とある日の光景… 1
院長と吉良の職場での一コマ…ちょっとした閑話な感じです。
その日、いつも通りの時間に出勤した吉良あげはは、クリニックに自分よりも早く出勤した人間が居る事を、室内に広がった香りで気付く。
上質なブルーマウンテンのコーヒー豆で点てられたコーヒーの香り。
それは吉良の雇用主であり、このクリニックの院長である榊健斗がお気に入りのコーヒー豆で、彼が既に出勤したと言う証しでもある。
普段は、吉良の方が早く来るのだが、時々、榊健斗は彼女よりも出勤している事がある。
「おはようございます」
私服姿のまま、吉良は診療室を覗く。
均整のとれた長身に、すこし彫が深い甘い顔貌。
イタリア製のスーツを着こなし、診療室の革張りの豪奢な椅子に腰をかける姿は、医者には到底見えない。
モデルの様に一枚の絵になり、大企業の役員のような威厳の様なものも感じる。
長い脚を組み、優雅に自分で点てたコーヒーを飲んでいた健斗は、声の主に視線だけを向けた。
健斗の右手とも言える看護師は、淡いブルーのシャツに、白のパンツ、パンプスというラフな格好で出勤していた。
ラフだが手抜きと言う訳でもなく、TPOを弁えた上で、均整がとれ女性らしい曲線を描く吉良の肢体に似合った、清楚な色気を添える。
黒縁のメガネ越しに吉良を見、健斗はおもむろに携帯電話を彼女に向ける。
カシャッと電子音がし、彼は何事もなかったかのように携帯電話を操作する。
健斗が先に出勤している時は、挨拶もなしに写メをとられる事が、何年も出勤の度に繰り返されているので、吉良も今更、文句を言う気もない。
その写真がメール添付され、どこへ送られているのかも知っているので、余計に何も言わない。
健斗流の妻への愛の日課だと知っているから。
長い付き合いの医師の前に歩み寄り、吉良は持っていた紙袋を机の上に置く。
「お弁当です」
「今日のメニューは?」
「筑前煮と、鮭の塩焼き、ほうれん草のお浸し、出し巻き卵。あとハンバーグです」
「ハンバーグ?」
片眉の眉尻を吊り上げた健斗は、形のよい唇の端を不機嫌に歪める。
「俺の弁当に、昨日の残りものを入れやがったな?」
「違いますよ。ハンバーグは、紫苑のお昼ご飯用に作った残りです」
「結局残りものか」
「わがまま言わないでください」
呆れたように、長身の看護師は腕を組む。
週に二度、吉良は彼の昼の弁当を作る。和食党の健斗の為に、基本、和食料理で。
無論、自発的ではない。健斗の妻、榊美菜に頼まれているからだ。
「給料に手間賃を加算してやってるだろうが」
「…そんなもの、材料費で相殺されます」
舌の肥えている健斗は、吉良が安い素材で料理を作ろうものなら、容赦ない文句を言う。
味付けだけでは誤魔化されない、ハイソサエティーでエリートな舌の持ち主だった。
必然的に、良い素材を選んで調理しなければ、料理に満足しない。
一方の吉良は、極貧生活を乗り切るために安い素材をおいしく調理することに心血を注いでいたため、腕前に対して、健斗が文句を言ったことは一度もない。
「特売品なんざで、俺を満足させられると思う方が間違いだ」
「それなら、ご自分の家にいる料理人にお弁当を作らせたらどうです?」
健斗の妻、美菜は料理など一切作らない。いや、作れない。
社長令嬢として、蝶よ花よと育てられた美菜は、料理をはじめ家事の一切をしたことはない。華族の血筋である彼女は、生粋のお嬢様として身の回りの一切は使用人が全て行っていた。
故に、彼女が健斗と結婚する際には、執事とメイドが数人オプションで付いてきている。
過去に一度、美菜がキッチンに立った際、リフォーム必須の壊滅状態になり、健斗も彼女をキッチンには絶対に立たせない。そもそも、彼女に家庭的な能力は期待していないし求めても居ない。
代わりに専属の料理人が、健斗の家にはいる。
「あいつらは、美菜の嗜好に合わせて洋食専門だ。和食は作らない」
「それなら、外食すればいいじゃないですか」
「毎日毎日、外食なんざしてたら、栄養の偏り過ぎで成人病になるだろうが。塩分と脂肪分の過剰摂取をさせて俺を殺すつもりか」
普段からして医者らしからぬ男の、ここぞとばかりの医者らしいセリフに、吉良は苦笑する。