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3


「トイレ行きたいんだけど」


 哀れな少女は言う。


「まるで悪夢だな」


「それって、わたしの台詞だよ」


 ここまでゾンビ化が起きないとなると考えものだ。

 このまま少女をここに縛り続けていても埒が明かない。

 排出物を垂れ流されるのも困る。


 しかたなく、少女の体に巻きつけた縄は解いた。

 両足を縛った縄は、小さな歩幅でなら歩けるように緩めることにした。


「まるで奴隷みたい」


 足首を縛る縄を見下ろして、少女は言う。


 その言葉を無視して、昨日のようにしりとりを始めた。


「理科」


「あー、もう!」少女はげんなりとして言った。「また、しりとり!? それはいい加減にして! もーうんざりなの!」


「だめだ。やめれない」


「要はあれでしょ? わたしがおかしくなってないって証明できればいいんだよね? だったら他にもやりようはあるじゃんよ!」


「たとえば?」


 少女はすこし考えてから、不意に鼻歌を歌い出した。

 有名なクラシックの曲だった。


 クラシックには明るくない。

 けれど、妻が好きでよく聴いていたのもあって、メジャーな曲ならば、ある程度おぼえている。

 少女が歌っているのは、たしかリストの『愛の夢』だったか。


 なるほど悪くなかった。

 子供らしい案だ。

 鼻歌を歌えているあいだは、わたしはまともだと言いたいのだろう。


 ガレージから出るように少女に命令すると、少女は鼻歌を続けながら立ち上がり、ゆらゆらと歩いて外にでた。


 すぐとなりの家まで歩くように伝え、前を歩かせる。


 稚拙な『愛の夢』のメロディが薄暗い光の中を、冷たい空気の底でたゆたっている。


 少女はやけに、のろのろと歩く。


「もう少し早く歩けないのか?」


「うるさいなあ。おしっこ漏れそうなの!」


「そうか……」


 家は40坪の二階建てで、一階にはリビングとダイニングキッチン、二階には寝室と子供部屋がある。

 リビングの天井は高く、大きな窓から透きとおった陽射しがたっぷりと差し込む設計になっている。


 少女を自宅に上げると、玄関をあがってすぐのトイレに案内した。


「そこで待ってんの?」


「なにか悪いか?」


 少女はトイレのドアを開けると振り返る。


「へんたい……!」


「さっさとしろ」


「もう三歩はなれて!」


「無理だ」


「鼻歌をもっと大きくするから! ちゃんと聴こえるように!」


「無理だ」


「はなれてよ……!」


 少女の意思は固かった。

 顔を真っ赤に染めて、膀胱も我慢の限界のようだが、それでも一向にドアを閉めようとしない。


「まったく……」


 ため息まじりにつぶやきながら、ちょうど三歩離れると、ようやく少女はドアを閉めた。


 右目が赤い。ただその一点を除いてしまえば、ただの女の子だ。

 その生意気な部分にも、つよく人間味を感じてしまう。


 これは危うい。このままでは。


 どうせ、いつか撃つときが来るならば、早い方がいい。

 今が一番簡単だ。


 俺と少女の間には、一枚の薄い扉が隔たっているだけだ。

 ちょうど顔も見えない。

 おびえるあの目を向けられることもない。

 死にたくない、と懇願されることもない。


 銃を上げた。

 扉の中心に照準を向ける。


 体中が汗ばんだ。

 頭がくらくらとする。

 視界が歪む。

 体が拒んでいるのが分かる。


 それでも、しかたがないのだと、自分に言い聞かせた。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。


 ガチャリと鍵の開く音がした。


 とっさに銃を下ろした。

 平然とした顔を装い、少女と向き合う。


 思い知らされた。

 昨夜、この少女を撃つことができなかった自分に、引き金をひくことはこれからもできないだろう。


 そもそも、ここで撃つのならば、警察に突き出せばよかったのだ。

 それをせずに少女を救いながらも、殺さなければいけないと考えている。

 明らかに矛盾した思考がとなり合わせに存在するのは、やはり娘の幻影が脳裏にちらつくせいだろうか。


「シャワー入りたい」


 トイレから出てきた少女は出し抜けに言ってきた。

 こっちの台詞だと、大人気もなく言い返したくなった。


