1話 勇者だったはずの男
横断歩道の信号は、青だった。
それでも、俺は死んだ。
仕事帰りだった。
スマホを片手に、明日の会議資料を確認しながら歩いていた。
三十代。独身。中堅社員。
出世もしていないし、かといって落ちぶれているわけでもない。
ただ――
「どうせ俺なんか」
そんな言葉が、頭の中で何度も回っていた。
頑張っても評価されない。
要領のいいやつが得をする。
理不尽に怒られても、言い返せない。
それでも辞める勇気もなく、文句を言う相手もいない。
「結局、運が悪かっただけなんだよな」
そうやって、全部を環境のせいにしてきた。
クラクションの音が鳴った。
顔を上げた瞬間、視界いっぱいに迫るヘッドライト。
――あ、これ、死ぬやつだ。
衝撃は、一瞬だった。
◆
次に目を覚ましたとき、俺は草の上に寝転がっていた。
空は異様なほど青く、雲が近い。
「……は?」
体を起こす。
痛みがない。あれほど染みついていた疲労も、肩の重さも、胃の不快感も、全部消えていた。
「……マジで?」
周囲を見回す。
見たことのない森。聞いたことのない鳥の声。
最近、動画サイトで散々見た展開が、頭をよぎる。
そのとき、足元に白いものが落ちているのに気づいた。
「……紙?」
拾い上げる。
厚くもなく、安っぽい紙切れだ。
そこには、簡潔な文字だけが書かれていた。
『対象:転生者
初期地点:北の森』
「……転生者?」
意味は分かる。
だが、実感が追いつかない。
しばらく紙を見つめたあと、息を吐いた。
「……落ち着け」
いきなり全部を信じるのは、さすがに無理だ。
頭が追いついていないだけかもしれない。
周囲を見回す。
誰もいない。見られている気配もない。
「……試しに、だ」
独り言のように、そう呟いた。
「……ステータス、確認」
その瞬間だった。
視界の端に、半透明の文字が浮かび上がる。
「……え?」
瞬きをする。
だが、消えない。
【ステータス】
名前:――――
種族:人間
職業:勇者
筋力:S
耐久:S
敏捷:A
魔力:B
「……」
一拍遅れて、理解が追いついた。
「……勇者?」
職業欄を、二度見する。
前の世界で、何度も見た単語。
フィクションの中だけの存在。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
前の世界では、努力しても報われなかった。
上司の一言、同僚の顔色、数字に振り回されるだけだった。
それが、今はどうだ。
最初から“S”が並んでいる。
「結局、環境が悪かっただけか」
浮かんだステータス画面を、軽く指で払う。
文字は、すっと消えた。
森の奥から、かすれた声が聞こえた。
「……グ、ギ……」
視線を向けると、緑色の肌をした小柄な影がこちらを窺っている。
曲がった鼻。汚れた布切れ。手には、錆びた短剣。
「……ゴブリン、か」
アニメで見た知識と一致する。
数は、三体。
「まあ……チュートリアルってところか」
一歩踏み出した瞬間、ゴブリンが突っ込んできた。
反射的に腕を振る。
鈍い手応え。
短剣が地面に転がった。
「……は?」
見下ろすと、ゴブリンは倒れて動かない。
自分の手を見て、思わず笑った。
「マジかよ……」
地面に落ちた短剣を拾い上げる。
刃こぼれしているが、十分だ。
「武器、確保っと」
胸の奥が、ぞくりとした。
――いける。
二体目、三体目。
囲まれても、攻撃はかすりもしない。反撃は、確実に急所に入る。
「はは、弱っ」
最後の一体が、武器を投げ捨てて膝をついた。
「ま、待て……ッ! 命、助けて……!」
震える声で、必死に命乞いをする。
俺は、鼻で笑った。
「モンスターが命乞い? 甘えんなよ」
短剣を振り下ろす。
「弱いくせに生き残ろうとすんなっ」
血が地面に広がる。
胸の奥に、妙な高揚感があった。
――俺は、強い。選ばれた側だ。
しばらく森の奥をすすむ。
森の奥は、異様に静かだった。
風も、虫の音もない。
一瞬、視線を感じる。
木陰から、人型の影が現れる。
黒い外套。頭部には、角。
「……こいつは、魔族か。雑魚ゴブリンとは、ちがい少し強そうだ」
短剣を構える。
「俺は勇者だ。この世界を救うためにお前ら魔族をころっ――」
言葉は、途中で途切れた。
次の瞬間、視界が歪む。
「――っ!?」
腹に衝撃。
息が、一気に吐き出される。
体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「が……っ、は……」
立ち上がろうとした瞬間、背中に重い圧がかかる。
踏みつけられていた。
骨が、嫌な音を立てる。
「な、なんだ……よ……」
短剣に手を伸ばす。
その手首を、次の瞬間、斬り落とされた。
「――あっ……?」
遅れて、激痛。
魔族は、感情のない目でこちらを見下ろしている。
逃げようとした瞬間、首元に冷たい刃が触れた。
そのとき、ようやく分かった。
俺は――特別なんかじゃなかった。
最初から, 主役じゃなかったんだ。
◆
刃を振り下ろし、血を払う。
転生者は、だいたい同じ顔をする。
慢心、混乱、そして最後に、諦め。
倒れた勇者だったものを一瞥し、つぶやく。
「生きている方が、残酷だから」
森は、何事もなかったかのように静まり返った。




