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インターホンのモニターを見ると、警察官の格好をした二人の男の姿があった。
用件を訊くと、近辺調査だと目的をぼかされた。
「どうしよう……。ごめん……私のせいだ……」
夏蓮はすっかり怯えていた。
話すことは無いと追い返すことも出来るが、警察官の目的も気になった。
相手の腹の内を知らないと、こっちも対策のしようがない。
「二階の部屋で大人しくしていろ」
夏蓮は頷くと、手紙を抱えて階段を上がっていった。
ゆっくりと廊下を歩きながら考えた。
こんな山中の家にまで警察が足を運ぶ理由なんて夏蓮の件くらいしか思い当たらない。
だとすれば夏蓮の携帯のGPS履歴を追ってここにやってきたことは間違いない。
そもそも警察が操作を続けているということは、少女の死体が川に流されていたと通報した件は関係なしと処理されてしまったのだろうか。
どちらにせよ、どうやら賭けに負けたらしい。状況はかなり苦しくなった。
「どうも」
ドアを開けると、警察官のひとりが警察手帳を取り出した。
筋肉質で肩幅があり、いかにも格闘技をやっていそうな背格好で、肌はよく焼けていた。
もうひとりはひょろりと背が高く、白ぶちの眼鏡をかけていた。
「すみません。突然おじゃまして」
警察官は軽く頭を下げてから、名前を名乗った。
「ひとつ、お尋ねしたいことがありまして」
じれったいくらいにゆったりとした口調だった。
「はい。なんでしょう?」
協力的な姿勢で応じた。状況は苦しいが、完全に詰んでいるわけではない。
警察側がGPSの履歴からたどれる夏蓮の行方は過去のものだ。
夏蓮はこの家に戻ってくるまでに携帯を川に投げ捨てている。
それから夏蓮がここに戻ってきたことを、いま現在に夏蓮がここにいると証明するものはない。
どれだけ怪しまれようとも、その事実に至らせなければ、まだ最悪ではない。
このシチュエーションも想定していた。
夏蓮をこの家に連れてきたことも、ガレージに閉じ込めたことも、どのように説明するかの準備はできている。
「盗難されていた車が近くで見つかりましてね」
「はい……?」
警察官の口から出たのは予期していない言葉だった。
「いやだから。車が……」
「車が……なんです……?」
「盗難されていた車がこの山の中に捨ててあったんですよ」
拍子抜けした。夏蓮とは全く無関係だった。
「黒のレクサスなんですが、最近この辺りで運転されている者を見かけた記憶とかはありませんか?」
「いえ……わたしは……なにも」
「そうですか」
警察官は淡々と手帳にメモを残した。
「それと、もうひとつ別件ですが」
と告げる。
「少し前に近くでゾンビ感染がありまして、そのゾンビは片付いているのですが、二次感染の恐れありというのを担当部署から伺っておりまして」
警察官のゆっくりと動く口元を見つめる。
肌は焼けて茶色いが、歯は不自然なくらい白い。
「ゾンビが徘徊している可能性がありますので、老婆心かもしれませんが、くれぐれもご警戒ください」
呆然としていると、後ろに立つ、ひょろりと背の高い長い警察官が「大丈夫ですか」と尋ねる。
「顔色が優れないようですが……」
「少し、熱がありまして」
「ああ! これは、すみません……!」
焼けた肌の警察官は慌てた顔で言う。
「そんな体調で応じて頂いて」
「いえ。気にしないでください」
決まり切ったお世辞を返した。
「私らはこれで失礼しますので、お大事にしてください」
軽いお辞儀をして、ふたりの警察官は引き返していった。
扉を閉めると、背中を扉に預け、ずるずると腰を下ろした。
扉越しに、警察官の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
二回、深く深呼吸をしたときには、足音は消えていた。
ここ数日で、寿命が十年くらい縮んでいたとしてもおかしくなかった。
二階に上がり、夏蓮の部屋のドアをノックした。
返事はなかった。
もう一度ノックした。
「おい……! ノックしたからな。入るぞ」
