儚いからこそ、花火は大輪を咲かす 12
当時、二人は恋人関係ではなかった。
仕事に関して妥協を許さない神経質な凱が、吉良に気安さを許したことで、噂になった事はあるが。
色恋と言うより、年の離れた兄妹の様な親しさはあったと、吉良は記憶する。
それも、仕事に関する一切に、凱は恋愛を持ち込まない主義だったから。
故に、職場の同僚に手を出すような事は、吉良が知る限りでは一切なかった。
それでも、凱も榊一族にふさわしく、院外での女性遍歴は華麗だったが。
だから手を出された記憶のない吉良は、オペナースとしてスキルアップするために、付いて来いと言われているとばかり思っていた。
「お前、それまでにも俺がどれだけ口説いていたか、分かっているのか?」
「私、口説かれていました??」
まったくもって無自覚の相手に、凱は額を押さえ顔を横に振る。
「お前、軽くあしらっていた訳でも、意図的にはぐらかしたのでもはなく、本気で気付いてなかったのか…鈍いにもほどがあるぞ…」
少なくとも凱には冗談様に口説いた覚えも、遊びの感覚で口説いた覚えもない。
周囲の仲間が外堀を埋めようと協力体制になる程には、吉良以外の相手には凱の本気度は伝わっていた。
だが当人だけには、完全に伝わっていなかった。
「す、すいません…恋愛に疎くて」
吉良は申し訳なさそうに、頭を下げた。
榊の口説きは挨拶だと思っていた事もあったが、あの当時、既に美菜と健斗が吉良の預かり知らぬ所で裏工作をして何度か恋愛を駄目にしていた。理由も解らぬまま相手から立て続けに別れ話を切り出されていたので、自分に何か問題があるのではと真剣に悩んで、恋愛に後ろ向きな姿勢になっていた。
それに加えて、徐々に酷くなる親の借金の問題で頭がいっぱいになり、恋愛に意識を向ける余裕もほとんどなかった。
が、ある事を思い出し、恐る恐る相手を見る。
「…も、もしかして、あの時、激怒したのって…」
「お前が、考える間もなく即答で、俺の求婚を断ったからに決まっているだろう」
「す、すいませんでした!」
自分の鈍感ぶりに、吉良は泣きたい気分だった。あまりにも相手に対して失礼過ぎて。
思いっきり頭を下げて吉良は謝罪する。
何となく、吉良の鈍さを理解はしていたものの、此処まで鈍感だとは思わなかった凱は、プロポーズが通じていなかった事実を、五年の歳月を経てようやく知った。
静かに深いダメージを受けて、凱は何も言えなかった。
無言になった凱に、吉良もそれ以上何も言えず、二人の間に重苦しい静寂が流れる。
「…謝るな。それは俺を惨めにさせる」
ぼそりと呟いた凱は、頭を垂れる吉良の頭を軽く撫でる。
こればかりは吉良が悪い訳でもない。健斗と美菜の常にどちらかが、吉良に近付く男の目を摘み取って、吉良の気持ちを恋愛に向かせないよう働きかけたのは凱も分かっていた。
それが自分への牽制も多分に含まれていたので、同期の二人の行動は凱には忌々しい限りだった。殊に健斗とは、そりが合わない上に幼少期から恒常的に互いを比較されて育ったライバル関係でもある。
恋愛を除外しても、難易度の高いオペの成功率を左右させるほど有能な看護師であった吉良を手中に引き込む事は、本家と分家の医師達にとっては需要で、健斗と凱が吉良獲得の矢面に立っていた。
だからそう言った思惑から逸れて、権力に頓着しない、策謀にも恋愛感情にも気付かない吉良の鈍さはある種、凱にとっては救いだった。
「実は、お前が病院を辞めた話は、留学してすぐに親父から連絡がきていた」
大きく、そして華奢で繊細な外科医の手が頭から離れ、吉良は頭を上げる。
「親父も、退職理由については何も言わなかったから、俺はてっきり、プロポーズを断ったからお前が辞めたものだと思っていた」
凱は怒る訳でもなく、穏やかな表情で吉良を見ていた。
「借金が原因なら、どうして、お前は未だにいずみ病院に戻らない。借金も親の事も、健斗が片をつけたのだろう?健斗への義理立てか?」
吉良は首を横に振る。
「それは違います」
「ただ一度の、ミスのせいか」
吉良の頬が露骨にひきつった。だが、すぐに表情を戻し、首を横に振る。
「ミスが理由じゃありません」
「では、どうして今の状況に甘んじている」
俯きしばらく無言だった吉良は、やがて覚悟を決めた様に相手を見る。
健斗以外、誰も知らせていない理由を、吉良は口にする。
「…会長にも、お話してないんですけど…戻らないんじゃなくて、戻れないんです」
「何故?」
「心因的な理由です」
「心因的?」
「…凱先生が留学なさった後、両親の借金の取り立てが酷くなって…そのことで精神的に追い詰められて…そのストレスで、オペ中に過呼吸発作を起こしてしまったんです」
「それは聞いている」
患者の命に別条はなかったものの、一歩間違えれば患者の命を損ないかねないミスを同時に犯してしまった。
それが原因で、吉良は手術室に立つ事を自分から辞退した。
それから一月もしないうちに借金の取り立てが病院にまで来るようになり、吉良はいずみ病院を辞め、慣れないキャバクラの仕事で最終的に身を壊した。
「借金や両親の事が片付いた後、何度か個人的に、器械出しの練習をしたんですけど、その度に過呼吸を起こしてしまって、自分がまるで使い物にならないんです」
自嘲するような笑みが、吉良から零れる。
新しく人生をやり直そうとしたのに、体には後遺症が残った。
戻りたくても戻れない。体が拒絶をするのだ。
自分が心血を注ぎこむほど大好きだった仕事を。
両親によってもたらされた借金で苦しんだ頃の精神的苦痛が、いつまでも吉良の体をむしばんで邪魔をするのだ。
もう、オペナースには戻れない。
そう自覚した時、ショックで先が見えず真っ暗になった。
悔しくて、苦しくて…その時ほど、吉良は両親の所業を憎んだ事はなかった。