第0話 災厄の日
この世界が、厚さ数ミリの薄氷の上に成り立つかりそめの箱庭に過ぎないということを、無垢なる者たちは知らなかった。
都市の防壁の向こう側には、人類を鏖殺すべく牙を研ぐ魔獣の群れが蠢いている。だが、大陸の最果てに位置する辺境の小国に生きる幼いフェリアにとって、それは書物の中のおとぎ話と同義であった。
見上げれば、都市全体を覆う黄金の絶対防壁が、ステンドグラスのように麗しい陽光を透過させている。
ここ、ソラリア共和国の王城の庭園には、むせ返るような百花の香りと、陽炎のように舞う蝶の群れがあった。
外の凄惨な世界から完全に隔絶された、完璧で、それゆえに酷く脆弱な揺り籠。
新緑のドレスを纏ったフェリアは花壇にしゃがみ込み、小さな唇から透き通るような歌声を紡いでいた。
『黒き海原、天降る舟よ。
瞬く星を頼りに、果ての荒野へ。
光の殻で、揺り籠を編み、
いつか還らん、遥かなる故郷へ――』
辺境の小国に伝わる、古き建国神話の歌。
幼いフェリアは、その歌詞が意味する本当の歴史など知る由もない。「黒き海原」がどこにあるのか、「天降る舟」が何を指すのか。ただメロディが綺麗だという理由だけで、機嫌よく鼻歌交じりに花冠を編んでいた。
「うん、すごく可愛くできた」
完成した花冠を金糸の髪にのせ、彼女はドレスの裾を摘んで小さくターンをする。
この小国には、大国にも引けを取らない絶対の壁と、都市を守る十数メートルの人型魔導兵装『エルドグレイヴ』がある。誇り高き騎士たちがいる限り、この微温湯のような平和が崩れることなどあり得ない。
そう、この時の彼女は何も理解していなかったのだ。世界がどれほど残酷で、鉄と血の匂いに満ちているかということを。
「フェリア。何をしているの?」
振り返ると、長い金髪を揺らした凛とした女性が立っていた。大好きな人。
「あ、イリア姉様! お帰りなさい!」
弾かれたように飛び込んだ妹を、イリアはふわりと優しく抱き止める。
「ええ、ただいま。今日はあなたの特別な日でしょう? 騎士団の任務、急いで片付けてきたわ」
「えへへ、ありがとう! じゃあね、私からは姉様にこれをあげる!」
フェリアがお手製の花束を手渡すと、イリアは少しだけ目を丸くし、それから花のように微笑んだ。
「ふふ、誕生日の主役からプレゼントをもらうなんてね。ありがとう。……それじゃあ、私からもお祝いの品を」
イリアが軍服の懐から取り出したのは、ビロードの小さなケース。中には翠の宝石が嵌まった指輪が眠っていた。
フェリアの小さな薬指にそっと通されると、指輪が淡く脈打ち、温かな魔力がじんわりと身体を包み込む。
「これはね、風の加護が込められた魔道具よ。フェリアの身に危険が迫った時、これが守ってくれるわ。誕生日、おめでとう」
「わぁ……暖かい! ありがとう姉様、ずっと大事にする!」
無邪気に笑う妹の頭を、イリアは愛おしそうに撫でた。
「フェリアは将来、何になりたい?」
「私は勿論、姉様と同じ騎士! 姉様みたいな正義の味方になって、みんなを守るの!」
「ふふ、そう。それなら沢山努力して、誰よりも強くなりなさい。辺境の小さな国だけど、いつか私の隣で、共にここを守ってくれる事を願っているわ」
イリアが小指を差し出し、二人が指切りを交わそうとした。
その、直前だった。
──耳障りな警告音が、春の庭園の空気を唐突に切り裂いた。
イリアの胸元、通信用の魔石が、狂ったような血赤の瞬きを始めた。
「こちらイリア。どうなされたのですか」
空間に展開された騎士団長のホログラムは、絶望に顔を歪ませていた。
『メビウス大森林から、前代未聞の規模で魔物の大群が侵攻してきている! 至急、出撃を要請——』
「了解しまし——」
言葉を区切ったイリアが、弾かれたように上空を見上げる。
澄み切っていた青空が、禍々しい赤色に染まっていた。
「そんな……都市のシールドが……」
歴戦の騎士が、信じられないものを見る目で呟く。
何百年もこの辺境の小国を守り続けてきた「光の揺り籠」。
何万という魔物の群れが束になっても破れないはずのそれが、まるで安物のガラス細工のようにひび割れ——乾いた絶望の音を立てて、粉々に砕け散ったのだ。
