜、雑誌を見ていた恋人、榊紫苑の一言にその端を発した。
「花見に行きたい」
ソファに腰を下ろしていた彼に近付いて、手に持っていたものを見る。
紫苑が見ていた雑誌のページは、夜桜の名所が書かれていた。
旅行雑誌の花見特集をみて、彼はどうやら触発されたみたいだった。
「南のほうなら、もう桜も咲いてるし。夜なら、人の多いところでも大丈夫だと思うから行こうよ」
芸能界に疎い私でさえ、顔は分からないけれど名前だけは知っていた唯一の芸能人。
俳優、上坂伊織。
それが、紫苑の仕事の顔。
溜め息が出るほど精緻な肢体と甘い美貌は、女性に絶大な人気がある。
三歳の時にキッズモデルとしてデビュー、六歳で子役俳優デビューをして、映画と舞台を中心に活動していた。もともと、その容姿と演技力には定評があって、五年前に主演した映画がヒットして人気に火がついた…らしいと、上坂伊織マニアを自称する職場の仲間から聞いたのだけど。
芸能界音痴な私は、彼から職業を聞くまで彼が俳優だなんて知らなかった。
最近ではドラマにも準主役で出演し、スターダムにのし上がった彼には、ほとんど休みがない。今回の様に一週間も休みが取れるなんて、何年ぶりかのことらしい。
そんな彼が人並みのデートが出来ないことを気遣って、最大限に考えて言ってくれたであろう提案。
私は申し訳ないけれど、乗り気ではなかった。
「何言ってるの。夜桜って言っても、ライトアップされて明るいのよ?すぐ、貴方だってばれちゃうわ」
「どうせ、花見に夢中で、誰も人の顔なんて見ないよ」
「二人で人混みに出掛けるのは、紫苑のマネージャーさんに危ないって注意されたし…」
紫苑はむっとしたように雑誌を閉じ、ソファの横に置く。
「何?吉良は俺より、熊井の言うことを優先させるわけ?」
「そういう意味じゃないけど…『夜桜デート』なんて、スキャンダルになって紫苑の仕事に支障が出るのは、私も嫌よ」
「俺に女がいるからって見限るような奴ら、俺の見た目だけしか見てないファンだろ。そんなファンしかいないなら、中身のない俳優だっていう俺の問題だ」
祖母がイギリス人、母親がフランス人の紫苑は、殆ど外国人にしか見えない端正なルックスと類稀な美貌ばかりが取り上げられる。
役柄も似たような二枚目役ばかりで、俳優である彼の本来の評価は、あまりされない。
「それなら遅かれ早かれ潰れる。ルックスだけのお飾り俳優なんて、いくらでもいる」
「紫苑、そういう言い方するのはやめて」
「やりたい役も出来ない、遊びにも行けない…息が詰まるんだよ!」
声を荒げながらも紫苑は、怒りを押し殺しているようだった。
私生活でも制限を余儀なくされて嫌になっている彼の気持ちも分かっているのに、私には、彼の望みを叶えてあげることはできない。
桜の花を見ることだけは…。
「…お花見に行きたいなら、お友達と行っ」
「俺は、吉良と行きたいんだよ!」
言葉を途中でふさいだ紫苑は、立ち上がり、私を見下ろす。
あまり怒りを見せたことのない、紫苑の鋭い視線と怒気が少し怖い。
「ごめん…お花見だけはどうしても嫌なのよ」
「そんなに俺と出掛けるのが嫌なんだ」
「そうは言ってないでしょ」
「同じことだよ!」
「全然違うわ!お花見なんて、絶対行かないから!」
捻くれたことを言い出した紫苑に、だんだん腹が立って、私は思わずそう怒鳴った。
にらみ合うように互いを見据え、ほぼ同時にそっぽを向いた。
それから、顔も合わせていない。