儚いからこそ、花火は大輪を咲かす 8
「はい。申し訳ありません」
「何、謝ってんのや。小姐、その気あるんか?それやったら話は別や」
「い、いえ!そうではなく、ウー先生のお誘いを断るなんて、その、失礼なので」
「オペナースを諦めてもええくらい、旦那に惚れとるっちゅうことやろ?」
「…仕事は生き甲斐です。でも、彼の存在は生きる糧なんです。どんなに辛くても、彼がいるから乗り越えていける気がするんです」
胡飛は、顎を撫でて微かに笑う。
「独身のわしには、甘い話やなぁ。ま、プライベートが充足してこそ、仕事が活きる言うんがわしの持論や。欲張りなんは嫌いやない。どちらもバランス良く取れるよう頑張りぃ」
気分を害した訳でもなく、胡飛は胸の内ポケットから名刺サイズの紙を取り出して吉良に渡す。
「で、わしの下で働く気になったら此処に電話しぃ。わしへのホットラインや」
受け取った吉良は、彼の携帯電話の書いてある名刺に目を瞬かせる。
よもや本当に、直通ダイヤルが記されているとは思いもしなかったのだ。
医師ならば、高名な脳外科の権威へ直通する電話番号など、垂涎ものだ。
求めてもらえるものでもなければ、直々に手渡されるなど一介の看護師には起こり得ない奇跡的な事。
「え…わ、私がこれを頂いても大丈夫なんですか??」
「もちろんや」
「老胡」
胡飛が答えたのと同時に、短く鋭く女性の声で呼ばれた。
胡飛は、びくりと身を竦ませて吉良の背後から歩いてくる女性に視線を向ける。
吉良が振り返れば、そこには榊雄と話をしていた美麗なチャイナドレスの女性、マリー紅が歩いてくる。
「なんや、もう見つかったか」
「見つかったではない。人に、Mr.榊の相手を押し付けて逃げるな」
流麗な日本語だが、少し硬い喋り方。良く通る凛とした美しい声だった。
「ええやん。あいつ財界にコネがあるから、日本への企業進出を本格的に考えるなら、愛想売っても損はないし、リハビリにもなるやろ?」
「…お前、そう言って私に一番面倒な仕事を押し付けたな?」
「あ、バレタ?」
「主賓の取るべき行為ではない」
年若くして企業家として大成した年下の女性の威厳と風格に、胡飛はたじたじで苦笑いし、吉良はその美しさに身惚れる。
近付いた相手は、ヒールの分を除けば吉良とそう背丈は変わらない。
間近で見る相手は、シミ一つない透明な白皙の肌。涼やかなスミレ色の瞳も、高く通った鼻梁も、薄い唇も、どれをとっても美しい。
「やっぱり、美人は近くで見ても美人だわぁ…」
そう呟いた吉良に、マリーが吉良に淡い紫の双眸を向ける。
「…貴女が来ているものが浴衣か?」
美しい相手に突如話しかけられ、吉良は振り子人形の様にコクコクと頷いた。
「確かに美しい召し物だ。着物とはまた違った趣がある。老胡が力説するのも頷ける」
「マリー、そういうときは、まず中身の女性から褒めるもんやで?」
「…そういうものか。済まない、私はコミュニケーション能力が欠如しているので、気を悪くしないでほしい」
殆ど表情の変わらない相手は、そう謝罪する。
「マリーはわしの娘みたいなもんなんやが、喜怒哀楽の感情表現が苦手でなぁ。せやからリハビリも兼ねて、今回、わしのホスト役で社交場に連れてきてん。許したってや」
胡飛からも言われ、吉良は慌てて首を横に振る。
本来なら、口を聞くことも同じ場に立つこともないような、雲の上の存在達に挟まれて、吉良は生きた心地がしない。
「お、お気になさらず。中身は、本当に大したことありませんから」
慌てふためいてそう言えば、マリーの口元がかすかに緩む。
「貴女は表情が良く変わって、愛らしい」
吉良は顔を真っ赤にして、思わず胡飛の方を向く。
胡飛もやや驚いていた。
「び、美人さんに…ほ、褒められた気がするですけど…そ、空耳ですか?」
「わしにも、マリーが褒めとるようにしか聞こえんなぁ…しかも笑うなんて、何年ぶりや?珍しい事もあるもんや」
「うぅ…人生の運を、全部使い果たした気分です」
吉良が顔を押さえ恥じ入って見せれば、胡飛が爆笑する。
「可愛いやっちゃなぁ」
「…老胡、話の腰を折って済まないが、そろそろ出立しないと次の約束に間に合わない」
「もうそないな時間か…」
笑顔の消えた胡飛は、吉良に再度、視線を向ける。
なんちゃって補足:
中国の人は、年上の人を呼ぶ時に苗字の上に「老」と付けて呼びます。日本で言う「●●さん」的なニュアンスです。
ちなみに年下の人を呼ぶ時は苗字の上に「小」をつけるようです。「●●ちゃん・●●君」的な感じなのかな…。