第8話 元婚約者の来訪と、セキュリティ・アップデート
「……風向きが変わりました。北北東、風速3メートル」
私は管理塔のテラスで鼻をひくつかせた。
「成分分析。……アンモニア、硫化水素、および腐敗臭。これは決定的ですね」
「ああ。間違いない」
隣に立つカイル様が、険しい顔で鼻を覆った。
「客人が来たようだ。それも、とびきり『汚れた』客がな」
都市の結界の外。
私の施した『認識阻害』の壁の前に、きらびやかな――しかし泥と煤で薄汚れた馬車が止まっていた。
周囲を固めるのは、王室近衛騎士団。
その先頭に立つのは、黄金の鎧に身を包んだ金髪の青年。
王太子アデル様。
そして、その腕にしがみつく偽聖女マイラ様だ。
「エヴリン! いるのは分かっている! 姿を見せろ!」
アデル様が叫んでいる。
前回、ベルンたちが「空間ループ」にハマった場所の手前で止まっているのは、学習したからか、あるいは単に本能的な恐怖か。
私は溜息をつき、拡声用の術式を起動した。
「……お久しぶりです、殿下。ご用件は?」
私の声が響くと、アデル様は虚空を睨みつけた。
「貴様、こんな辺境でコソコソと……! 直ちに結界を解け! 王族への不敬であるぞ!」
彼は威厳たっぷりに胸を張った。
だが、その瞬間。
風が彼のマントを煽り、その「香り」をこちらへ運んできた。
プン、と漂う強烈な刺激臭。
大量の香水でも隠しきれない、公衆便所の底のような臭いだ。
「コソコソしてはいません。快適に引きこもっているだけです。それより殿下、少し臭いますよ。お召し物が汚れているのでは?」
「うっ……! き、貴様のせいだ!」
アデル様が顔を真っ赤にして叫んだ。
「貴様がいなくなってから、王宮がどうなったか知っているのか! トイレは逆流し、風呂はヘドロまみれ! 夜会を開こうにも、シャンデリアが爆発してドレスが汚れる! これでは生活ができん!」
「それは大変ですね」
私は棒読みで返した。
「ですが、それは私の責任ではありません。引継書に『毎日魔力を充填すること』と書いておいたはずですが?」
「あんな複雑な術式、誰も読めん! 宮廷魔導師長ですら『解読不能』と匙を投げたんだぞ!」
それは、彼らが無能なだけだ。
基礎的な文法さえ理解していれば、新入生でも読めるように注釈を入れたはずなのに。
「殿下。私は既に追放された身です。部外者が王宮の基幹システムに触れることは、防衛規定上、好ましくありません」
「屁理屈を言うな! これは王命だ! 戻って掃除をしろ! さもなくば……」
アデル様は、腰に佩いた剣を抜き放った。
黄金の刀身が輝く。
国宝『聖剣グラン・アステリア』。
王家の血筋のみが使える、最強の魔剣だ。
「この聖剣で、貴様の結界ごと、そのふざけた隠れ家を焼き払ってやる!」
「きゃあ、アデル様かっこいい!」
隣でマイラ様が黄色い声を上げる。
そして、彼女はねっとりとした視線を、私の隣にいるカイル様に向けた。
「ねぇ、そこの騎士様ぁ。そんな臭い女の味方なんてやめて、こっちにいらっしゃいよぉ」
マイラ様の瞳が、妖しくピンク色に光る。
『魅了』の発動だ。
彼女の周囲から、粘着質なピンク色の魔力光が放たれ、カイル様に向かって伸びてくる。
「……汚らわしい」
カイル様は、汚物を見るような目で彼女を一瞥しただけだった。
微動だにしない。
だが、あの光に触れれば、脳内の判断中枢にノイズが走る可能性がある。
「カイル様、下がって」
私は万年筆を振るった。
都市の外周に展開していた『空気清浄結界』の出力を最大にする。
『精神汚染物質の検知』
『濾過強度:最大』
『風圧洗浄(Air Blow)』
ブォン!