それでも返事はなかった。
何度、そのときを覚悟してこの扉を開ければいいのだろう。
腰のホルダーに取り付けた銃に触れながら、手慣れた慎重さで、ゆっくりと扉を開ける。
そんなはずはないが、無人の部屋だった。
風が吹いていた。窓が開けられて、カーテンがひらひらと揺れていた。
ベランダに出たが、そこにも夏蓮はいなかった。
ここから一階の屋根をつたい地上に降りることは可能そうだ。
頭によぎったが、すぐに思考から切り捨てた。
この家を離れて、夏蓮が生きていくことは難しい。まだ年端もいかない少女でも、そんなことくらい分かるだろう。
しかし、いくら家の中を探そうとも夏蓮はどこにもいなかった。
もし、本当に、警察の手から逃れるためにこの家を出て行ったというならば、とても愚かな行為だと思う。
せっかく俺がリスクを犯してでも生かす道を模索したのに、それを全部投げ捨てるなんて。
夏蓮が自らの意思でこの家を離れたのなら、俺が行方を追っても意味がない。そこまでする義理もない。
ただ、ほんの数日間だけ、一緒に過ごした中でしかない。
そんな少女なんてほっとけばいいのだが、夏蓮と出会ってから、しばし俺の思考と行動は矛盾を生み出す。
愚かで、生意気で、可哀想で、芯の強さがあり、健気な女の子。
それがあの少女だ。
気づけば外を出て、山を走り回っていた。
体調はまだ回復しておらず、まだ体は重いが、それでも森の中をさまよった。
大声をあげるたびに頭痛に襲われるが、それでも夏蓮の名前を叫んだ。
何時間そうしていたか分からない。
喉が痛くなり、叫べなくなって、ついに足を止めた。
見上げると、空が赤く染まっていた。もうじき夜になる。
凍てつく寒さで手がかじかんでいた。
一度家に戻り出直そうかと思いもしたが、この寒空の下で夏蓮が凍えているかもしれないと思うと、その時間さえも惜しかった。
しかし、手当たり次第に山の中を探しても、見つけられる気がしなかった。
きらりと遠くで光るのを感じた。
木々の間から真っ直ぐに、オレンジ色の光が伸びている。
ほとんど無意識で、導かれるように光の方へと向かって歩いた。
しばらく歩くと、急に周りが開けて、小さな湖がそこに現れた。
遠くで見つけたオレンジ色の光は湖に夕陽が反射した姿だった。
湖のほとりに夏蓮はいた。
夏蓮の横顔から赤い右目が見えた。
湖に反射した夕陽に照らされても、なお赤いと分かる。
夏蓮は三角座りで体を小さく丸め、湖を眺めていた。
名前を呼びかけても、ピクリとも反応が無かった。
近づいて、地面の枯れ葉を払い、となりに座った。地面はひんやりと冷たかった。
「寒いだろ」
「寒い」
夏蓮の体は小刻みに震えていた。
上着も着ずに冬空の下にいるのだから当然だった。
俺は自分のコートを夏蓮の背中に被せた。
「風邪ひくだろ。家に戻るぞ」
「戻りたくない」
「どうして?」
「だって……」
夏蓮の背中が、よりいっそう小さく丸くなる。
「さっきの人達……。わたしを探しに来たんでしょ?」
「ちがった」
「そんなの嘘だよ」
「嘘じゃない」
「うそ」
「本当だ」
少しの沈黙。
お互いの吐く息がはっきりと聞こえるほど周囲は静かだった。
「もう、わたしに関わらない方がいいよ。おじさんまで不幸になっちゃう」
「もう今さらだ」
夏蓮は左右に首を振った。
「わたしはおじさんの娘じゃないよ」
「そんなの。分かっている」
「わたしのために危険を冒す意味もない」
「それも分かっている」
ごめん。夏蓮は言うと、自嘲するように悲しく笑った。
「わたしが勝手におじさんのところに戻ってきたのに、言うことじゃなかったね」
「気にしてない」
「とにかくほっといてよ。私のことなんか。ひとりで何とかするから」
「そんなの無理だ」
「分かんないじゃん」
「分かる」
「もう……。わたしはいいから……」
消え入りそうな声で言う。
「おじさんに迷惑をかけるのが恐いの……」
夏蓮の言葉は全部、まるで雪のようにすぐに溶けていきそうだった。
本当にこのまま、消えて無くなるつもりなのではないかとすら思えた。
「夏蓮」
面と向かって名前を呼ぶのは初めてだった。