 ぬるま湯で2枚のフェイスタオルを濡らすと、電子レンジで蒸らしてから、少女に渡した。


「なにこれ?」


「分からないか?」


「まさか、いやありえない……! これで体を拭けって言ってる?」


「そうだ」


 少女は唖然として首を左右に振った。


「耳ついてる? シャワーに入りたいって言ったんだけど」


「おまえから目を離すのは危険だ。それに足の縄をほどくだろ?」


「あたりまえでしょ。だってそうしないと下着が脱げないもん」


「だからだ」


「髪は?」


「は?」


 少女は前のめりに訴える。


「髪はどうやって洗うの?」


 頭を左右に振り、肩までかかる黒髪を大袈裟に強調する。


「拭けばいいだろ」


「信じらんない……! 髪の毛だよ!? 女の子の命だよ!?」


「知ったことか」


 すっかり辟易としてしまったのか、少女は口を閉じた。

 そのあとに、なんともわざとらしい溜息をついてから、ソファにどさりと腰を下ろした。

「こっち見ないでよ?」と蒸しタオルで自分の髪の毛を撫でる。


「おじさんってさ」


 丁寧に髪の毛を拭きながら言う。


「こんな立派な家に住んでいて一人暮らしって、どうせ奥さんと子供に逃げられたんでしょ?」


「黙ってろ」


 ふっ、と少女は鼻で笑う。

 ついに攻撃の糸口を見つけたと言わんばかりに、意地悪く口角を持ち上げた。


「えー図星? こんな性格だもんね。あたりまえだよ。わたしだったら、こんなに女心が分からない父親なんて絶対に無理だもん」


「いい加減にしろ……」


「てゆーか、大丈夫? その銃で撃ち殺してない? わたしみたいな女の子にも向けるくらいだもんね。感情的になってつい、バン! てさ」


「黙れと言っているだろ!」


 思いがけず大きな声が出た。

 少女はびくりと肩を震わせたが、睨む瞳の色は変わらなかった。


「こわっ。てゆーかこっち見んなよ」


 その声は少しだけ震えていた。

 怒りか、それとも恐怖心を強がりで隠しているのか。

 その両方に見えた。


「くだらないことを言うからだ」


 どうにか怒りを押し殺して、抑揚もなく言う。


 少女は、はっきりと俺に聞こえるように舌打ちをした。

 そしてそっぽを向いて、髪の毛先をタオルで撫でた。


 少女が体を拭いているあいだに朝食の準備をした。

 少女の稚拙な鼻歌をBGMに、トーストにバターを塗り、ありあわせのサラダに胡麻のドレッシングをかけた。


 ふたり分の食事をテーブルに並べたときに気づいた。


 少女の鼻歌が止まった。


 ソファに目をやると、少女は座っていなかった。

 窓もドアも開けられた形跡がない。

 ならば、まだ部屋の中にいるはずだった。


 腰から銃を抜き、ゆっくりと、慎重に、ソファに近づいた。

 背もたれの裏側をのぞいたが、少女の姿は無かった。


 手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。


「わっ!」


 うしろから声がして、飛び上がるように振り向いた。

 銃を向けると、カーテンから顔を出して「うははっ」と甲高く笑う少女がいた。


「ビビりすぎだって! おっさん……! はー、いまの顔ちょー傑作だわ。ざまあないって!」


 さっさとその銃おろしてね。恐いじゃん。

 と、なおも笑いこけながら言う。


 安堵よりも苛立ちが勝り、さらにそれよりも、胸につかえていたものが全て粉々に砕けたような、ある種ひらき直りのような清々しさがあった。


 そうだ。

 最初から、こんな生意気な少女になんてかまう必要すらなかった。


 俺には全部関係のないことなのだから。


 少女の髪を掴み、引っ張った。


「ちょっと! なにすんの! 痛い!」


 痛い、痛い。

 と叫ぶ少女を、そのまま玄関から家の外に連れ出すと、そこで乱暴に髪を離した。


「なにすんの!」


 キッ、と睨まれる。


「でていけ」


「はあ!?」


「でていけ」


「はああ!?」


 少女は口をぽっかりと開けた。


「なに急にヒステリッてんの? そもそも私さ、ここに居させてくれって頼んでないよね? おじさんが私を勝手に監禁していただけだよね? でていけって意味わかんない! 頭おかしいんじゃない!? そんなこと言われなくても、その銃で脅されてなかったら、私はとっくに逃げ出してるんだけど!」


