儚いからこそ、花火は大輪を咲かす 9
「眞鍋の腕、ただの看護師としてみすみす埋もれさすんは勿体無い。現場に戻るんやったら、わしの所も考えといてや。小姐と一緒にオペをするんは、大歓迎や」
世界的権威にそう言われ、吉良は微笑む。
例え社交辞令でも、看護師冥利に尽きるというものだ。
「ウー先生にそう言っていただけて光栄です」
「あんな、これ社交辞令とちゃうから、ようよう考えてくれな?」
「…何年もブランクがあるので…あまりその…あの頃の様には…」
吉良からは、歯切れの悪い言葉しか出なかった。
「人間、死ぬ気で獲得した感覚は、体が覚えてんのや。それに、眞鍋もわしと同じで、手術が成功して患者が助かった時の、あの陶酔に似た感動の中毒者やろ」
自分の心を悟っているかのような目の前男の言葉に、吉良は胸をかきむしられる。
味わったものしか分からない、あの高揚と達成感。患者が命を繋ぎとめ、この先も生きる事が出来ると思うだけで、自分の事の様に嬉しかった。
胡飛の言うように、命が助かったという喜びを味わう度、自分を磨いて頑張ろうと奮起していた。
どんなに辛くても、辞めてしまいたいと思っても、元気になって退院していく患者の顔が浮かんで踏みとどまり、何度でもオペ室に立った。
すべては、患者が元気に退院する姿を見たかったから。
その至福を、何度でも味わいたいとさえ思った。さながら、中毒者の様に。
「真鍋はわしと同じ匂いがするんや。せやから眞鍋も、過去に囚われて後ろ向きになってしもてても、今はまだ自信失くしたまんまでも、其処が自分の限界と決めつけるんだけは、止めとき」
まるで、吉良の過去を知るかのように諭す相手に、吉良は目を見張る。
「天才なんて呼ばれる生きモンは、人よりちぃっと器用に出来るだけ。挫折もするし、失敗かてする普通の人間や。わしかて、人生投げ捨てたいような仕事の失敗もようさんおうたわ。せやけど、この仕事が好きやっちゅう気持ちは誰にも負けへんし、負けとうない…自分にしか救えん命があるかもしれへん。そう思ったら、もう少し気張ろ思て努力してしまうんや。で、気付いたらまたメス握って患者の前に立っとる…その結果が、今のわしや」
「…ウー先生、もしかして私がオペナースを止めた理由を…?」
胡飛は苦笑いしながら首を掻く。
「いや。さっきの眞鍋の顔がな、わしがオペ失敗して脳外科医やめよ思てた時に、ダチから指摘された表情によう似とってん。せやからカマかけたんや」
「そう…ですか」
「眞鍋も、自分の人生は自分が納得いくように生きたらええ。看護師の仕事は多種多様や。オペナースにこだわる必要も本来はない…まあ、わしの為に今後の活動内容の候補に入れとって欲しい言うんが、わしの勝手な希望やけどな?…ほな、気張りや」
「はい。ありがとうございました。お気をつけて」
胡飛は、吉良の肩を軽く叩き、娘ほどの年の差のある娘と一緒に建物の中に入っていく。
彼との話は、自分を見透かされたようで怖かったけれど、少しだけ自分の気持ちが軽くなった吉良は、深々と一礼し相手を見送った。
§
時は少し遡り、吉良が丁度、榊健斗に電話をかけて繋がずにモヤモヤしていた頃。
榊健斗は人気のない二階のバルコニーで、かかってきた電話の応対をしていた。
「そいつは本当か、美菜」
相手が放った言葉を俄かに信じられず、思わずそう尋ね返していた。
『あたくし、無駄な嘘はつかない主義ですの』
美菜はくすりと笑いながら、そう答える。
「そもそも、このような嘘を貴方に申し上げて、あたくしに何の利益がありますの?』
「まあ、無いな」
『吉良が欲しい男は、凱だけではありませんのよ』
「お前が言うと、別の意味に聞こえるが?」
『そうね。少なくとも凱は、看護師以上の物をあげはに求めているでしょうけどね』
揶揄を肯定され、健斗は閉口する。
妻の言葉の意味を、健斗は正確に理解し、また己もそう感じていたから。
『今のあげはが男としての凱に靡くとは到底思えないけれど、医師としての凱には揺らぐはずだわ』
健斗は胸ポケットから煙草を取り出し、加えて火を灯す。
深く煙を吸い込んで、ゆっくりと紫煙を吐きだした健斗は、庭を見下ろす。
そこには、壮年の男性と話をしている吉良の姿がある。
相手の男が何者であるかを気付いた健斗の視線が、不意に険しくなる。
「…俺の魅力が凱に劣るとでも?」
『負けるとすれば、男としての魅力ではなく、あげはの仕事に対する情熱に…よ。あげはが外来ナースをするなんて、翅をもがれた蝶も同じなのよ』
手術専門の看護師をしていた頃の吉良は、健斗の眼から見ても美菜の眼から見ても、水を得た魚の様に活き活きしていた。
吉良にとって看護師は天職で、オペナースという立場は最良の伴侶を得たも同じ。
だが、己で見つけたその仕事の幸せを、吉良は踏みにじられた。
両親という、血の繋がった肉親に。
一度は看護師であることも捨て、吉良は人生の坂を真っ逆様に落ちた。
身も心も擦り切れるまで、両親が自堕落に生きて作った莫大な借金を、一人どうにかしようとあがいて。
健斗や美菜に泣きごとも言わず、ただ『大丈夫』としか言わず、吉良は彼らから距離を置いた。二人だけではなく、仲の良かったものすべてから吉良は離れた。
吉良は、誰にも金の無心など一切しなかった。
暴力企業の息のかかった借金取りが、親しかったものを不用意に傷つけないように。
結果、彼女は孤独の中で、降りかかった重圧に押しつぶされた。
病院に搬送された吉良と再会した時、健斗も美菜も、その憔悴しきった彼女を見て言葉を失った。
どうにも出来なくなり、全ての箍が外れた吉良の悲痛な泣き声を、健斗と美菜は未だに忘れることはできない。
両親への恨み事でも、理不尽な現実を嘆くのでもなく、救済の手を求めるのでもなく、ただ「看護師を続けたかった」と泣き叫んだ吉良の姿を。