夏蓮は驚いた顔でこちらを見ると、これまで見たこともないほど目を丸くした。
「帰るぞ」
丸い目から大粒の涙があふれ出した。夏蓮は赤ん坊のように泣き喚いた。
夕陽が沈んでいき、赤く染まっていた湖面は夜の色に移ろいでいく。
涙を流し続ける夏蓮の手を引いて、家路に向かった。
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翌日、俺は体調を悪化させ、夏蓮は風邪を引いた。
真冬の夜に薄着で外にいたのだから無理もなかった。
ふたりして寝込んでいる間も、俺は警戒を解くまいと努めたが、結局なにも起こることなく丸二日が過ぎた。
ふたりが揃って全快したのは大晦日。今年最後の日だった。
ピピ。音が鳴った。
「全回復です」
「ほれほれ」
と夏蓮は見せびらかすように、体温計の表示を見せつけた。
「おじさんも計って」と体温計を渡される。
「俺はさっき計った。おまえが起きてくる前に」
「わたし見てないもん。もう一回だよ」
「まったく」
渋々、体温計を受け取ると脇に挟んだ。
「気づいてる?」
「なにを?」
「今日は大晦日だよ」
「そうだな」
「今ごろ外は浮かれ気分なんだろうなあ」
夏蓮は机に肘をついた。窓から外を眺める。
「この家は何か楽しいイベントないの?」
「ないな」
「即答すんな!」
夏蓮は頬を膨らませた。
「まいっか。まだやることあるしね」
そう言うと、リビングのテーブルの前に座り、遺書となる手紙に向かい合った。
まるで今日という日が当たり前であるかのように、非日常が日常に溶けて過ぎ去っていく。
俺は本を読んでいた。先日読み進めていた詩集だ。
しばらくすると、夏蓮は「暇になった!」と声をあげた。遺書は全て書き終えたのだそうだ。
そしてテレビ棚に目を通すと目聡くゲーム機を見つけ、ゲームをやろう! と提案した。
「十年前のゲームだぞ」
それは妻の美央がゲームにはまった時期に買ったものだ。
妻は多趣味だったから、家の様々なところで彼女の残り香を感じさせてくれる。
「よい!」
「勝手にしろ」
「一緒にやるんだよ?」
ひとりで遊んでいればいいものを。半ば強引に付き合わされた。
ゲームは人生で数える程度しかやったことが無いから、対戦ゲームになれば夏蓮に勝てるはずも無かった。
何度も負かされて、その度に夏蓮に煽られて、柄にもなく熱くなった。
ゲームを中断し、上の階から将棋盤を持ってくると夏蓮に勝負をしかけた。
「あらあら熱くなっちゃって。可愛いとこもあるのねえ。でも馬鹿にしてもらっちゃ困るわけ。わたしは将棋もできちゃうよ?」
分かりやすく調子に乗っていた。
しかし、夏蓮の「将棋ができる」というのはルールを知っている程度だった。
八枚落ちの大きなハンデを与えて勝つと、夏蓮は「大人げないやつめ」と怒り出した。
その顔を見て、いくらか気分がすっきりとした。
そのあとは二人でテレビの特番を見た。国民的アニメの映画が放映されていた。
「むかしを思い出すなあ」
ふいに夏蓮はつぶやく。
「むかし?」
「今でも覚えてるの。ママとパパと一緒に同じテレビ観て、いっしょに笑って。間違いなくあの頃は幸せだった」
「四歳のころだろ? よく覚えているな」
「だって、家族の思い出は少ないから」
映画が終わり、夕食を作ることにした。
キッチンに向かうと、夏蓮も一緒についてきた。
俺の後ろで「なに作んのー?」と左右に体を揺らしながら尋ねる。
振り返り、夏蓮と向き合った。ん? と夏蓮は首をひねった。
「なに? じゃま?」
「いっしょに作るか?」
パッとその目が輝いて「うん!」と頷く。
テーブルにコンロを置き、夏蓮にはそこで葱と牛肉を焼いてもらった。
その後、鍋に割り下を入れ、切った具材を渡した。鍋に入れるよう頼んだ。
「これはわたしの腕が試されてるね」
「ただ鍋に入れるだけだ」
「いやいや。見た目の美しさというものがありますから」
「さっさと入れろ」
「はいはい」
と夏蓮は鍋に具材を入れていく。
ダイニングに香ばしい匂いが立ち込めると、夏蓮は腹を鳴らした。