「だったら、さっさと逃げ出せばどうだ? 銃はもう使わない」


 銃を腰のホルスターにしまった。


「ああ。でてくよ! さっさと出てくよ! あー、せいせいする!」


 少女は背中を向けて少し歩いた。

 そのあとにしゃがみ込むと、足首を縛っていた縄を手間取りながらも、どうにかほどいた。

 そして、その縄を俺に向けて投げつけた。


 縄は俺の顔のすぐ横を通り過ぎて、玄関の前に落ちる。


「バカ! アホ! 死ね! 孤独死しろ! ゾンビに食われろ!」


 好き勝手に悪態を吐きながら少女は遠ざかっていき、やがて見えなくなった。


---------


「笹木課長」


 部下の新島に声を掛けられて、顔を上げた。


「販売促進部からきたメールの件ですが……」


 朝方まで、あんなことがあったというのに、普段どおりに会社に出社し、仕事をしている。

 できてしまっている。


 それほどに会社員という人生が自分の身に沁み込んでいる。

 非日常と日常のギャップに体は対応できていても、脳が違和感の処理に追いついていない。


 あの少女はどうなったのだろう。

 そんなことが、ふと脳裏に浮かんでは、その度に思考の隅へと追いやった。


「ありがとうございました」


 質問を終えると、新島は頭を下げる。


「そういえば」


 背を向けた新島を呼び止めた。


「子供はいくつになった?」


 新島は少しおどろいた顔をしたあと「先月で七歳になりました」と答えた。


 あの少女より、まだまだ幼い。


「めずらしいですね。課長がプライベートな話をするなんて」新島は言った。


「そうか?」


 そうは言ったが自覚はしていた。

 他人のプライベートなど、基本的には興味がなかった。

「たまにはいいだろ」


 席で黙々と仕事をこなす他の社員達が、これは貴重だとばかりに、聞き耳を立てているのが分かる。

 本人達は気にしていない素振りを装っているが、キーボードのタイピングの音が一斉にピタリとやむのだから分かりやすいものだ。


「やっぱり成長すると、生意気に育っていくものなのか?」


 質問の意図を探ろうとしたのだろう。

 少しだけ沈黙が生まれる。


「まあ、いつまでも無垢で可愛いままってわけにはいかなくなりますよね。理性が働くようになってから、やり返すということを学ぶようになってきて」


「たとえば?」


「親がむかついたり、傷ついたりする言葉をいつのまにか理解しているんですよね。で、ここぞというタイミングで使うんです。きらい。だとか、うざい。だとか」


 空調が真上で低く、うなっている。


「命令すると反抗するし、叱りつけたら言い訳する。自分の想いどおりにいかなかったら不満を言うし、少しでも傷ついたら大袈裟に泣きわめく」


「言っちゃ悪いが、生意気だな」


「はい。否定はしません」新島は笑った。「でも思うんです。それって大人も変わらないなって」


「大人も?」


 締め切ったブラインドから漏れるわずかな陽射しが、部屋を照らしている。


「子供は、大人よりも素直に感情を表現しているだけな気がします」


 一理あると思った。

 支配されれば反抗する。

 怒られまいと先に言い訳をする。

 こんなはずではなかったと不満を言う。

 少しのことで大袈裟に騒ぎ立てる。


 自分も心当たりが無いとは言えない。

 結局、世の中はそんな大人ばかりだ。


「それで。子供とはどう接している?」


「まだ模索中です」新島は肩をすくめた。「俺だって、正解を知りたいっすよ」


 ただ。と新島は言葉をつなぐ。


「最近はよく話し合うことを意識しています。そうすると、子供の考えは理解不能だと思うのは親の思いこみだなと気づくときが、たまにあるんです」


