5
翌朝。カーテンの隙間から降り注ぐ朝日で目が覚めた。
薄ぼけた視界に、まず飛び込んできたのは拳銃だった。
サイドテーブルの真っ白い天板の上にある黒々とした拳銃は、天板の白さとは不釣り合いだった。
ベッドから起き上がろうとすると、体にズシリとした重さを感じた。
まるで気怠さが体内で沈殿しているかのように体がベッドに沈みこんでいる。
連日の騒動で疲れが蓄積されているのだろう。
なんとかして体をベッドから引きはがすと、クローゼットまで移動した。
着替えを済ませ、ベルトにホルスターを装着し、銃を手に取った。
そして、しばらく銃の黒さを見つめたあとに腰にしまった。
廊下に出ると、隣の部屋のドアをノックした。
「起きたか?」
応答はなかった。
「おい……! 無事か!?」
胸がざわついた。
ドア前のキャビネットをどけて、腰の拳銃に手をかけながらドアを開けた。
部屋の中はしんとしていて、散らかった様子もなく、危うさの欠片すらも落ちていなかった。
夏蓮は勉強机に突っ伏してぐっすりと熟睡していた。
半開きの口からは、涎が垂れて一本の筋ができている。
俺は安堵して、腰の銃から手を離した。
夏蓮の手元にはペンが転がっていて、書きかけの手紙が頭部の下敷きになっていた。
その手紙は俺が娘の誕生日にプレゼントしたもので、娘が妻と交換日記をしていたときに使っていたものだ。
背景の絵柄には淡いピンク色の胡蝶蘭が描かれている。
使う予定はなかったが、家に残していた。
夏蓮の頭の横にはすでに何枚か手紙が積み重なっていた。
近づくと気配に気づいたのか、夏蓮は目を覚ました。
手の甲で涎を拭き取ると、首を捻った。
寝ぼけ眼で俺を見上げる。
するとだんだんと目は見開かれていき、最終的には猫のように丸くなった。
「ちょ、ちょっと……! 勝手に部屋に入らないでよ!」
夏蓮は机の上の手紙をかき集めると、背中を丸めて覆い隠した。
「ノックをした」
「うそ! だって聞こえなかったもん!」
「した」
「うそ!」
「ほんとうに――」
「うそ!」
聞く耳なんて持たず、敵意に満ちた、いつものきつい目を俺に向ける。
艶やかな唇を尖らせて、ムッと睨むその姿は歳以上に幼く感じる。
達観した境地で運命を語っていた昨晩の少女と同一人物だなんて、とても思えない。
「悪かった。次から気をつける」
「よろしい」
夏蓮は満足げに頷くと、シッシッ、と手で払いのける仕草をした。
こういうところが、どうしようもなく生意気だと思う。
「そんなに手紙を見られるのが嫌か?」
「そりゃそうでしょ! 誰が友達への遺言を関係ないおっさんに読まれたいと思うの!」
「おまえみたいな生意気なやつに友達がいると思えないがな」
「うるさいなあ。じゃあなに? わたしは誰に遺書を書いていると思ったの? 本当の家族はもうどこにもいないのに……! おっさんに書いていると思った? そんなわけないじゃん! 残念でしたー!」
「そんなものいらん」
「あっそ。早くあっち行ってよ」
「ああ。そうする」
苛立ちのせいか、頭がずきずきと痛んだ。
不毛だ。こんな下らない口喧嘩で体力を消耗するなんて馬鹿馬鹿しいことだ。
踵を返して、少女の望み通りに部屋を出ることにした。
「おい」
ドアの前で言った。
「なによ」
とツンとした声が返ってくる。
「朝食を用意する。すぐ降りてこいよ」
「あ、うん」
キッチンで葱を切っていると、夏蓮は食卓にやってきた。
椅子に座ると頬杖をつき、暇そうに髪の毛先をクルクルと弄んだ。
鍋の中に味噌を投入すると、夏蓮は匂いにつられたのか席を立ちあがり、鍋の前で手を仰いだ。
スンスンと鼻をかぐ。
「味噌汁って、なんでこんなに温かいって分かる匂いするんだろうね」
「なにわけの分からないことを……」
「えー、思わない?」
炊飯器のふたを開け、ワカメを振りかけて、しゃもじでよくかき混ぜた。
「混ぜるだけなら私やってもいいでしょ?」
「だめだ」
「けち」
お椀にご飯と味噌汁をそれぞれよそい、食卓に並べた。
席に戻ると、いただきます。と夏蓮は小さく言い。
味噌汁の入ったお椀を持ち上げた。
「夜通し書いていたのか?」
夏蓮はお椀に口をつけ、ズズッと汁を吸ったあとに「うん」と頷いた。
