April foolに嘘の花束を 3
紫苑が帰ってきた。
私はあわてて、肩にかけていたタオルで涙を拭う。
それでも涙は止まらない。
泣き顔を見られたくなくて、その場から逃げだそうとするけど、足がすくんでしまって、立ち上がりかけてすぐに膝が折れてその場にうずくまってしまう。
その時に床に膝をぶつけてしまって、音が部屋に響く。
「…吉良?」
音に気付いた紫苑が、リビングに入って来る気配がする。丁度、ソファの影に居るし、彼に背を向ける格好になっているから、まだ顔は見られていないはず。
彼が気付いて来る前に泣きやまないと。
「吉良?」
「来ないでっ」
訝しんだ彼の声がして、思わず反射的にそう答える。でも紫苑が、大股で近付いてくる足音がする。その足音が、少し荒っぽくて少し怖い。
紫苑と顔を合わせられなくて、身を縮めてタオルで顔を隠して俯いたままでいると、紫苑が私の前に膝を折る。
紫苑の大きな手が、私の手を握る。
タオルごと、強引に顔から私の手が引き離される。
強い男の人の力で。
スーツ姿の紫苑は、覗きこむように私を見ていた。
目が合った瞬間、紫苑の驚いた顔は、曇った表情へと変わる。それは、酷く傷ついた時に見せる苦しげで悲しそうな表情。
帰ってきてくれた彼の姿に安心半分、でも彼の表情に不安半分で、何だかさっき以上に涙が出て来る。
彼の両手が頬に触れ、新たに溢れる私の涙を拭う。
「何で、泣いているの?」
どう答えたらいいのか分からなくて、泣き顔を見られ続けるのが嫌で、首を何度も横に振って彼の手を解こうとした。
でも、彼の腕はびくともしない。
「やだ…離して…」
「泣きたいほど、俺のこと嫌い?…俺と別れたいとか、思ってる?」
予想していない言葉に、私はまじまじと紫苑を見る。
「全然、傍にもいない。普通にデートも出来ない。そんな俺に飽きた?」
問いかけている紫苑の表情は、徐々に険しくなってくる。
「し、紫苑…」
違うと言いたいのに、その言葉は阻まれる。
紫苑が強く私の身体を引き寄せた。
私はソファから紫苑の腕の中に落ちる。
まるで縋り付くように、彼は私を抱きしめる。
着やせして見える逞しい身体が、微かに震えている。
「答えてよ、吉良」
彼の胸からは、早鐘のように打つ拍動が伝わる。
何があったのか良く分からないけど、紫苑の精神状態が追い詰められていることだけは分かる。
どうしてそんなに不安そうに言うの?
「…どうして健斗に、俺と別れたいって言うんだ」
「はい?」
突拍子もない紫苑の言葉に、私も間の抜けた声で返してしまう。
あわてて彼を引き離し、紫苑を改めて見る。
「健斗から夕方近くに電話があった…吉良が俺と別れたがってるって…デートも満足にさせられない、我慢ばかり強いて我が侭放題で、吉良の気持ちをくんでない、吉良への労りが全然足りないって、散々、罵倒された…」
“院長!何て事を紫苑に言うのよっ!”
全く身に覚えのない話に心の中で絶叫し、涙も一気に止まる。
「ちょ、ちょっと待って…それ、何の話?」
紫苑は疑わしげな眼差しを、私に向ける。
その視線に、ちょっと腹が立った。
私より院長の言葉を信じているんだって。
「別れたいなんて、思うわけないじゃない!貴方が好きなんだから!」
「…本当に?」
「嫌いなら、紫苑の好きなご飯作って待ったりしないわよ」
「じゃあ、どうして泣いているわけ?」
「…そ、それは……紫苑が帰ってこないし…連絡ないし…嫌われちゃったかと……」
しどろもどろになりながら、最後の言葉は尻すぼみして小さくなってしまう。
「…別れたい訳じゃ…本当にないんだね?」
私が頷けば、紫苑が深く長い溜め息と共に、私の肩に顔を埋める。
彼の全身の力が抜けたのが分かる。
「ごめん…連絡しなくて…帰るの遅くなって…怖かったんだ…」
「怖い?」
「吉良が帰ってこなかったらって思ったら、家に居れなかった。もし電話して、そのまま別れ話切りだされたらって、訳わからない不安がぐるぐるして…気が変になりそうだった」
恋愛慣れしていそうな紫苑から、そんな言葉を聞くなんて思わなかった。
彼の職業である俳優“上坂伊織”は、女性とのゴシップに事欠かない人だから…
こんな喧嘩なんて、何回も経験していると思っていた。
恋さえままならなかった人生を過ごした私は、いつも彼との恋愛にいっぱいいっぱいなのに、紫苑はいつも余裕たっぷりに見えていたから…でも、本当は違うのかな。
「俺、ガキっぽいし…我が侭で…自分優先な事ばっかりするし…昨日は八つ当たりもしたから……ごめん」
先に謝られ、私は頸を横に振る。
「私こそ、ごめんなさい…桜の花が苦手だって、私が最初から言えばよかったのに…」
言葉を遮るように、紫苑の携帯電話が鳴った。