桜散りいこうとも 1
長い冬を越えて、街道沿いの桜並木にもようやく春の兆しが訪れる。
小さく硬かった花蕾を膨らませ、淡桃色の花弁を綻ばせながら。
私は通勤の足を止め、じきに咲くそれを見上げる。
また、この季節がやってきた。
この悔しいほどに優美で可憐な花が咲く、大嫌いな季節が。
§
「…ら、吉良!」
「は、はいっ!」
大声で呼ばれ慌てて振り返れば、クリニックの院長、榊健斗が腕を組んで呆れ顔だった。
イギリス人の祖母を持つ院長は、百八十㎝の長身でどこか異国めいた雰囲気がある。
白衣には皺もなく、その中に纏っているイタリアブランドのワイシャツもきっちりと着こなす。医者にありがちな不健康さも、ゴルフ焼けの褐色の肌もなく、モデルと称するにも遜色のない凛々しさと、整いすぎた顔立ち。
今年三十八歳になろうという男には到底、見えない若々しさもある。
睡眠外来が主体のメンタルクリニックの若き院長は、私の雇用主であり上司でもある。
彼は患者への人当たりも良いので、彼目当ての女性患者は、女性患者総数の七割を占めているし、医者としての腕も良いので男性患者も多い。
一見、一部の隙もないようなこの英国紳士風の外見の男が、実は真正ドSだとはスタッフしか知らない。
性格の一部が、大きく破綻しているから、私たちスタッフは結構大変だったりする。
「お前、いつまで呆けているつもりだ?皆、昼休憩で出て行ったぞ」
眼鏡越しのライトブラウンの双眸から放たれる険しい視線が、私に突き刺さる。
煮沸消毒をしながらぼんやりしていた私は、タイマーが鳴ったことにも気付かず、ずっと、その場に立ちつくしていたらしい。
あわてて火を止める。
周囲を見渡せば、同僚はいない。
時計は、十三時になろうとしていた。
「もう、こんな時間なんですね…すいません。これが終わったら食後のコーヒーを」
「カルテ整理が今終わった所だ。まだ飯は食ってねぇ」
手早く煮沸消毒した器材を取り出していると、院長が隣に立つ。
頭半分ほど背の高い院長は、訝った表情で私を見下ろす。
「らしくもなく、気が入ってねぇな?」
「…そうですか?」
「紫苑が眠らせなかったのか?」
何時もなら、そのセクハラまがいの台詞も軽くあしらえるのに、今日は紫苑の名前を聞いただけで、胸が痛む。
今、紫苑は少しまとまった休みが出来て毎日家にはいるけれど、そんな艶のある話ではないのだ。
「ちがいますよ…」
「じゃあ、倦怠期か?」
「…どうして、紫苑がらみで聞くんです?」
「あの莫迦以外で悩むことがあるのか?」
莫迦って…仮にも紫苑と院長は従兄弟なのに。
答えずにいれば、院長は白衣を脱ぎ私に投げる。
「飯食いに行くから、着替えてついて来い」
「……おごりですか?」
「…そこだけは、しっかりしてやがるな。貧乏人に金なんざ出させるか。行くぞ」
院長は皮肉めいた苦笑を浮かべた。