Calling 後篇
いつも『吉良』と名字で呼ぶ彼に、名前で呼んでもらいたくてお願いをしてから、もう半月が経っていた。
ずっと呼んでもらえなかった自分の名前の響きに、吉良は胸が高鳴る。
「い、今、あげはって呼んだ?」
相手の手を解いて振り返ろうとしたけれど、紫苑の手はびくともしない。
「な、なんで力入れてるの?」
「顔見られたくない…」
「どうして?」
紫苑は自分の腕を外そうとしている吉良の左手を、逆に掴んで握る。
その左手薬指には、紫苑が贈ったピンクサファイアの指輪がある。
「…照れくさくて恥ずかしいから、見ないで」
意外な所で純情な一面を披露する紫苑に、吉良は噴き出す。
好きだと告白するよりも前にキスをして迫ってきた相手と、目の前の相手が同一人物とは到底思えなかった。
色事が平気で出来るのに、ただ名前を呼ぶことがどうして恥ずかしいのか、吉良には分からない。
「キスは平気なのに、変なの」
「手が早くて悪かったよ…」
「悪すぎよ?私、貴方に会う度に貞操の危機だったもの」
「何で今日はそんなに意地悪な訳?」
不貞腐れたように答えた紫苑の腕が緩んで、彼の体が少し離れる。
吉良は体を捻り、俯く紫苑の顔を覗きこめば、年下の彼は僅かにむっとした顔をして吉良を見ていた。
年上彼女は、そんな紫苑に微笑みながら自分の指にある指輪を撫でる。
「…ホントはね、ずっと紫苑が名前を呼んでくれるのを待ってたの…約束したのに、ずっと呼んでくれなくて…そう言ってくれたことは夢だったのかなって、心配だったの」
もし夢だったらと思うと本人には直接聞く事が出来ず、吉良はこの半月、ずっとモヤモヤしていた。
そんな吉良の性格を悟った紫苑は、吉良の髪を梳くように撫でながら、彼女の額に口付けを落とす。
「待たせてごめん」
「ううん。すごく嬉しかった。呼んでくれてありがとう、紫苑」
恋人の素直な礼に、照れと恥ずかしさがよみがえった紫苑の頬は赤く染まり、彼は思わず視線をそらした。
吉良はそれを見て思わず胸がキュンとなる。
成人男性に可愛いなんて言葉は不相応だと分かりながらも、思ってしまう。
いつも、恋愛絡みは年下の紫苑にばかりリードされて、こんな風に彼が照れる場面なんて吉良は滅多に見られない。
だからこそ、紫苑が自分と同じように照れたり恥ずかしかったりするのだと、わかって一層に嬉しくなる。
「…紫苑、もう一回、名前で呼んでくれる?」
そう問えば、年下の彼氏はちらりと吉良を見る。
自分を上目遣いで見る彼女の瞳は、期待できらきらしている。
ただ名前を呼んだだけなのに、それほど嬉しいのかと一瞬、紫苑は考える。
“…あの時は、すごく嬉しかったな”
自分が吉良から名前を呼ばれた時の事を思い返し、小さく笑った。
今の吉良の心境は、過去の自分と同じなのだと、紫苑は感じる。
あの時の自分が、吉良と同じような表情をしていたのかと思うと、紫苑はものすごく恥ずかしい気分だった。だが、吉良が喜んで笑ってくれるのなら、何度だって彼女を名前で呼びたい。そうも思う。
「あげは」
少しぎこちなく、照れ混じりに紫苑は彼女の名を呼んだ。
彼女の目を見て。
普段の彼にして見れば、驚くほど頼りの無い声で。
自己嫌悪に陥りそうになった彼に、吉良は紫苑の首に腕を絡め、ぎゅっと抱きつく。
突然の予想外の抱擁に、紫苑は後ろに倒れそうになるが、床に手をつき片腕で体を支え、もう片方で吉良を抱えて支える。
「な、何?」
「う、嬉しいけど、み、見つめられて呼ばれるのは、刺激が強すぎて、まだ無理…かも…恥ずかしくて…倒れそう…」
消え入りそうな声でそう答える吉良が、紫苑の理性の壁を大きく揺さぶる。
自分以上に照れ、その顔を隠そうと抱きついてきた相手を、紫苑は床に組み伏せる。
「そんな可愛い事言うと、このまま食べちゃうよ?」
びくりと吉良の体が大きく揺れる。
「よ…四日前にしたじゃない…」
「三日もしてないだろ?」
「だ、駄目よ…今日は、紫苑も仕事で疲れてるし、私も徹夜したから…ね?」
体に障ると丁重なお断りを入れた吉良に、紫苑は小さくため息をつく。
「…わかった。それなら、今から添い寝してよ。あげはが居ないと、良く眠れないんだ」
いやに潔く諦めた相手を、吉良は疑いの眼差しでしばらく見ていたが、小さく頷いた。
「俳優がクマを作ったら駄目だものね。片づけるから先に行っててね」
紫苑の眼の下に出来た薄いクマを指先で撫でた後、吉良は紫苑から逃げるように身体を起こし、ノートパソコンの電源を切るために紫苑に背を向けた。
だから吉良は変化した紫苑の表情に、気付かなかった。
“大人しく寝かせる訳ないだろ?”
それは、さながら獲物を狙う獣の様で、吉良が見ていれば絶句し身の危険を感じる程の、艶めいた色気を纏う笑顔だった。
END