「そうか」


 そこで会話を区切った。


 もし、あの少女とじっくりと会話をしていたなら、あの生意気な言動すらも理解する余地があったのだろうか。

 今となっては全て遅いことだが。


「つかぬことをお聞きしますが」


 部下の新島はまだ目の前にいた。


「もし答えたくなければ、答えて頂かなくて結構ですが……」


 やけに前置きがくどいせいで、訊きたいことは簡単に推測できた。


「俺の娘のことか?」


「はい……」


 眉を下げ、分かりやすく憐れむ顔をする。


「なんて名前でしたっけ……?」


花恋(かれん)だ」


「かわいらしい名前ですね」


「ああ」


「もし、生きていたら何歳だったんでしょう?」


 もし生きていたら。

 この十年で何千回と繰り返してきた痛みを伴う仮定。

 その痛みには慣れてしまった。


「十四だな」


「きっと課長の娘に反抗期なんかなかったでしょうね」


「どうだろうな。誰にでもあるものだろ」


 しんみりとした沈黙が間をつなぐ。


「すみません」新島は頭を下げた。「突然こんな話を……」


「いや」俺は首を振った。「語ってくれた方が天国の娘も喜ぶだろう」


 天国の存在など信じることもなく言った。


 新島は安堵の息をついた。


「さあ。仕事に戻れ」


 はい。と返事した新島の向こう側の全員にも届くように言う。「おまえ達もだ」


 皆がいっせいに、パソコンに視線を戻した。


 ようやく全員の止まっていた時間が動き出し、タイピングの音が少しずつ空間に蘇った。


「課長!」自席に戻った新島が声をあげた。「今度、課のみんなで飲みに行きましょうよ」


「ああ。今度な」



 その日の帰り道は行きつけのスーパーにより、一週間分の食料を買い込んだ。

 普段は飲まないが、アルコール飲料も買った。

 酔いたい気分だったのだ。


 自宅に戻ると、ガレージに車を停めた。

 買い込んだ食料を抱えて家の前まで歩くと、そこで立ち尽くした。


「冗談だろ……」


 つい言わずにはいられない。


「どうしてここにいる?」


 追い出したはずだ。

 もう二度と関わることがないように。


 扉の前には少女がいた。

 玄関ポーチの段差に腰掛けて、小さく丸まって座っている。

 その姿は朝のときよりも小さく見えた。


「わかんない」


 と少女は顔を上げた。

 頬には涙のあとがあった。


「でも、おじさんは、わたしを警察に突き出さないから……」


 すがるように俺を見つめる。

 朝は死ねだのなんだのとほざいていたくせに、こんなときばかり、か弱いふりをする。


「親に通報されたのか?」


 少女がここに戻るしかなかった理由。

 どうせ、そういうことなのだろう。


「親じゃない。あんな人たち……」少女は言う。「わたしのパパとママは、十年前に死んだから」


 十年前。

 俺の妻と娘が死んだ年。


「おまえ、歳はいくつだ?」


「じゅうよん……」


 十四歳だった。

 もし、娘が生きていたなら。


「その足の縄は自分で縛ったのか?」


 少女の足首には、朝に俺が縛ったときと同じように縄が縛られていた。

 それは足枷の役割をはたす。


「うん……。玄関の前にまだあったから。だって、おじさん、こうしないと安心できないんでしょ?」


 新島の言葉を思い出す。

 この少女と必要なのは対話なのだろうか。

 しかし、それをしてしまえば、引き返せなくなってしまうのではないだろうか。


「名前は?」


 風が吹いた。

 冬の夜風は静かでいて、冷たい。


「二ノ宮……」


 そして思いしる。


夏蓮(かれん)


