April foolに嘘の花束を 1
このお話は、「桜散りいこうとも」の続きのお話になります。
クリニックの夕方診療が終わり、片づけと掃除を全て終えた頃には、四人出勤していたスタッフも、私一人だけになっていた。
更衣室で着替えを終え、まだ診察室で調べ物をしている院長を覗く。
「院長、お先に失礼します」
いつになく真面目な顔をして、百科事典ほど分厚い英文だらけの医学書を読んでいた院長榊健斗が顔を上げる。
人前で勉強する所を絶対に見せない院長が珍しいなと思いつつ見ていたら、怪訝そうな顔をされた。
「なんだ、帰るのか?」
「…帰りますよ。いけませんか?」
「帰りたくねぇって、顔してるぞ」
帰り辛いのは確かにあるけど、いつまでも紫苑と喧嘩したままでいるわけにもいかない。
朝は謝る気にもならなくて気まずかったから、紫苑の顔を見ないまま家を出てきたけど、時間を置いて冷静になれば、自分が悪かったって思えるから謝ろうって決めた。
お昼ご飯の後に家の固定電話に電話をかけたけど、紫苑は出なかった。
意図的に出なかったのか、家にいなかったのかはわからない。
下手をすれば、機嫌を損ねたままの彼が勝手に仕事を入れて、帰ってこないことだって考えられるから、不安。
そうなると私は自分から彼に連絡を入れる事が出来ないから、喧嘩を引きずったまま何日も会えなくなる可能性だってある。
「帰りたくない。と、お前が一言、可愛く言えば、遠慮なく喰ってやるぞ?」
「院長に頂かれるつもりはありません」
いつもの他愛ない、軽いセクハラコミュニケーションを冷たくあしらえば、院長の双眸が、眼鏡の奥で皮肉げに笑う。
「昼間の話、ちゃんと考えておけよ?」
思い当たるのは、蕎麦屋の帰り道にした、紫苑との喧嘩話。
紫苑と仲直りをしろという話のことだろうか?
念のために、院長へ確認してみる。
「…仲直りする方法ですか?」
「違う。紫苑と別れたら、俺の愛人になるって話だ」
「だから、縁起が悪いこと言わないで下さい!しかも、『なるか?』が、『なる』に変わってます!」
「お前、細かいところを覚えてるじゃねえか」
院長は、にやりと笑う。
その色気を含んだ笑みが、どこか紫苑に似ていてどきりとする。
容姿はあまり似ていないけど、こういう一瞬の表情に、二人の間に従兄弟という血の繋がりを実感する。
「ま、あいつのほうがお前にベタ惚れだから、別れるとは言わねぇだろ。さっさと帰って、気楽に謝って来い」
「…そうします」
最終的に院長にフォローされて、少しだけ気分が楽になり、私はクリニックを後にした。
§
クリニックのあるビルから外に出た瞬間、肌を刺すような冬の冷気が襲う。
「いやぁぁぁっ!寒いっ!」
昼間はあんなに暖かかったのに。
桜が咲こうとする時期に、何で冬みたいに寒いの?
吐く息まで白い。
「うぅ…ダウンコート欲しい…」
スプリングコートの襟を寄せてみるけど、生地をすり抜けて冷たい風が肌に触れる。
電車で来たから、駅まで歩いて行かないと…
「はぁ…寒いの、いやだなぁ…」
寒がりな私は、寒い中を歩くのが苦手で、どうしても歩調がゆっくりになる。
「そうだ…買い物しないと…」
昨日の夜、冷蔵庫の中身がほとんど空だった事を思い出す。
冷凍庫には、冷凍保存したカレーとご飯があったけど。
紫苑が朝と昼のご飯を、ちゃんと食べたのか心配になる。
付き合う前は外食ばかりだった彼は、料理なんて全くできないどころか、インスタント食品の料理さえまともに作れない。
無難に、外に食べに出掛けたかな…もしかして、そのまま帰ってこないなんて…
なんだか、だんだんネガティブな方向に考えが廻り、私は頭を振る。
帰ったら、紫苑の好きなご飯を作って素直に謝ろう。
私は足早に、行きつけのスーパーに向かって歩き出した。