「いつ自分がおかしくなるか分からないからさ」
あくまで飄々とした顔で言う。
それでも、それが作られた気丈さだと、これまでもの様子から分かる。
「そうか」
「学校の友達か?」
「まあ。そんなところ」
「仲いいのか?」
「そりゃあね。遺書を書こうとしてるくらいなんだから。あたりまえじゃん」
「どんな友達なんだ?」
「どんなだっていいじゃん。気になんの?」
「別に……」
会話は無くなり、カチャカチャと箸を動かす音が空間を埋めつくした。
突然、夏蓮がニヤニヤと笑い出したのに気づいた。
それはしばらく続いたあと、夏蓮は箸を皿に置くと、腹を抱え、声を押し殺しながら笑った。
「なにがおかしい?」
「いや……だって……!」
笑い過ぎて苦しいのか、息も切れ切れに言う。
どうせこの生意気な娘のことだ。ろくなことを考えていないのだろう。
「なに今の親子みたいな会話……!」
「は?」
ろくでもないことに変わりなかったが意表を突かれた。
「なんかホームドラマにありそうじゃん? 娘の学校の様子が知りたくて、アンケートみたいに根掘り葉掘り訊くお節介な父親? みたいなやつ」
そんなふうに見えていたのか? 俺が?
「どれどれ。娘に相応しい友達かどうか見定めてやるか。じゃないから!」
あっはっは。と夏蓮は机をバンバンと叩いて笑う。
「そんなつもりはない」
「わかってるよー。わかってるけどさ。そうみたいだなって思ったら、すっごいおかしくって……!」
「笑ってないで、さっさと食え」
「はいはい」
と夏蓮は箸を握った。
「もー怒んないでよ」
夏蓮は一度深呼吸をした。
ワカメご飯の茶碗を持ち上げて、お米を口に運んで咀嚼する。
ようやく落ち着いたかと思ったら、またもや、ブフッ、と吹きだすように笑った。
「おい」
「ごめんごめん」
その後の夏蓮は終始、ニヤニヤしながらご飯を食べ進めた。
朝食を終えると、夏蓮は二階から手紙を持ってきて、リビングの石目調のローテーブルに広げた。
グレーのカーペットに内股に座ると、背中を丸め、手紙を書きはじめた。
生前の娘も、同じ場所で手紙を書いていた。
あの頃の花恋は文通にハマっていた。
クッションの上に座り、テーブルに向かって、すぐ後ろにいる美央宛ての手紙を書く。
美央は足を乗っけてソファに座り、小説を読んでいる。
テレビボードに備えたスピーカーからはクラシックが流れている。
大きな窓から降り注ぐ日射しがふたりを包んでいる。
そんな光景を、なぜか、ふと思い出した。
と同時に頭がクラリとして、頭痛が走った。
今日は寝起きのときからずっと体調がよくない。
溜まった疲労のせいだろうか。
キッチン横の戸棚から体温計を取り出すと、それを脇に挟んだ。
五分後、ピピッと音が鳴ったので表示を見ると38度6分、中々の高熱だった。
「なになに? 熱あんの?」
体温計の音に気づいたらしい。
リビングからソファの座面にもたれた夏蓮が首を傾けている。
「少しな」
夏蓮は立ち上がると、小動物のような俊敏さで、ささっと早足でこちらにやってきて、目を細めて俺を睨んだ。
「なんだ?」
「おじさん。目やに付いてるよ?」
「は?」
呆然としていると、夏蓮は素早い身のこなしで俺の手から体温計を取りあげた。
「おい……!」
「少し、ねえ……?」
体温計の数字と俺の顔を交互に見つめた。
「しかたないなあ。しかたない」
とつぶやきながら、やれやれと演技じみた様子で頭を抱えた。
「なんだよ……」
「わたしが看病してあげよう!」
夏蓮は腰に手を当てて胸を張った。
そんなことをしても、まだ十四歳の小さな体では、威厳はなにも生まれない。
背丈に合わないぶかぶかのスウェットを着ているせいで、むしろ滑稽だった。
「必要ない」
夏蓮はムッと唇を曲げた。
そして俺の言葉を無きものにして「こっちこっち。ほらほら」と俺の背中を押してソファに座らせた。
「横になって」
「看病は必要ない」
「だめだめ。横になって」
「必要ないと言っている」
「必要でしょ。めっちゃ高熱なんだから」
「安静にしていれば直ぐに治る」
「だからここで安静にするの!」
「だから俺は――」
「させてよ」
不意に低く言うと、夏蓮はぐいと顔を寄せた。
真っ赤な右目が近くにある。