 運命というものは、どこまでも残酷にできている。



「どうせーさあ、ちょうどいいと思ったんだよ」


 カレーを頬がいっぱいになるほど口に詰め込みながら、夏蓮は言う。


「私なんて、どうでもいいと思っているのはずっと前から気づていた。だって私はあの人達の子供じゃないから」


 夏蓮が言うには、四歳のときに親を亡くしてからは伯母のところに引き取られて暮らしていたそうだ。


 育ち盛りだけあって、食事が早い。

 甘口に作ったカレーのルーを休みなくスプーンですくっていく。


 先ほどまでの、か弱い少女はいったいどこへいったのか。

 しかたないからと家に上げ、カレーを振る舞えば、すぐにこの調子だ。


「あの人ら、いつも口を開けば恩着せがましく私に言ってくるの。育ててやってるんだからって。ありがたいよね。おかげさまで、わたしは家計の負担になっているだけの居候なんだって、嫌でも気づけたよ」


 頬がふくらむほど口に放り込んだご飯を、むしゃむしゃと咀嚼してから、ごくりと飲み込んだ。


「だからさ、やっぱりかー。って感じ。家から追い出せる都合が出来たら、そりゃ通報するよね。ゾンビ化したかもしれないただの居候なんか」


 その言葉とは裏腹に、声色は寂しそうだった。


「それでも、信じてたのに。ちょっとだけ……。信じてたのに……」


 頼れるはずの親がいない少女の孤独とは、いかほどのものなのだろうか。

 同じ境遇にならない限り、想像は難しいだろう。


 ころころと変わる夏蓮の表情は桜のようだった。

 威勢よく咲いたと思ったら、次の瞬間には儚く散る。

 それをくり返す。


「ていうかさ。おじさん、その顔で意外に料理できんだね。このカレーめっちゃ旨いよ!」


「その顔ってなんだ……」


「だっておじさんの顔って猫みたいなんだもん。その辺の家を転々として施しを受けてそうな野良猫みたい」


「おまえなあ。またつまみ出されたいのか?」


「ちょっとそれはなしでしょ! 謝るから……!」


 ごめん!