致死の雨のごとく光の破片が降り注ぐ中、雲を突き抜け、二つの「影」が急降下してくる。
一つは、禍々しい黒と紫の重装甲。
一つは、冷徹な白と水色の流線型。
「エルドグレイヴ……? いや、違う!」
イリアの生存本能が、ありったけの警鐘を鳴らした。
あれは、魔法兵装ではない。関節が擦れる駆動音すら、風を切る音すらない。未知の粒子を散らして空を滑るその姿は、マナという概念から完全に逸脱した、純粋な殺戮の具現だった。
「フェリア! 伏せて! 『プロテクトフィールド』!」
紫の機体の腕部が不気味に発光した瞬間、イリアはフェリアに覆いかぶさり、防御魔法を展開した。
直後。
紫の機体から、放射状に幾筋もの光の雨が降り注いだ。
音が消えた。熱線が城壁の防衛システムを一瞬で蒸発させ、着弾した白亜の建造物が泥のように溶け落ちる。
遅れてやってきた爆風が、美しい庭園を花ごと根こそぎ吹き飛ばした。
砂埃の中でフェリアが恐る恐る目を開けると、そこにあったのは凄惨な地獄だった。
「姉様! 怖いよぉ!」
「絶対に許さない……ッ! 来なさい、ヴィエント!!」
イリアの絶叫に呼応し、抉れた大地に巨大な翠緑の魔法陣が展開される。
大気を震わせる重低音と共に地中からせり出してきたのは、全高十五メートルを誇る人型魔導兵装——イリアの専用機『ヴィエント』だった。
王城の塔に匹敵する鋼の巨体。重装甲の隙間から、莫大なマナの残光が漏れ出している。
胸部装甲が開き、イリアはマナのリフトで頭上のコックピットへと跳んだ。
重厚なハッチが閉まる音が、死闘への号砲となった。
結界が消滅したことで、破壊された城壁の裂け目から巨大な魔獣たちが雪崩れ込んできていた。
フェリアの頭上を、絶望的な質量の影が覆う。
それは、十メートルを超える巨狼だった。黒い毛皮は鉄鋼のように硬く、目は血のように赤い。一蹴りで石造りの民家が潰れ、逃げ惑う市民たちが、その足元で虫けらのように踏み潰されていく。
巨狼が、逃げ遅れた者たちへその巨大な顎を開いた。
だが次の瞬間、翠緑の機体が巨狼の頭上へ飛翔した。
ヴィエントは、狼の魔物すら見下ろす、正真正銘の鋼鉄の守護神だ。
「させるかぁぁぁッ!!」
流麗な踏み込みと同時、マナの刃を形成したレーザーブレードが一閃される。
巨狼は悲鳴を上げる間もなく、その巨体を綺麗に真っ二つに両断された。大量の血と臓物をぶちまけながら沈む魔獣。
騎士団随一と謳われるイリアの、一切の無駄がない完璧な太刀筋。その絶対的な強さに、フェリアはすがるような希望を見た。お姉ちゃんがいれば大丈夫だ、と。
そのままヴィエントは空へと跳躍し、紫の死神へと肉薄した。
翠緑の巨腕を前方に突き出す。その掌の先に、魔力出力を限界まで引き上げた幾重もの多重魔法陣が展開された。
咆哮と共に射出されたのは、空間そのものを断ち切るように乱舞する、高密度に圧縮された無数の『翠の刃』。
風の加護を極限まで高めた必殺の弾幕。だが、それが紫の機体を捉えることはなかった。
紫の機体の周囲には、紫色の粒子を放つ禍々しい光の断層——目視できるほどの異常な重力場が展開されていたのだ。
その極彩色の空間曲率に触れた瞬間、物理法則そのものが狂わされたかのように、すべての翠の刃がぐにゃりと軌道を捻じ曲げられ、一発残らずあらぬ方向へと弾き逸らされていく。
目標を失った光の刃が、背後の虚空や眼下の廃墟を無意味に切り裂いた。
「魔法が、通じない……!?」
ならばと懐に潜り込み、渾身の力でブレードを振り下ろす。
——鉄と鉄が激突し、火花と共に暴虐な金属音が弾け飛んだ。
空気を劈く衝撃。だが、紫の機体は、まるで鬱陶しい羽虫でも払うかのような無造作な動作で、片腕に展開したブレードのみでイリアの全力の一撃を受け止めていた。
紫の機体の左腕に、太陽すら凌駕する熱量を孕み、禍々しい紫色の光を放つ無骨な高周波のエネルギーブレードが展開された。
「ああぁぁぁぁっ!!」
紫の閃光が奔った。ただ、それだけだった。
それだけで、何重にも魔法的装甲が施されたヴィエントの分厚い両腕と脚部が、熱したナイフを通された飴細工のように、いとも容易く切断されたのだ。
四肢を失った翠緑の巨体が、轟音と共に大地へと叩きつけられる。
