第8話 空席の約束
──マーテェルナビス4号機、第一格納庫。
オゾンと潤滑油の匂いが立ち込める薄暗い空間は、俺たち生体兵器にとっての揺り籠であり、同時に墓標だ。
あの凄惨な生身での対人演習、そしてエドラ家の介入によるスキャンの一件以来。俺の魔力の出力と、機体との同調率は低下の一途を辿っていた。
目を閉じれば、スレアが俺の首元に刃を突きつけながら放った悲痛な思念と、俺の脳を焼いた『他人の記憶』がフラッシュバックし、神経系が鈍く軋むのだ。
「……ひどい顔色だな、アレス」
整備用デッキの冷たい鉄板に座り込んでいた俺に、低い声が降ってきた。
顔を上げると、ガトニック教官と、もう一人の黒髪の男が立っていた。
一見すると軍人には見えない細身の体躯でありながら、研ぎ澄まされた刃のような静かな威圧感を纏うその男は、ジーク・ブライト。かつて行われた第一次アースニア調査において、部隊でただ一人地獄から生還した『唯一の生還者』と呼ばれる退役騎士だ。
教官の旧友である彼は、時折こうして俺たちエクセラーの様子を見に、格納庫へ顔を出していた。
「直近のテストデータを見た。反応速度、魔力出力ともに基準値割れだ。……精神的負荷が限界を超えつつあるな」
教官の容赦ない言葉に、俺は俯くしかなかった。
スレアは俺を守るために、自らの人間性を完全に否定し、「ただの兵器であれ」と俺を突き放した。頭では、この狂った世界を生き抜くための『合理性』だと理解できている。俺たちは戦うためだけに造られた存在なのだから。なのに、心がそれを激しく拒絶し、俺の内で悲鳴を上げている。
「ガトニック。こいつの頭の回線は、今にも焼き切れそうだぞ」
見かねたように一歩前に出たジークさんが、俺の肩をポンと叩いた。軍の備品に触れるような無機質な手つきではない。迷子になった子供を気遣うような、不器用で温かい掌だった。
「おい坊主、息抜きが必要だ。俺が13号機の『旧アースの庭園』に連れて行ってやる」
「13号機……? 無理ですよ。あそこは五賢老や、ごく一部の上流階級しか立ち入れない特別区画のはずじゃ」
マーテェルナビスを構成する居住艦の中でも、13号機は完全に独立した特権階級のテリトリーだ。兵器である俺たちが足を踏み入れることなど、通常であれば絶対に許されない。
しかし、ジークさんは細く長い指で懐から黒く鈍い光を放つ一枚のカードキーを取り出し、ニヤリと皮肉げに笑った。
「俺を誰だと思ってる。地獄のアースニアから生還した英雄様だぞ? ……まあ、帝国にとって都合の悪い『真実』を黙っておくための口止め料として、この特権パスを持たされてるだけだがな。VIPの遊び場だろうが、これさえあれば顔パスよ」
「ジーク……お前な」
呆れたようにため息をつくガトニック教官だったが、すぐに腕を組み、短く息を吐いた。
「……数日の特別休暇を与える。次の演習までに、頭の中のノイズを完全にクリアにしてこい。命令だ」
今の状態のまま実戦に出ても、俺はスレアの足を引っ張るだけなのは明白だった。俺は無言で小さく頷き、ジークさんと共に無機質な4号機を後にした。
* * *
マーテェルナビス13号機。
重厚な防護ゲートを抜け、分厚い隔離隔壁が重々しい音を立てて開いた瞬間──俺は息を呑んだ。
「これは……」
視界を埋め尽くす、圧倒的な緑の連なり。人工天蓋の安っぽい投影データではない、乱反射する眩い光が大地を照らしている。吹き抜ける風が草木をざわめかせ、色鮮やかな花弁が宙を舞う。
吸い込んだ空気には、湿った土と、植物の青臭い匂いが混じっていた。無菌室のような循環空気に慣れきった鼻腔には、痛いほど強烈な『生命』の気配だ。
三百年前のアースの遺伝子をそのまま維持した、通称『旧アースの庭園』。
その光景を見た瞬間、俺の奥底に封じられたブラックボックスから、あの『名も知らぬ誰かの記憶』がふわりと浮かび上がった。
頬を打つ冷たい雨。泥濘に倒れ込む金髪の女性。
戦闘中は俺の心をへし折る猛毒となったその幻影が、今はこの美しい庭園の景色と重なり合い、不思議と穏やかな輪郭を持っていた。俺の中にあるバグの持ち主は、かつてこんなにも美しい世界で、誰かを愛して生きていたのだろうか。
張り詰めていた神経の結び目が解け、心に渦巻いていたどす黒い感情が、風に洗い流されていくのが分かった。
「……信じられません。まるで自分が別の世界に迷い込んだようだ」
「ああ、綺麗だろう。……ここへ来たお前の顔、さっきの格納庫にいた時とは別人のように晴れやかだぞ」
