桜散りいこうとも 5
「お前の判断は間違っていない。一度、甘い汁を吸うことを覚えたあいつらは、お前に一生寄生する。親子の情で未練を引きずれば、お前の人生が破綻して、死んでたはずだ。間違っても後悔なんざするなよ?」
私の心の中を読み取ったように、院長はそう言う。
遺体を引き取るかどうかの話の時、彼が真っ先に反対をした。
引き取ったら、その遺体を検体にして埋葬させないとまで息巻いた。
院長なら、本当に法の目を潜って上手にやりかねないから内心ヒヤヒヤしていた。
「…院長は、時々、優しいですね」
「時々だから、価値があるってもんだろうが」
院長は鼻で笑う。
院長夫婦は、私が一番苦しいとき、そばにいて精神的にも助けてくれた。
当時、経済的に逼迫していたので、弁護士費用も肩代わりしてくれた。
その肩代わりの条件も、院長が立ち上げるクリニックに就職すること。
暗に、就職先まで用意してくれた。
手を差し伸べて、生きていけるように支えてくれた。
いつも、人に無茶な要求ばかりするのに、大事なところで優しい。
院長と美菜先生には、とても感謝している。
「紫苑に話す時期は、そのうちに来る。それまでは無理に言うことはねぇ。黙ってろ」
「…言ったら、彼に嫌われてしまいそうで…怖いです」
両親を見捨てた自分には、人から愛される資格など、本当はないのかもしれない。
だからずっと恋も愛も、触れないように生きてきた。
紫苑と出会い、愛されて、自分の想いが膨らめば膨らむほど、怖くなる。
自分が紫苑に愛されても良いのか。
私が彼を愛しても良いのか…不安でたまらない。
今の幸せが壊れてしまうことが怖い。
彼を失うことが、何より怖い。
だから、夜桜を見に行こうといった紫苑に、素直に桜が嫌いと最初に言い出せなかった。
言えば、彼の性格上、桜が嫌いな理由を絶対に知りたがる。
彼に嘘は言いたくない。だから、言えなかった。
代わりに彼の立場を利用して、彼の望みを諦めさせようとした。
狡い自分のせいで、紫苑を怒らせて傷付けてしまった。
謝りたいけど…家に帰っても、彼が口をきいてくれなかったらどうしよう。
考えれば考えるほど、心が不安になって、悲しくなって泣きたい気持ちになる。
突然、目の前に院長の顔が近付き、驚いて身を退かせる。
が、背に回された腕がそれを止め、強く引き寄せられる。
何事かと相手を見上げれば、院長は真顔で私を見下ろしている。
「紫苑と別れたら、俺の愛人にでもなるか?」
笑いもせず、冗談めかしででもなく、真剣な面持ちのままそう告げた院長に、思わず私は彼の鳩尾に、肘鉄を食らわせる。
院長は私から手を離し、表情を歪ませて片手で鳩尾を押える。
「阿保か、お前!食ったものが、戻ってきたじゃねえか!」
「縁起でもない冗談を言うからです!」
ぷいとそっぽを向いて、クリニックに向かって私は歩き出す。
「…紫苑も、この粗雑な女の何処がいいんだ…」
「院長、聞こえてますから!」
ぼそりと聞こえた嫌味に院長を振り返れば、院長は穏やかに笑う。
「お前はそのくらい元気なほうが、良い」
女性を口説いているときにしか見たことのない微笑を向けられ、私は目を疑い、目を瞬かせる。
「おら、とっとと帰って、夕診の支度するぞ」
「あ、はい」
皮肉めいた普段の表情に戻った院長に腕をつかまれ、引きずられるように、私はそのまま歩き出す。
歩きながら、再び花蕾のついた桜を見る。
花はまた咲いて散る。
心に残ったしこりはまだ消えない。
選んだ人生の選択も取り消せない。
だからこそ、いつまでも、あの頃のまま心を止めてはいけない。
私は生きているのだから。
歩き出さないと…。
この季節が過ぎても、また、春はやってくるから。
いつか、紫苑と満開の桜を笑いながら見られるように…
END