土煙が舞い上がる中、紫の死神はゆっくりと降下し、沈黙した機体を冷たく見下ろした。巨大な光の刃が、コックピットを貫くために逆手に構えられる。
「お姉ちゃん!!」
フェリアは悲鳴を上げ、瓦礫の陰から飛び出していた。
泥と煤にまみれ、涙をボロボロとこぼしながら、動かなくなった機体へ必死に手を伸ばす。
死ぬ。お姉ちゃんが死んでしまう。
だが——。
ピタリ、と。
紫の悪魔の動きが、不自然なほど完全に停止した。
振り上げられた光の刃は空中で凍りつき、無機質な光学センサーが、足元で泣き叫ぶフェリアの姿を真っ直ぐに見下ろしている。
機械がエラーを起こしたのか。いや、違う。
その鉄の巨人は、フェリアの流す涙を見て、ひどく動揺しているかのように固まっていたのだ。まるで、その鋼殻の中に「心を持った人間」が息づいているかのように。
「……私の妹に、指一本、触れさせるものかッ!!」
その一瞬の躊躇を、死の淵にあったイリアは見逃さなかった。
血塗れのコックピットの中、彼女は自らの命そのものを燃料に変える、決死の超高密度魔法を発動させた。安全装置すら焼き切ったマナの逆流。
「消えなさい、悪魔ァァァッ!!」
胸部装甲から放たれた、天を衝くエメラルド色の極太の閃光。
至近距離。回避は不可能。誰もが紫の死神の消滅を確信した。
その、刹那。
空間が物理法則を無視して激しく弾け、紫の悪魔の前に『水色の壁』が割り込んだ。
もう一機の悪魔。空中で市民を虐殺していたはずの水色の機体が、僚機の危機を察知するや否や、空間そのものを跳躍して盾となったのだ。
——天地を揺るがす爆轟が、世界を白く染め上げた。
衝撃波が吹き荒れ、水色の機体が展開した防壁が砕け散り、推進ユニットの一部が爆発して吹き飛ぶ。
それを見た瞬間だった。
先ほどまで奇妙なほど静止していた紫の機体から、爆発的な『殺意』が膨れ上がったのを、フェリアは肌で感じ取った。
僚機を傷つけられたことへの、理不尽なまでの激昂。紫の機体のスラスターから、どす黒い憎悪を体現したようなプラズマの雷光が噴き出す。それはもはや、無機質な機械が発していい圧ではなかった。
「やめ——」
フェリアの悲鳴よりも早く。
視界を焼き尽くすほどの紫の閃光が弾け、一拍遅れて、空間そのものを圧砕するような衝撃波が世界を揺らした。
それはもはや戦闘ではなく、純粋なエネルギーの暴力による処刑だった。
残光を撒き散らしていた翠緑のコックピットを、紫の刃が正確に、冷酷に両断する。
大地が抉れ、衝撃波で周囲の廃墟が完全に消し飛んだ。
そこにあったはずの高潔な意志。妹を思う姉の愛。
言葉の通じない圧倒的な暴力の前では、そんなものは、無力に散るだけの塵に過ぎなかった。
「あ……あぁぁぁ……嘘よ……お姉ちゃん……?」
フェリアは膝から崩れ落ちた。
紫の機体は、エネルギーブレードを収めると、瓦礫の中に座り込むフェリアを一瞥した。無機質なカメラアイ越しに、中にいる「何か」と目が合った気がした。
だが、悪魔はそれ以上危害を加えることなく、傷ついた水色の僚機を庇うようにして空へと舞い上がっていく。
空を覆う黒煙の向こうからは、さらに無数の降下艇が蝗の大群のように降り注いできた。
——終わった。辺境の小国ソラリアは、死んだのだ。
「フェリア様! 早く、こちらへ!」
「嫌だ! お姉ちゃんが、まだそこに……!」
「イリア様が命を懸けて繋いだ道です! ここで貴女が死なれれば、ソラリアの火が完全に消えてしまう!」
生き残った騎士に強引に腕を引かれ、フェリアは隣国へ通じる地下回廊へと引きずられていく。
暗い冷気漂う回廊へ入る直前、フェリアは一度だけ、燃える故郷を振り返った。
夕闇の空に悠然と浮かぶ、紫と水色の死神たち。
「……忘れない」
フェリアは、右手の薬指に嵌められた指輪を強く、強く握りしめた。
指先の皮が剥け、血が滲んでも、握るのを止めなかった。温かかったはずの風の加護の指輪は、今はただ、氷のような金属の感触だけを返してくる。
「絶対に、忘れない。あの紫の悪魔を……いつか必ず、私が殺してやる……!」
復讐という名の真っ黒な呪いが、無垢だった少女の心に、深く、深く刻み込まれていった。




