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Sweet hug  作者: 響かほり
Calling
28/68

Calling 前篇

今回は、三人称表記の小説です。



 空が白み始めた頃、榊紫苑は自宅に戻った。

 ドラマの撮影が押して夜通し収録が続いた紫苑は、静かに玄関を閉じて鍵を閉じたと同時に、欠伸を噛み殺した。

 それがマンションに戻って気が抜けたからだと気付き、紫苑は苦笑する。


“吉良のおかげかな”


 一人で暮らしていた頃はマンションに帰ることすら考えられず、帰宅するのも月に一度、あるかないか程度だった。それが今は少しでも早く吉良の待つこの家に帰りたいと思い、仕事が終わると真っ直ぐ帰るようになっていた。

 そんな変化も紫苑としては驚きだったが、それ以上に自身の体が眠気を感じるようになった事が最大の変化だった。

 長い歳月、眠りを拒絶していた紫苑の体は、専門医に十年以上もの間、治療を受けても不眠症が治らなかった。

 従兄弟の榊健斗の治療も受けたが症状は捗捗はかばかしくなく、『お前に必要なのは心身ともに癒される場所だ』と、彼から説明を受けた時、榊紫苑はその言葉を治療が遅々として進まない言い訳だと一蹴して聞き入れなかった。

 しかし、その‘心身ともに癒される’吉良との生活を手に入れ、不眠症がまるで嘘のように体が眠りを欲するようになり、紫苑はようやく従兄弟の言葉の意味を理解した。

 彼女と言う存在の大きさを紫苑は日々、気付かされる。


“…この時間だと、あまり吉良の傍に居られないか…”


 曜日感覚の無い上に、昼夜も関係の無い仕事をしている紫苑と、カレンダーに沿ったごく普通の時間スケジュールで仕事をする吉良では、なかなか時間を共有して過ごすことはできない。

 彼女の寝顔を見る事が出来れば、まだ良い方だ。

 眠っているであろう恋人を起こさないよう、淡い光の中、廊下を静かに進み、寝室に入るが、そこにいるはずの人間が居ない。


「…」


 吉良の靴があり、彼女用の室内スリッパがないので、無断外泊をしているとは思い難い。恐らくは、最近は仕事部屋になっている吉良用の部屋に、彼女が居るのだろうと紫苑は推察する。

 一緒に暮らし始めたばかりは、よく、こうしてベッドがもぬけの殻になったと邂逅かいこうしていた紫苑は、その頃のショックを思い出して短く息をついた。

 踵を返した紫苑は、真っ暗なリビングの横にある吉良用の部屋に行く。

 部屋の光が、扉の足元から僅かに漏れているのが見える。

 珍しく電気を消し忘れたのかと思っていたが、閉ざされた扉のさきから、パソコンのキーボードを打つような僅かな音が聞こえ、紫苑はそっと扉をあける。

 机の上にあるノートパソコンに向かい、床に座布団を敷き正座をしてキーボードを弾いている吉良が、そこにいる。


“相変わらず、姿勢が良いな…”


 足も崩さず、背筋も伸びた凛とする座り姿は、黄色の花柄パジャマ姿でなければ惚れ惚れする所だった。

 周囲には多くの医療用の書籍と、束になった書類が乱雑に積み上がっている。

 几帳面な吉良にしては、珍しい部屋の汚れ方だった。

 紫苑が部屋の中に入って近づいても、吉良は作業に夢中だった。

 集中すると、周囲が全く気にならなくなってしまう困った恋人の背後に、紫苑は腰を下ろす。それでも彼女は全く気付いた様子がない。

 おもむろに、彼が吉良あげはの腰に腕を絡めた瞬間、彼女は「うひゃっ」と奇妙な声を上げて、びくりと身をすくませる。


「色気ないなぁ」


 紫苑は小さく笑って、吉良の体を自分に引き寄せると、ギュッと抱きしめる。

 温かなぬくもりと、柔らかな彼女に触れる心地よさに紫苑は安堵する。

 鼻梁を突くシャンプーの香りが、彼女の愛用のもではない事に紫苑は気付く。吉良の匂いは、紫苑が愛用しているシャンプーのものと同じ。

 驚かされた吉良は、自分の肩に顔を乗せている紫苑に視線を向ける。


「びっくりしたぁ…お帰り、紫苑」

「ただいま。シャンプー変えた?」

「え…っと…ごめんね、勝手に使っちゃった…」


 気付かれた事をバツが悪そうに謝った吉良だが、紫苑は別に怒ってはいなかった。ただ、いつもの方が彼女に合った良い匂いだったから、今の匂いに少しがっかりした気分になり表情が無意識に硬くなっただけ。


「…紫苑、三日お仕事で帰ってこれなくて、昨日も『今日は無理』って、言ってたから…だから…ちょっと、淋しかったと言うか…シャンプーの匂いだけでも、ちょっと紫苑を感じたいなぁ…とか、思っちゃいました……変態みたいだよね…ごめんなさい」


 紫苑の難しい表情に、吉良は彼が怒っていると勘違いし、恥ずかしさでしどろもどろになりながらそう釈明して謝罪する。

 もっとも、紫苑にしてみればそんな可愛い理由で使われたら、余計に怒る気など起きない。紫苑は小さく笑みを浮かべて吉良の頬に口付ける。


「そう言う理由なら全然いいよ。いくらでも使って…でも、俺は抱きしめた時に何時もの吉良の匂いがする方が良いかな」

「それは…今度から気をつけるね」

「で、何しているの?」

「今日…じゃなかった。昨日、不眠治療の研修会に参加してきたから、それのレポートを書いているの」

「ふーん」


 紫苑はパソコン画面に打ち込まれている文面を見るが、専門用語が多すぎて意味が分からなかった。


「終わりそう?」

「あと、少しかな」

「今日、月曜日なのに、徹夜なんかして大丈夫なの?」

「昨日の研修が出勤扱いだから、今日は代休なの。紫苑こそ疲れたでしょ?休まなくて良いの?」

「うん。少し眠いよ…」


 吉良の肩に顔をうずめ、紫苑は欠伸を噛み殺すように答える。


「寝室で休んできたら?」

「やだ…」


 子供の様に答えた紫苑に、吉良が苦笑する。


「風邪ひくわよ?」

「…あげはの傍が良い」


 一呼吸置き、吉良の頬が一気に朱に染まる。




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