「もう食べてもいいんじゃないの?」
「まだ味が染みていない」
夏蓮はその後も定期的に「まだ?」と尋ねた。
「よし」
頃合いになったので許可を出すと、夏蓮は鍋から牛肉をよそい、生卵を絡めて口に運んだ。
「うまい!」
「まるで犬みたいだ」
「可愛らしいでしょ?」
「俺は犬が嫌いだ」
「えー意外。猫派なんだ。やっぱ顔が猫に似てるから?」
「もういい……」
夏蓮は一口ずつ舌をうならせた。
いつも本当に美味しそうにものを食べる。
それを見ていると、今日は格別な出来なのでは? とこっちの舌まで錯覚してしまう。
「肉ばかり食うな。野菜も食べろ」
「食べてるじゃん。ほら見てよ。ネギ」
「豆腐もあるだろ。椎茸も」
「きのこはきらい」
「好き嫌い言うな。食べなさい」
「うわっ。また父親みたいなこといった……! へんなの」
「言ってない」
「言ったよ」
こんなしょうもないやり取りなのに、夏蓮の顔は心なしか笑っている。
「でも嫌じゃないよ。わたしは」
夏蓮は箸をおき、テーブルにそっと肘をついた。
「もしもの話をしていい?」
「もしも?」
「そう。もしも」
夏蓮は、じっと俺を見つめる。
「もしおじさんの娘が生きていたら、いま、なんて言われたい?」
意味のない仮定だった。
そんなこと、今さら考えたところでどうしようもない。
娘は、花恋はこの世にいないのだから。
「そんなの考えたところで――」
「考えてみて」
じっと俺を見つめている。
黒い瞳が、赤い瞳が。どちらの目も儚げで、力強く、美しかった。
「愛してる」
夏蓮が言った。花恋の面影がそこに滲んだ。
「そう言いたかった。もしも親が生きていたら。わたしは」
胸の温度がじりじりと上昇した。
愛してる。そのたったの一言が、記憶の奥底を全部なぞっていく。
愛というとても抽象的な概念に、久しく、そして確かに触れた気がした。
俺は不意に立ち上がり、夏蓮に背を向けた。
「どーした?」
「なんでもない」
声がふるえた。
「なになに? もしかして泣いてんの? ねえ?」
茶化してくる夏蓮を放って、キッチンへ逃げ込んだ。
意味もなくキッチンの端から端を二回往復したあとに、トレイを取り出した。
鍋に追加する具材を黙々とトレイに並べながら考えた。
最初は生意気なやつだった。
そんな少女が、気づけば俺の大事な場所に居座ろうとしている。
しかし、同時に俺は知っている。
この胸を満たすような温もりは永遠に続かないものだ。儚く、脆いものだ。
妻と娘と同じように、夏蓮だって、いつか俺の前からいなくなるだろう。
ひとつ深呼吸をしてから、顔を洗った。
俺は願った。
夏蓮が人として生きられている間は、これ以上苦しまないで欲しい。
ただなるべく、できうる限りの幸せを享受して欲しい。
ずっとどこかで迷っていた。しかし、ようやく決着がついた。
俺はそのために、この少女と共に生きるべきなのだ。
トレイを持ち上げて、鍋の具材をテーブルに運ぶ。
「おじ……さん……」
突然のことに言葉を失った。
手から力が抜けて、トレイを落とした。具材が床に散らばる。
夏蓮の様子がおかしかった。立ち上がり、背中を丸めていた。
違う。
夏蓮はうつむいて、苦しそうに呻いている。
やめてくれ。
夏蓮が顔をあげる。両の目が真っ赤に染まっていた。
目尻から頬をそうように皮膚に亀裂が入っていた。
分かっていたはずなのに。運命とは残酷なのだ。
「撃って……!」
喉から絞り出すように夏蓮は言う。俺は黙って首を振った。
「はやく……!」
夏蓮は苦しそうだった。俺を襲わないように、かろうじて理性を保っているのだろうか。
無理だ。
無理でも、覚悟を決めるしかなかった。
最後の最後まで、俺は矛盾だらけだ。
腰から拳銃を取って、銃口を夏蓮に向けた。
赤い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
その瞳を直視できなくて、うつむいて目を閉じた。
―わたしがゾンビになったら、おじさんがちゃんと撃ち殺してね? どうせ誰かに殺されるなら、わたしはおじさんがいい
長く息をはき、指先に力をこめた。