猛烈な突風が巻き起こり、マイラ様の放ったピンク色の光を物理的に吹き飛ばした。
それどころか、衝撃波となって彼女自身を直撃する。
「きゃあっ!?」
マイラ様が悲鳴を上げ、泥水たまりに尻餅をついた。
綺麗なドレスが泥まみれになる。
「私の都市に、病原菌を持ち込まないでください」
「き、貴様……! よくもマイラを!」
アデル様が聖剣を振り上げた。
刀身に膨大な魔力が収束していく。
あれはまずい。
いくら使い手が未熟でも、聖剣自体の出力は戦略級だ。結界ごと都市の一角が吹き飛びかねない。
「カイル様、迎撃を」
「任せろ」
カイル様が城壁から飛び降りた。
重力を無視したような着地。
そして、泥だらけのアデル様の前に立ちはだかる。
「どけ、雑魚が! 聖剣の錆にしてくれる!」
アデル様が聖剣を振り下ろす。
炎を纏った一撃。
対するカイル様は、私が強化した大剣を、無造作に下から振るい上げた。
ガキィンッ!
金属音が響き、火花が散る。
「な……!?」
アデル様が目を見開いた。
聖剣の一撃が、カイル様の剣によって完全に受け止められていたからだ。
それどころか。
ミシッ、ピキキキッ……。
聖剣の刀身に、亀裂が入った。
「ば、馬鹿な!? 聖剣だぞ!? ただの鉄屑ごときに負けるはずが……!」
「鉄屑じゃない」
カイル様は、冷徹な瞳でアデル様を見下ろした。
「これは、彼女が『整律』してくれた剣だ。手入れもせず、魔力任せに振るうだけのなまくらとは、『理』の強度が違う」
カイル様が腕に力を込める。
その瞬間、私は遠隔で術式を起動した。
『対象:聖剣』
『魔力伝達経路:切断』
『過剰負荷:実行』
バヂヂヂッ!
「うわぁっ!?」
アデル様の手の中で、聖剣が悲鳴を上げた。
魔力が逆流し、刀身が内側から弾け飛ぶ。
パァァァン!
聖剣は砕け散り、ただの柄だけがアデル様の手元に残った。
「あ、ああ……僕の聖剣が……!」
「道具を大事にしないからですよ」
私は城壁の上から冷ややかに告げた。
「これ以上の狼藉は、宣戦布告と見なします。次は『結界』ではなく、都市防衛用の『自律兵器群(タワシ軍団)』がお相手しますが?」
私の背後で、数台のタワシ・ワン(対人鎮圧仕様)が、ギュイイインと回転ノコギリのような音を立てて威嚇する。
アデル様は青ざめ、折れた聖剣の柄を抱えて後ずさった。
マイラ様も、泥だらけの顔で震えている。
「お、覚えていろ! このままでは済さんぞ! 父上(国王)に言いつけてやる!」
「どうぞご自由に。ただし、国王陛下がいらっしゃる際は、事前にアポイントメントをお願いしますね」
捨て台詞を残し、彼らは逃げるように馬車へ乗り込んだ。
悪臭と煤煙を残して、一行は去っていく。
「……やれやれ」
カイル様が剣を収め、戻ってきた。
「なんとかなったな。だが、次は国王が出てくるかもしれん」
「その時は、その時です」
私は彼にハンカチを差し出した。
戦闘でついた煤を拭うように。
「それよりカイル様。先ほど、マイラ様の魅了を正面から受けましたが……大丈夫でしたか?」
私のフィルターで弾いたとはいえ、多少の影響はあるかもしれない。
彼女の術式は、本能に直接訴えかける強力なものだ。
カイル様は、私の顔をじっと見て、ふいっと視線を逸らした。
「……効くわけがないだろう」
「なぜ断言できるのですか?」
「俺の目には、もう……お前しか映っていないからな」
彼はボソリと呟いた。
声が小さい。風の音にかき消されそうだ。
「はい? すみません、ノイズで聞き取れませんでした。もう一度お願いします」
「……なんでもない! とにかく、俺は正気だ!」
カイル様は顔を真っ赤にして、早足で管理塔の中へと入っていった。
「?」
私は首を傾げた。
顔面紅潮。心拍数上昇。発話の乱れ。
これは魅了の後遺症だろうか?
それとも、未知のバグ?
(……解析不能ですね)
私は胸の奥の「冷却ファン」が止まったような、奇妙な熱を感じながら、彼の背中を見送った。
このバグの原因を突き止めるには、もう少し彼の観察が必要なようだ。




