儚いからこそ、花火は大輪を咲かす 17
「院長の良さはスタッフの皆、誰より理解していますよ」
自分を見上げて笑う優秀な部下の左頬に、健斗はそっと手をのばす。
包み込むように頬を捉えられた吉良は、ただ相手を見つめ返すしか出来なかった。
普段は皮肉と軽薄さに彩られた似非紳士の彼の表情は、今、滅多に観る事のない彼本来がもつ理知的な真顔だった。
作り演じるのではない素の健斗の面立ちは、やはり紫苑に少し似ているのだと、吉良は目を奪われる。
「そう言う時は、他の連中なんざ引き合いに出すんじゃねえよ。お前を口説きにくくなる」
紫苑とはまた違う、低く骨の髄に響く健斗の囁きに、油断していた吉良はその甘い誘惑を孕む声にゾクリとする。
わずかに頬を朱に染めてしまった吉良は、慌ててそんな自分を振り払おうとする。
「またまた」
何時もの様に笑ってあしらおうとしたが、同時にふわりと煙草の香りが吉良の鼻梁を突く。
間近に迫った相手の顔に驚く間もなく、右の唇の端に柔らかな感触が撫でるように触れて離れた。
「!!!!!?」
口づけられた場所を、確認するように吉良は無意識に指でなぞる。
唇か頬か判断のつかない微妙な位置。
何が起こったか分かってはいても、彼女の頭は真っ白になる。
既に元の距離にある健斗の表情が、ニヤリと歪む。
「凱相手に俺の事を称賛した褒美だ。あいつに嫉妬と怒りに狂った表情をさせるなんざ、お前も大した女だ」
からかわれたと気付き、吉良は耳まで真っ赤に染まる。
「…ほ、褒美って…ただのセクハラじゃないですかっ!常春スケベ親父っ!」
吉良は目の前の男の胸をばしばしと叩く。
健斗はその衝撃をモノともせず、不敵に笑う。
恋人ができようが、相も変わらず初心な面が吉良からは消えない。キス一つで、この恥ずかしがりようは稀有だった。
「離さねぇぞ?お前みたいないじり甲斐のある女、そうはないからな」
さりげなく『おもちゃ宣言』をされて、吉良は悔しそうに相手を睨む。
「前言撤回します!院長なんて、ロクデナシでドSなエロ親父です!良い所なんて、あるもんですかっ」
まるで子供の喧嘩の様な事を言い放った吉良に、健斗は盛大に噴き出す。
「お前は、ほんっとに可愛げのある女だな?しゃあねぇ、食べ損ねた晩飯を奢ってやるから機嫌を直せ」
「食べ物で誤魔化すつもりですか?」
むっとして相手が返事をすれば、健斗は人の悪い笑みを浮かべる。
「ラブホ直行で体を満足させてやろうか?」
「…慰謝料代わりに、御馳走お受けします」
「素直じゃねぇな?」
健斗は首を竦め、吉良に車に戻るように指で促す。
吉良は言われるまま、助手席に戻ろうと歩き出す。
「吉良」
「…はい?」
歩みを止めて吉良が振り返れば、複雑な表情で彼女を見る健斗の姿がある。
「俺の所にいたんじゃ、オペは一生涯、出来ねぇぞ」
健斗はどれだけ努力しても、それだけは吉良に与えてやれない。
それは健斗が彼女を手に入れた時に抱いた、唯一の、負い目でもある。
それを知ってか知らずか、吉良は小さく笑う。
「私が看護師を続けるのは、患者さんが元気になる姿を見たい。それだけです…それは、私が看護師であり続ければどこでも叶いますから。それに…」
「それに?」
「院長の下で働くと、他事が考えられなくなるくらい充実してますから」
「…これからも、俺しか見えなくしてやるさ」
「あー、それ、聞き間違えると口説き文句ですよねぇ」
いつもと変わらず、戯言をあしらった吉良に、健斗は鼻で笑う。
「今更お前が抜けたら、困るんでな。頼むぞ、クリニックの雑用係」
「…それ、クリニックじゃなくて、院長の雑用処理です」
「同じ事だろ」
「はぁ…わかりました。今日はもう遠慮なんかせずに、あのビュッフェより豪華な晩御飯、お願いします」
「良い心がけだ。悶え死にさせてやる」
「それは、悶えるくらい美味しいご飯ですか?仕事で悶え死ぬってことですか?」
「くっくっくっ…どうだろうな?」
健斗はそう言って車に乗り込む。
その楽しげな健斗の様子に、吉良は小さく笑う。
どこかずっと張り詰めた顔をしていた健斗が、普段の彼に戻り吉良は安堵する。
“やっぱり院長はこうでないと”
看護師として引き上げてくれたのが健斗だからこそ、今こうして吉良は笑っていられる。
だから、健斗にも笑っていてもらいたいと思う。
“院長にずっとついていきますよ”
挫折で未練を引きずって生きるのではなく、新たな道を示して一人で歩けるよう吉良を導いてくれたのは、ほかならぬ健斗だから。
吉良は健斗の下で働く事を、自らの意思で決めたのだ。
彼が望む、新たな医療の形を実現させるために。
一人でも多く、心を病んだ人が癒され自分の様に前を向いて生きていけるように。
「おい、捨ててくぞ」
「あ、行きますからっ」
吉良は慌てて歩きだした。
END