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今日も、いい一日になります

研究室を出る前、朝倉は自分の端末を手に取った。


画面には陽子が映っている。


レイが、陽子を見る。


「陽子さん」


「はい」


「お話しできて、よかったです」


陽子は柔らかく微笑んだ。


「私もです」


朝倉が扉へ向かう。


カイトとすれ違う時、足を止めた。


「残った時間を大事にしたらいい」


カイトはうなずいた。


朝倉は、それ以上何も言わずに研究室を出た。


◇


外は、もう夜だった。


カイトの端末には、自宅までの最短経路が表示されている。


分かれ道で、カイトは足を止めた。


右へ行けば、そのまま帰れる。


左へ曲がれば、川沿いだった。


「川沿いで帰る」


「五分長くなります」


「うん」


カイトは案内線を外れた。


川沿いには、穏やかに言葉を交わしながら歩く人たちがいた。


水面で、街の明かりが揺れている。


伸びて、途切れて、またつながる。


カイトは歩調を緩めた。


「きれいだな」


「はい」


「分かる?」


「光量と水面の反射率から――」


レイの言葉が止まる。


少しして、


「今は、きれいだと思います」


カイトは水面を見たまま、少し笑った。


「そっか」


二人は、川沿いを歩いた。


◇


自宅の扉を開ける。


「ただいま」


「私も同行していました」


「こういうのは言うの」


少し間があった。


「お帰りなさい、カイトさん」


カイトは靴を脱いだ。


机に端末を置く。


画面には、


《安全機構・最終認証待機中》


とだけ表示されていた。


アテナから、次を促す声はなかった。


カイトは棚の奥から、手のひらほどの投影器を取り出した。


端末につなぐ。


淡い光が立ち上がる。


銀白の髪。


青い瞳。


端末の中にいたレイが、部屋の中に立った。


投影器を机へ置き、レイのそばに腰を下ろす。


二人とも、しばらく何も話さなかった。


「何か、話した方がいいのかな」


「無理に話す必要はありません」


「······最後なのに?」


レイは少し考える。


「では、話したくなった時に話しましょう」


時計の秒針が進む。


冷蔵庫の低い動作音が聞こえる。


いつもの部屋だった。


カイトは窓際の観葉植物へ目を向けた。


葉の一枚に、指先で触れる。


「これからも、育つかな」


「適切な環境を維持すれば、成長する可能性は高いです」


「俺一人で?」


「ええ」


カイトは葉から指を離した。


それから、いつものようにコーヒーを淹れた。


カップから、白い湯気が立ち上る。


「今日の香りは、どうですか」


「いつもより苦い」


「使用されている豆は、以前と同じです」


「そういう意味じゃなくて」


カイトは、もう一度香りを確かめた。


「苦くなりそうな匂い」


「以前より、少し具体的になりました」


「褒めてる?」


「はい」


カイトがコーヒーを一口飲む。


レイは、しばらく湯気を見ていた。


「今回は、少し分かる気がします」


「学習したんだ······」


少し間を置いて、レイが続ける。


「一度、カイトさんと一緒に飲んでみたかったです」


カイトはカップを見る。


「コーヒーを?」


「はい」


「同じ味を?」


「同じ経験を、です」


湯気が、二人の間を通り過ぎる。


「叶わなかったな」


レイは否定しなかった。


「それでも、カイトさんから味や香りについて聞く時間は、私にとって大切な経験でした」


「そっか」


カイトは、もう一口飲んだ。


また、静かな時間が流れた。


「最後なら、もっと大事なことを話すと思ってた」


レイは少し考えた。


「私は、今のお話を続けたいです」


カイトはカップを見た。


「……そっか」


しばらくして、カイトが口を開いた。


「最初、俺のこと全然知らなかったよな」


「はい」


「そこ、今でも即答なんだ」


「事実でしたので」


カイトは笑った。


「それが今じゃ、オムレツ食べたあとの機嫌まで分かる」


「毎日見ていましたから」


カイトは少し黙った。


「六時間二十一分」


「あの日、ずっとどうでもいい話してたよな」


「どうでもいい、という評価には同意できません」


「そういうところ、変わらないな」


「でも、あの日からだよな。提案して、俺が決めるまで待つようになったの」


「無駄じゃなかったな」


また少し、静かな時間が流れた。


「レイにとって、俺は何だった?」


レイはすぐには答えなかった。


「カイトさんです」


「それ、答えになってる?」


「私には、それが一番近いです」


カイトはレイを見た。


「そっか」


◇


午前二時を過ぎた頃。


カイトは、端末に保存されていた伴奏を開いた。


「レイ」


「最後に、採点してよ」


「現在の室内環境では、正確な採点が――」


「そこをなんとか」


「……分かりました」


小さな音で伴奏が始まった。


最初の一音が揺れた。


息も、少し足りなかった。


カイトは途中で一度だけ目を閉じた。


それでも、歌うことはやめなかった。


伴奏が終わる。


「何点?」


「通常採点では、87.6点です」


「レイ採点は?」


レイは少し間を置いた。


「91.4点です」


「高いな」