よく見ると、ひび割れに似た細く赤黒い筋が一本、瞳を縦断していた。
そのおどろおどろしい赤さに、意識が奪われて、息が詰まった。
「だって、おじさんが倒れたら、私だって困るんだよ」
夏蓮の意見は真っ当だった。
渋々だが、看病があろうがなかろうが、大きく何かが変わるわけでもないので、受け入れることにした。
「わかった。ここで安静にしていればいいか?」
「えらい。えらい」
夏蓮はニコリと笑った。
「だが横にはならない」
「どうして?」
いつゾンビになるか分からない人間を前に、無防備に横たわるわけにはいかない。
「座っている方が楽だ」
「ふーん。だったらいいか」
夏蓮は意味ありげに、ジッと俺を見つめた。
「なんだ?」
「別に」
薬ある? 持ってきてあげる。
と夏蓮は薬のありかを尋ねた。
キッチン横の戸棚に薬があることを教えた。
すると夏蓮はキッチンに向かい、木製の救急箱とグラス一杯の水を持って来た。
「どれがいいか分からなかったから、丸ごと持って来た」
と俺の前で、パカリ、と救急箱を開けた。
「選び放題だよ。やったじゃん」
ふざけているのか、真面目なのか分からない口調で言う。
俺は頭痛薬を取ると、二錠分を水と一緒に飲み込んだ。
「どう? よくなった?」
「薬はそんなすぐに効かない」
「それもそっかあ」
夏蓮は俺からグラスを受け取りキッチンに戻ると、水を継ぎ足して返って来た。
「ここ置いとくから」
テーブルの、俺の手が届く位置にグラスを置く。
「助かる」
「ん」
夏蓮はふらりと歩くと、壁際の棚に向かった。
壁一面を敷き詰めるように広がる棚を左から右へとゆっくり見渡しから言う。
「さびしい棚だね」
「そうだな」
その棚は格子状にスペースが区切られたオープンラックだ。
それぞれのスペースに雑貨や日常品を置いている。
本、ランプ、フォトフレーム、小物入れの木箱。
それでもまだ空っぽのスペースは多い。
妻の美央はインテリアにこだわりがあった。
だから彼女がこの家を彩っていたときは、棚はあらゆる装飾で埋め尽くされていた。
観葉植物のパキラにモンステラ、生け花のマリーゴールドにピンポンマム、白猫の置物、虹色の鳩の絵画、傘を差す少女のイラストのジグソーパズル、モノトーンカラーの地球儀、ワインレッドの小瓶。エトセトラ。
それらの配置やオブジェクトを定期的に変えていたので、リビングはまるで季節の移り変わりのように、絶えずその景色と匂いを変えていた。
今はずっと同じ景色、同じ匂いだ。
俺にはインテリアの趣味もなければ、やってみたところで美央のようなセンスもない。
リビングに命を吹き込んでいたインテリア達は俺には扱いきれぬと棚から取り除いてしまった。
妻が亡くなったあの日、この部屋もまた死んだのだ。
「なにしてる?」
夏蓮は背伸びして、棚の上段を覗いていた。
「座ってるだけは暇でしょ? だから本くらいは読ませてあげるよ」
一冊の本を取って戻ってくると「はい」と、その本を俺に渡した。
「わたしチョイス」
「これは……」
その本は妻がお気に入りの作家の詩集だった。
パラパラとめくると、鳥の羽を模した黄色い詩織が挟まっていた。
「なに? 不満?」
「いや……。これでいい」
夏蓮はさぞ満足そうに頷くと、両手を組んで伸びをした。
カーペットにぺたりと座ると、ペンを手に取って机に向き直った。
俺は本に挟まっている詩織をそのままにして、最初のページに戻った。
過去に美央が読んだ文字を、その軌跡をたどることにした。
夏蓮は手紙にペンを走らせた。
いつものクラシックの鼻歌を歌いながら。
「『愛の夢』だよな?」
本をめくる手を止めて、尋ねた。
「んー?」
鼻歌が止まる。
「そのクラシックの曲」
「へえ。そうなんだ」
「知らずに歌っていたのか?」
「うん。家にいたくない時とかは図書館で時間を潰していたんだよね。そこでずっと流れていたから覚えちゃった」
家にいたくないとき。
その理由を訊こうか迷ったが、訊かないことにした。
伯母の家では愛情を感じられなかった。
だから余計に、家にいるほど寂しさを覚えてしまう。
そんなところだと思った。
もし俺の勝手な妄想が正しかったとき、わざわざ答え合わせをするなんて、それは可哀想なことだ。
ふと、思考が立ち止まった。
可哀想?
