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ドン。
銃声が鳴った。
キンキンと耳鳴りがする。
目を開けた。
夏蓮はそこに立っていた。体に銃創のようなものは見られなかった。
どうやら銃弾は外れてしまったようだ。
肌は青白くなっていて、ゾンビ化がさらに進行していた。
ところどころ頬の皮膚が剥がれ落ちて真皮がむきだしになっていた。
もう一度、銃口の狙いを定めた。
今度は外さないように、目を背けるのをやめた。
夏蓮が少しずつ人でなくなっていく姿は見るに耐えなかった。
引き金をひかなければと思う。
なのに、今度はどうしても指が動かない。
視界がぼやけて、自分の目から涙が零れていることに気づいた。
夏蓮はもう正気を保っていないようだった。
何を呼びかけても、まともな言葉を返してこない。
夏蓮はふらふらとその場でよろけたあと、テーブルを押しのけて、こちらに向かって突進してきた。
食器が床に散らばり、皿は音を立てて割れた。
とっさに夏蓮の足を狙って銃を撃つと、夏蓮は体勢を崩したが、それでも勢いのままに俺に飛びかかった。
夏蓮に押し倒されて背中を打った。その衝撃で銃を手元から離してしまう。
夏蓮は上に跨ると、顔に噛みつこうと歯を剥き出した。
俺は夏蓮の体を押し返して抵抗する。
「大丈夫だ! おまえは大丈夫だ! 正気にもどれ! 夏蓮!」
どんなに叫んでも意味はなかった。
夏蓮はなんとかして俺に噛みつこうと、もどかしそうに暴れている。
こんなのはまるで、ただのゾンビだ。
「夏蓮!」
夏蓮。夏蓮。夏蓮。
なんども名前を呼んだ。
その名前を叫ぶほどに、胸が強く締め付けられた。苦しかった。
「たのむ! 俺は……!」
どうしてこうなるのだろう。
どうして何も守れないのだろう。
夏蓮を助ける方法がどこかに無いかと、暗闇の海の中に溺れていく。
十年前のあの日から、俺はなにも変わっていなかった。
そのとき、冷たいものが落ちてきて、頬にふれた。
それは夏蓮の赤い瞳から落ちてきた一粒の涙だった。
夏蓮は、泣いていた。
それに気づいたとき、夏蓮との数日間が走馬灯のように頭を巡った。
ゾンビになった哀れな子だった。
隙あらば皮肉を言う生意気な子だった。
不運に抗う、芯のある強い子だった。
――愛してる。
そして、愛らしい子だった。
俺も伝えるべきだった。
喉の奥が熱くなって、力の限りに叫んだ。
夏蓮の体を押し返しながら、もう片方の手で床に転がった銃に手を伸ばし、掴んだ。
夏蓮の胸に銃口を押し付けて、今度はためらうことなく撃った。
血が飛び散った。燃えるような熱い血が、重力に従って腕をつたっていく。
夏蓮の手が俺の腕を掴んだ。
その力は女の子のものとは思えないほど力強かったが、次第に弱まっていき、ついに力を失い、手が離れた。
同時に体が横に倒れ、俺の真横に転がった。
俺は嗚咽しながら体を起こした。
十年前に出しきったと思っていたのに、出がらしの涙がぼろぼろと零れた。
夏蓮を仰向けにさせて、青白くなった頬を撫でた。
いたるところで表皮が剥がれ落ちた顔は痛々しく崩れていたが、まだ夏蓮の面影が残っていた。
夏蓮の体を優しく、つよく胸に抱き寄せた。
人肌の温もりが、まだ残っていた。
ゾンビに成り果てた夏蓮の死体は警察官によって輸送車で運ばれ、そのあと火葬された。
俺は二度にわたる取り調べを受けた。
尋問した相手が明言したわけではないが、一度は川で溺死したと結論付けた夏蓮の件について、再捜査が必要な可能性を疑っている様子だった。
しかし俺から何を聞き出そうと、俺が夏蓮を匿ったという可能性と、俺が夏蓮を撃ち殺したという事実がどうしても矛盾するため、最終的には半ば形だけの取り調べにおわった。
結局、なにも処分がくだされることもなかった。
―一ヶ月後
雪が降っていた。
リビングには窓から光が差し込み、天井ではシーリングファンが回る。
腰を落とすとソファの軋む音が部屋にひびいた。
もう十年もこの暮らしを続けていた。慣れていたのに、夏蓮のせいで思い出してしまった。
ひとりで生きる人生は、すこしだけ、過剰に静かだ。
耳を澄ませば夏蓮の声が聞こえそうだと思うくらいに、あの短くも濃い日々はまだ鮮明にそこにあるように思える。
もしも今、夏蓮がとなりにいたら、なにセンチメンタルな気分に浸ってんの? と揶揄われてしまうのだろう。
とどのつまり、人生とは運で決まる。
運命とは誰かにとって都合のいいもので、誰かにとって残酷なものだ。
幸福も不幸も不平等に与えられて、人にコントロールできることなんて、ほんの小さなものかもしれない。
それでも、その中で足掻く意味を見出せることが人の美しさなのだろうか。
夏蓮は間違いなく不幸だったが、それでも強く、美しく生きていたと俺は思う。
妻も、娘も。
テーブルに置かれた二通の手紙に目を落とした。
夏蓮が遺書として書いた手紙。
手紙はまとめて全て投函したのだが、この二通だけは宛名が書かれていなかったため戻ってきていた。
いつまでもそこに置いておくわけにはいかないので、しかたなく手紙の中を見ることにした。
そうでもすれば、もしかしたら宛名が判明するかもしれない。
勝手に見るなと夏蓮は怒るだろうが、宛名を書いていない方が悪いのは自明なのだ。
まずは一通の封筒を開けると、中から手紙が十枚も出てきた。
―南ちゃんへ
と書き出しにあった。その名前には覚えがあった。
夏蓮が親友だと言っていた子だ。ゾンビになってしまい、俺が撃ち殺した子だった。
最初は謝罪の言葉ばかりが綴られていた。
助けられなくてごめん。
すぐに悲しんであげられなくてごめん。
自分のことばかり考えてしまってごめん。
それからはふたりの過去をなぞるように、想い出を書き連ねているようで、それ以上を盗み読むのはさすがに気が引けたので、そこで手紙を閉じた。
もう一通の手紙を手に取り、開封した。こちらは一枚だけだった。
―おじさんへ
心臓が跳ねた。
まさか夏蓮が自分に言葉を残していると思わなかったから。
と同時に、あいつが俺にまともな遺書を残すわけがないことも確信していた。
手紙には真ん中に大きく一文が書かれていた。
それを読んで、思わず笑みが吹き出した。
「そんな遺言があるか。ばか……」
―おじさんへ
ありがとね。それだけ。