俺が戸惑いながら自分の頬に触れると、ジークさんは悪戯っぽく笑った。
「ばっちり顔に書いてあるからな。……そうだ、まだ時間もあるし、居住区で飯でも食わねえか? 本物の肉と野菜だ。いつもの味気ない灰色のブロックじゃねえぞ」
13号機には、俺たちが住むような無機質で狭苦しい超高層の施設はない。環境に溶け込むような、レンガ造りや木造の美しい街並みが広がっていた。
案内されたのは、路地裏にある小さなレストランだ。厨房から漂ってくる暴力的なまでの香ばしい匂いに、無意識のうちに唾液が溢れる。
運ばれてきたのは『牛肉と野菜のバター醤油炒め』だった。湯気を立てる皿の上には、琥珀色のソースが絡んだ分厚い肉と、鮮やかな緑と赤の野菜が乗っている。
俺は震える手でフォークを持ち、恐る恐る口に運んだ。
「────っ!」
咀嚼した瞬間、脳の髄が痺れるような衝撃が走った。
程よく焦げ目のついた肉から溢れ出す、濃厚で暴力的な旨味。シャキッとした野菜の小気味よい歯ごたえ。バターの芳醇な香りと、醤油の焦げた塩味と甘みが口の中で複雑に絡み合い、一つの巨大な『爆発』を引き起こす。
灰色のキューブを囓りながら、空想の味覚にすがる必要などどこにもなかった。今、俺の舌の上にあるものが、間違いなく本物の『命の味』だった。
「どうだ?」
「美味しい……です。すごく」
気がつけば、俺は夢中で皿を空にしていた。
生体兵器の身体に、こんな過剰な味覚の刺激は不要な機能かもしれない。けれど、温かい食事を胃の腑に落とし込むたび、全身を熱い血が巡っていくのを感じる。俺は機械の部品じゃない。命を持った生き物なのだと、この一口が強烈に証明してくれていた。
……だが、ふと手を止めた時。
目の前にある「空席の椅子」が視界に入り、俺の胸の奥がギュッと締め付けられた。
(いつか必ず、温かくて美味い本物の飯を、一緒に食おう。……ステーキでも、シチューでもいい。お前と二人で、笑いながら食卓を囲むんだ)
いつかの食堂で、俺は確かにスレアにそう約束した。
これが、俺がスレアに教えたかった『本物の味』だ。俺が、スレアと一緒に分かち合いたかった『人間としての喜び』そのものだ。
それなのに、俺の目の前にスレアはいない。彼女は自らの心を氷で閉ざし、灰色のブロックを「燃料」として飲み込みながら、たった一人で冷たい刃を研いでいるのだ。
「……本当は」
俺は、空になった皿を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「俺はこれを、妹と一緒に食べたかった。スレアに、この本物の温かさを教えてやりたかったんです。……でも、俺のその願いが、スレアを苦しめてしまった」
俺の力ない独白を聞いて、ジークさんは怒るでも呆れるでもなく、ただ静かにグラスの水を飲んだ。
「お前は兵器なんかじゃない。立派な人間だよ、アレス」
ジークさんの低く落ち着いた声が、静かな店内に響く。
「ただバッテリーを満たすためじゃなく、『美味い』と感じるために食う。そして、その美味いものを『大切な誰かと一緒に食べたい』と願う。……それが、心を持った人間ってもんだ」
「ジークさん……」
「お前の妹も、お前と同じだ。不器用ですれ違ってるだけで、根っこにあるのは『相手を想う心』だろ。なら、いつか必ずその飯を一緒に食える日が来るさ。お前が諦めねえ限りな」
その言葉は、冷え切っていた俺の心に、一筋の温かい灯りを点してくれた。
そうだ。ここで俺が折れてしまえば、スレアは本当にただの殺戮兵器になってしまう。彼女の氷を溶かせるのは、スレアの心を信じ続ける俺しかいないのだ。
「もう少し、庭園に居て風を感じようと思います。……自分の中のノイズを空っぽにして、もう一度立ち上がるために」
俺が真っ直ぐに顔を上げてそう答えると、ジークさんは満足そうに頷いた。
「そうか。日が沈む頃に、入り口の着艦地点へ来い。それまでゆっくり、本物の空気を深呼吸してこい」
遠ざかるジークの背中を見送り、俺は一人、黄金色に染まり始めた庭園へと向き直った。
人工の夕陽が照らす緑と花の海を眺めながら、俺は深く、肺の奥まで本物の空気を吸い込む。
舌に残る温かい命の味と、頬を撫でる柔らかな風。
そのすべてを忘れないように、俺は静かに目を閉じ、束の間の「人間」としての時間を深く噛み締めた。
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挿絵は増やしていくつもりですが「ここにこのシーンあったらな」などが有れば検討します!宜しくお願いします。