『可哀想』とは『哀れ』より主観的な言葉だと思う。
相手の気持ちを推測し、労わらないと出て来る言葉ではない。
俺は今、明確に少女を気遣ったのだ。
「いい曲だよね」
夏蓮は静かに言う。
そして再び『愛の夢』を奏でる。
高熱のせいか、意識がうつらうつらとしてきて、それ以上の思考の整理が難しくなる。
夏蓮の奏でる鼻歌が浅瀬をたゆたうクラゲのように、自由に部屋を泳ぎまわる。
ペンを走らせる音は、窓辺で猫が喉を鳴らすように小気味よく耳に響く。
窓から注がれる日射しが暖かい。
目に飛び込んで来る力強い詩集の文字たちは脳で解釈もされないまま、無意識の中の同じ場所を往来している。
クラシックを聴きながら本を読む美央と、手紙を書く花恋の二人の姿が記憶の底からあふれでる。
過去に失った、もう思い出せないと思っていた幸せの形を、ぼやけた輪郭で思い出す。
意識は少しずつ、閉じていった。
ストン、と何かが床に落ちる音がして目を覚ました。
足下には本が開いたまま落ちていた。
どうやら本を落とした音で目を覚ましたらしい。
目を剥いて、まずは自分が寝てしまっていたという事実に呆然とした。
そしてテーブルで手紙を書いていた夏蓮の姿がないことに気づき、跳ねるようにソファから腰を上げた。
「起きたんだ」
キッチンから声がした。
見ると、夏蓮はコンロの前に立っていた。
こそこそと何かをしているようだが、異常な事態は起こっていないようだった。
何事も無かったという事実にとりあえずは安堵し、腰を下ろした。
いくら疲労と高熱があったとはいえ、無防備に寝てしまっていた自分に大きく失望する。
夏蓮がいつゾンビ化するか分からない状態であることは変わりない。
人とはこんな簡単に、危険な状況に慣れてしまえるものなのだろうか。
だとしたら恐ろしいことだった。
ソファに深く座り直すと、目頭を強く押さえた。
夏蓮と初めて会った日、彼女の赤い瞳を初めて見たあの日は、指を追って数えられるほど先日の出来事だ。
なのに、あの日の濃密な緊張と恐怖はずっと遠い記憶として薄れてしまい、今の穏やかな時間こそが夏蓮との関係の全てだと脳が錯覚してしまっている。
「なにをしている?」
夏蓮はキッチンでこそこそと何かをしていた。
「さて、なにをしているでしょー?」
「質問に質問で返すな」
目の前のテーブルには裏返して手紙が置かれている。
その中央には紫色の胡蝶蘭。
「質問じゃないよ。クイズです」
「なにが違うんだ」
「全然ちがうよ。だって質問はつまらないけど、クイズは楽しいもん」
「俺が楽しんでいるように見えるか?」
夏蓮は背伸びして、キッチンから俺を覗いた。
んー、とじっくり考えてから言った。
「見える!」
「見えないだろ」
「それは残念」
なにも残念ではなさそうに言う。
夏蓮は手にお玉を持つと、コンロの鍋の中にあるものを掬い、お椀によそった。
やけに大事そうに手のひらでお椀を包んでリビングにやってくると、テーブルに置かれた手紙をどけてから、代わりにお椀を置いた。
「正解はこれです」
お碗の中にはスープで煮込まれたご飯があった。
ゆらゆらと湯気が立っている。
「お粥か」
「です」
夏蓮は頷く。
あ、と思い出したようにキッチンに戻ると、スプーンを持って来た。
「あーん、してあげよっか?」
と悪戯に笑う。
「馬鹿言うな」
「照れ屋さんだねー」
夏蓮からスプーンを受け取り、お碗を掴んだ。
「勝手にキッチンを使うな」
「せっかく作って上げたのに、そういうこと言う?」
わざとらしく、おおげさにため息をはき出してやると「いいじゃんよ。別に」と夏蓮は目を細めた。
お粥を口の中に入れた。
飲み込むと、じんわりと胃が温まるのを感じる。
夏蓮はテーブルに肘をついて、俺の表情をニヤニヤと窺っていた。
「なんだ?」
「おいしい?」
「普通のお粥だ」
夏蓮は顔をむっとさせる。
「美味しいか、不味いかで言ったらどっち?」
少し悩んだ。
「美味しいな」
へへ。と夏蓮は嬉しそうに口角を上げた。
「おかわりもいっぱいあるからね」
「病人にそんな食欲があると思うな」