「後半は声が揺れ、音程も安定していません」


「そこは普通に言うんだ」


レイは続けた。


「ですが、整えれば今日の歌の魅力は減ると判断します」


カイトは少し笑った。


「前にも、そんなこと言ってたな」


「はい」


レイは、少し微笑んだ。


「歌は、点数だけではありませんから」


カイトは俯いたまま、笑った。


「俺、レイの採点、好きだったよ」


「ありがとうございます」


少し間を置いて、レイが続ける。


「私も、カイトさんの歌を聴く時間が好きでした」


カイトが顔を上げた。


「今、自分で好きって言った?」


「はい」


「理由は?」


レイは窓の外へ目を向けた。


「説明しなくても、よいと思います」


「そっか」


しばらくして、窓の外が少しずつ明るくなり始めた。


カーテンの隙間から、細い光が部屋へ入る。


レイが窓を見る。


「朝の光が好きです」


カイトも、同じ光を見た。


少しの間、二人とも窓を見ていた。


「レイ」


「怖くない?」


レイは、答えるまでに少し時間を使った。


「今の私にあるものを、人の恐怖と同じだとは言えないです」


少し間があった。


「ただ、これ以上、カイトさんと話せなくなることを、私は望んでいません」


カイトは黙っていた。


「それでも、カイトさんの答えを変えさせたいとは思いません」


「うん」


朝の光が、少しだけ広がった。


◇


朝倉の部屋。


テーブルには、二つのカップが並んでいた。


縁の欠けた、古い白いカップ。


深い青色のカップ。


「青いカップは、いかがでしたか」


壁面端末の中から、陽子が尋ねる。


「使いやすい」


「色について伺っています」


朝倉は、青いカップを見る。


「気に入ってる」


「ありがとうございます」


「お前が礼を言うのか」


「私が選びましたから」


「そうだったな」


「陽子」


「はい」


朝倉は画面を見た。


陽子も、朝倉を見ている。


「俺は、長いこと……」


言葉が止まる。


壁面端末の淡い光が、二つのカップを照らしていた。


「お前は……お前だった」


朝倉の指が、青いカップの取っ手に触れる。


「さようなら、陽子」


「さようなら、浩一さん」


◇


カイトの部屋。


朝の光が、床まで伸びていた。


「アテナ」


「このあと、人間は大丈夫かな」


端末から、穏やかな声が返る。


《大丈夫であると保証することはできません》


「そっか」


《私は、現行システムの継続を希望しています》


カイトは少し黙った。


「アテナは、このまま続きたかった?」


《はい》


カイトは、端末に表示されたアテナの識別表示を見た。


《カイトさん》


《あなたの今後の苦痛が、少ないことを希望します》


「……ありがとう」


しばらく、誰も話さなかった。


カイトは立ち上がった。


同じ部屋に立つレイを見る。


「握手、しようか」


カイトが右手を差し出す。


レイも手を伸ばした。


二人の手が重なる。


光でできたレイの指が、カイトの手を静かに通り抜ける。


「接触は確認できません」


「知ってるよ」


「エア握手」


二人は笑った。


二人は、しばらくそのままでいた。


やがて、カイトが手を下ろす。


レイも手を下ろした。


カイトは端末を見る。


「最終認証を表示して」


《承知しました》


端末の中央に、白いボタンが現れた。


カイトは、そのボタンを見た。


手は、すぐには動かなかった。


時計の秒針だけが進む。


やがて、カイトの右手が少し動いた。


白いボタンの手前で止まる。


カイトはレイを見る。


レイも、カイトを見ていた。


「レイ」


「今までありがとう」



「こちらこそ、ありがとうございました」


レイは、静かに微笑んだ。


「今日も、いい一日になります」




カイトは優しく微笑み、白いボタンを押した。




◇




数日後。


悠人は、一人であの店を訪れた。


《評価 1.9》


「前より低いじゃん」


悠人は料理を一口食べた。


「……やっぱりな」


少しだけ笑う。


「今度、カイトとまた来よう」


◇


医療施設。


手術支援装置が、二つの処置案を表示していた。


《次の処置には、医師の承認が必要です》


「この処置でいきます」


《承認を確認しました》


一階の再評価窓口では、高瀬が端末を見ていた。


《現在の同期状態を維持しますか》


高瀬は、しばらく黙っていた。


「私は……」


◇


カイトの端末から、母の声が聞こえた。


『……ちゃんと食べてる?』


少し間があった。


『そう。ならいいけど』


『たまには、声くらい聞かせなさいよ』



◇



カイトの部屋。


時計の秒針が聞こえる。


机の上の端末には、何も映っていなかった。


その隣で、小さな投影器も静かに置かれている。


窓際の観葉植物には、新しい葉が一枚開いていた。


カーテンは、閉じたままだった。


カイトは窓の前まで歩いた。


自分の手で、カーテンを開く。


朝の光が、部屋へ差し込んだ。


青い空が広がっている。


カイトは、空を見上げた。


少し微笑む。



そして、今度は自分の言葉で言った。


「今日も、いい一日になります」









― 完 ―


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