とある日の光景… 2
「まぁ、院長にぽっくり逝かれても困りますし、美菜先生に頼まれているので作るのは構わないんですけど…」
「けど、なんだ?」
「私が院長のお弁当をずっと作っているって知って、紫苑が不機嫌なんですよね」
「あいつは悋気だな」
「だから、今日はオフだった紫苑にも洋風のお弁当を作って置いてきたんですけど…昨日の夜の下準備からずっと機嫌が悪くって…」
何故だか榊健斗に対して異常なライバル心を燃やす紫苑の心情を、吉良は良く理解できない。格別仲が悪い訳でもないのに、時々、子供の様に敵意をむき出しにすることがある。
そんな年下の従兄弟の嫉妬心を、健斗はからかって遊ぶので、時々、周囲を巻き込んで騒動になるのだが、巻き込まれた当事者の吉良があまり分かっていない事も多い。
「だから、今日の朝も犯られた訳だ」
「…やられる?」
言われた事がすぐに理解できず首をかしげた吉良に、健斗が自分の左の首を軽く触れる。
「ついてるぞ、キスマーク」
「!!!!!」
吉良は慌てて両手で首を押さえる。
「う、うそ、来る前に確認したのにっ!」
「…あぁ、嘘だ」
しれっと、健斗はコーヒーを飲む。
カマをかけられて、まんまと引っ掛かった吉良は真っ赤な顔をして上司を睨む。
「セクハラ罪で訴えますよっ!」
「お前こそ、そんなエロフェロモン出して出勤するな。猥褻物陳列罪だ」
「そんなの出すのは、院長と紫苑だけですっ!」
最近になって殊更女性としての色気をましている事を、全くと言っていいほど理解していない女を暫し眺めた健斗は、溜め息を漏らす。
「何にせよ、お前はあいつを甘やかしすぎだ。残りものでも食わせておけ」
吉良は、曖昧に「はぁ…」と答える。
『健斗を甘やかしすぎ!昨日の残りのおかずでも適当に入れておけばいいんだよ』
と、紫苑が昨日、似たような事を言って怒っていたことは内緒にしようと吉良は思う。
『目を喰いしばれぇぇぇぇぇっ!』
突然、健斗の携帯電話から、低い男の声で絶叫が聞こえる。
ある人限定の、メール着信のコールだ。
「…院長。その着信、やっぱり何度聞いても怖いですよ…」
「あ?お茶目の間違いだろ?如実に、あいつを体現してる台詞だ」
どこからその着メッセージをダウンロードしたのかも謎なら、メールの主に対する健斗の評価も吉良にはいまいち謎だった。
健斗はメールを確認すると、おもむろにその画面を吉良に向ける。
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今日も可愛いわっ、あげはっ!
何をお召しになっても、素敵!
でも、そのシャツ、確か二週間前に着ていましてよ?
あたくしの大事なあげはが、同じ服を着るだなんて、
断じて許しませんことよっ!
しーちゃんも、貴方も、何をやっているの!
健、今日の昼休憩、吉良を連れて彼女の服を何着か新調して頂戴。
絶対に、あげはに似合うものを選ぶのよ。
よろしくて?
*******
そのメールの主は、健斗の妻、美菜だった。
吉良は美菜から、抜き打ちで洋服チェックをされている。
健斗が出勤した吉良の写真を撮って、メールに添付するのはそのためだ。
吉良は、メールのメッセージを見て、苦笑いする。
「着回し、ばれてましたか…」
「そんな小手先で、美菜を騙せるわけがないだろうが」
携帯電話を机の上に置いた健斗は、腕を組み、吉良を睨む。
「だって一回しか服を着ないなんて、どう考えても不経済ですよ」
「だからと言って、服の質を落とすな。最近、お前の服の安っぽさが目に余る」
「私は安くても良いんですけど…」
「性根が貧乏くさいだろ。外面ぐらいそれ相応に着飾れ」
その一言に、吉良は頬がひきつる。
「貧乏って…どうせ、特売品しか買いませんよ。湯船にペットボトルいっぱい浮かべて、お湯の節約をしたり、節電で蛍光灯の数を減らしたりしたら、紫苑にそれだけはやめてくれって、ものすごい勢いで泣きつかれましたよ」
やけくその様にカミングアウトされ、今度は健斗の顔がひきつった。
「お前…そこまで貧乏が板についてたのか」
「院長も紫苑も、お金に頓着しなさすぎなんです。お金がないって、ホントに怖いんですからねっ!」
力説され、健斗は深いため息を漏らす。
「紫苑は、服を買い与える道楽がないんじゃなくて、お前に怒られるから、服が気になっても買わずに耐えているわけだ」
図星だったのか、吉良は目を泳がせて健斗の視線から逃れる。
“こいつ、紫苑が榊の本家筋の人間だと知ったら、卒倒してそのまま死ぬな”
医療業界のトップに君臨する、医療法人『聖心会』グループを経営する榊一族の人間であることは知っていても、現総帥が紫苑の父であることを、吉良は知らない。
紫苑がそれを意図的に隠しているので、健斗も彼女に教えるつもりは毛頭なかった。
とはいえ、紫苑が普通に生活する程度の羽振りを吉良に覚えさせなれば、従兄弟が不憫でならないと、健斗は妙に紫苑に同情してしまった。