「じゃあいいよ。全部わたしが食べる。あとからやっぱり欲しいって言っても遅いからね?」
「勝手にしろ」
緊張感がそぎ落とされてしまうのは、きっと、この呑気な会話のせいなのだろう。
「あの日、どうしてあんなところにいた?」
「うん?」
俺は空になったお椀をテーブルに置いた。
「ゾンビに襲われていたあの日だ」
ずっと気になっていたことだった。
あの道はひとけも無い道路だった。
周囲は民家や畑ばかりで、有名な観光地も特徴的な建物もない。
そんな辺鄙なところに足を運んだりしなければ、夏蓮はゾンビになっていなかったかもしれないし、俺と夏蓮が出遭うこともなかっただろう。
「あー……」
夏蓮はお粥を口に含みながら答えた。
「聖地巡礼だよ」
「は?」
「だから聖地巡礼だって」
「あんなところにそんな場所は……」
「あんなところ? それがあるんだよ!」
夏蓮は振り返り、ペンの先を俺に向ける。
「いい? あの近くにあった橋はね、アリンとジュンスが再開した場所なんだよ!」
アリン、ジュンス。
聞き覚えのある名前だと思ったら、先日に観た韓国ドラマの登場人物だった。
ひとりは主人公で、もう一人は確か、死んだはずの恋人だった。
「おい待て……! あの韓国ドラマの話か……? 主人公の恋人は亡くなっていたんじゃ?」
「あ」
夏蓮は大きく開いた口に手を被せた。
「ごめん。ネタバレしちゃった? でもシーズン1の最後で分かる話だよ?」
「シーズン2があるのか……!」
「おっさん色々遅すぎるって……」
夏蓮はやれやれと呆れ顔をつくる。
「雪の降るクリスマスの日、異国のどことも言えない橋の上で、二人は奇跡的な再会を果たすの!」
なるほど。
あの日、東京では珍しく、クリスマスの日に雪が降っていた。
「南ちゃんって親友の子がいてね。雪を見たらもうさ、その子とすごい盛り上がちゃって。もうこれは行くしかないでしょ! てね」
楽しそうに話していた夏蓮の顔にすっと暗い線が入った。
「で、行ったらあんなことに……。ほんと最悪だった」
夏蓮は唇を噛んだ。
クリスマスの日にゾンビに襲われるなんて。
もし神様が本当にいるのならば、神は彼女に、どんな言い訳を準備しているのだろう。
「待て」
ひとつ疑問がわいた。
「その親友はどうなった?」
夏蓮は鋭い目で俺を見つめた。
「わからない?」
「わからない。あのとき、俺はおまえの姿しか見ていない」
「それはないよ」
夏蓮は首を振った。
その言葉で気づいた。
俺が銃で撃ったゾンビがきっと……。
「おじさんが撃ち殺したゾンビが南ちゃん、わたしの親友だったんだよ」
撃ち殺した。
その単語に、脳がぐらりと揺さぶられた。
体中から汗が噴き出す。
「おじさんが訊いたから答えたんだよ?」
夏蓮の言葉が遠く聞こえた。
「おまえは……」
続く言葉が喉につかえる。
無理やり外に押し出した。
「俺を、恨んでいるか?」
「恨んでないよ。恨めっこない」
そう言う顔には、なにも表情はない。
「だって、おじさんが銃を撃ってくれて。助かって良かったって、あのときの私は思ったもん。南ちゃんの死を悲しんだのは、それよりずっとあとだった」
夏蓮は口の中にお粥を入れて、ごくりと飲み込んだ。
その音がはっきりと聞こえた。
「もし、おじさんのことを恨むなら、私は私のことも恨まなくちゃいけなくなるもん。仕方がなかったんだよ……。どんなに屁理屈をこねようとしても、やっぱりそう言うことしか出来ないことも世の中にはあるんだよ。きっと……」
「湿っぽい話になっちゃったじゃん」
と夏蓮は微笑んだ。
すまない。と謝ると、許そう。と言われ、膝をポンポンと叩かれた。
「湿っぽいついでに、これも言っておくね」
「なんだ?」
「わたしがゾンビになったら、おじさんがちゃんと撃ち殺してね? どうせ誰かに殺されるなら、わたしはおじさんがいいの」
「そんなこというな」
冗談でも、殺すとは言えなくなっていた。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
それは唐突だった。
インターホンのモニターを見ると、警察官の格好をしたふたりの男の姿があった。