 夏蓮は手を合わせ、頭を下げた。


「はい。謝った。これでちゃらね」


 と眉を上げる。

 こういうところがたまらなく生意気だと思う。


 しかし、この悪戯で奔放な性格に振り回されるのにも、イライラするのにも、この少女の存在を恐れることにさえも、全部疲れてしまった。

 腰に取り付けたピストルの存在を危うく忘れそうになる。

 目の前にいるのは、少なくとも今は、どこにでもいる普通の女の子だ。


 けれど右目は赤い。

 忘れてはいけないことだ。


「おまえはいつになったらゾンビになってくれるんだ?」


「今からなって噛みついてやろうか?」


 夕食を終えると、風呂に入れさせるため、足の縄を一時的にほどくことを許可した。

「いいの?」と訊く夏蓮に、風呂に入る間は鼻歌を歌い続けることを条件に出した。


 俺は皿洗いをした。

 キッチンの隣には脱衣所があり、さらにその隣に浴室があった。


 少女が奏でる『愛の夢』のメロディが左耳から流れ込んだ。


 着替えには妻が寝間着に使っていたものを与えた。

 手の通っていない袖をぶらぶらと振りながら、夏蓮は脱衣所から出てきた。


「ぶかぶか」


「そりゃあな」


 それから二階にある7畳の寝室に案内した。


「質素な部屋ね」


「使ってないからな」


 その部屋は、娘が大きくなったら使う予定の部屋だった。

 木組みのシングルベッドと白塗りの勉強机もそろえたが、結局使うことは無かった。


 夏蓮といくつか取り決めをした。


 許可なく部屋から出ようとしないこと。

 窓を開けないこと。

 ノックしたら必ず応答すること。

 許可なく足の縄を解かないこと。


 これらの取り決めを破った場合、即刻この家から追い出すこと。


「わかったか?」


「了解。トイレは行かずにここで漏らせってことね」


 口を開けば皮肉ばかりだ。可愛げがない。


「そのときは俺を呼べ。隣の部屋にいるから少し声を出せば気づく」


 はいはい。

 と人間を見下した猫のような適当な相槌を打ちながら、夏蓮はベッドに横たわった。

「あー神様。このおっさんに人権ってやつを教えてあげてください」と独り言のふりをして愚痴を言う。


「ゾンビが人権を語るな」


「さっさと出てけ!」


 枕が飛んできて、顔に直撃した。


「言われなくてもな」


 俺は枕をベッドに戻すと、クローゼットから段ボールをひとつ持ち上げた。

 その中に入っているものは妻と娘の想い出であり、何が起こるか分からないような、この部屋に置いたままにしたくはない。


 部屋を出ると、段ボールは隣の部屋の自分の寝室に置いた。

 そのあと、廊下のキャビネットを引きずって夏蓮の部屋の扉をふさいだ。


 半端だ。なにもかも。


 少女を撃つことも、無視することも、完全に受け入れることもできないまま、ただ状況に流されている。


 過去の経験が今の俺の信念を、価値観を形成しているはずなのに。

 同時に過去の自分が足を引っ張り、今の自分を曖昧にしている。

 思考を放棄したかのように、成り行きまかせな自分があまりにも信じ難い。


「あの」


 扉の向こうから夏蓮の声がした。

 扉の前で何かしていると気づいたらしい。


「本当は感謝してる」


 耳を疑った。

 およそ、あの生意気な少女の口から出た言葉だとは思えない。


「わたしを匿ってくれたこと……」


 俺だけじゃない。


 半端なのは、少女も同じだ。


「で、なにしてんの?」


「中から扉を開かれないようにしている」


「死ね!」


 ドアが強く蹴られた。

 それくらいの衝撃では扉をふさぐキャビネットはびくともしなかった。

 これで中から扉を開くことはできないだろう。


 俺はとなりの部屋の寝室にいくとベッドに横になった。

 銃をサイドテーブルに置く。


 昨日からの睡眠不足のせいか急な眠気に襲われ、そのまま目を閉じた。


 翌朝、寒気に我慢できず目が覚めた。

 まだ日も出ていない時間だった。

 となりの部屋からは物音ひとつ聞こえなかった。


 立ち上がると、サイドテーブルに置いた銃を手に取り、深く呼吸した。


 廊下に出ると、となりの部屋の扉をノックした。


「なんともないか?」


「まだ寝させてよお……!」


 寝ぼけた声が返ってきた。

 今日もまだ、少女はまともそうだった。


 俺はシャワーを浴びて、朝食の用意をしてから再びドアをノックした。


「朝食だ」


「開けて」


 扉の前のキャビネットをどけてから扉を開けた。


 夏蓮はベッドの縁に座り、なにか冊子を眺めていた。


「それは……」


 その冊子は妻が作成したものだった。

 作りかけだった、と言う方が正しいかもしれない。


 水色の表紙をめくると、娘が生まれたばかりに撮影した三人の家族写真が貼ってある。

 次のページには妻が娘の頬にキスをしている写真。

 俺が娘を抱いてうたた寝している写真。

 その他にも、家族の軌跡をたどるように、写真が各ページを埋め尽くしている。


「おじさんの落とし物。昨日持っていった段ボールから落っことしてたよ」


 デジタルに画像も映像を残せる時代に、わざわざ手作りのアルバムなんかと当時の俺は思っていたが、こうして全てが過去になった今は考えを改めた。


 それはふたりが生きていた証拠になる。

 その過去に、確かにしっかりとこの指で触れることができる。


「わたし、ひどいこと言ったね」


「は?」


「どうせ奥さんと子供に逃げられたんでしょ? とか。撃ち殺したんじゃない? とか。ほんとひどかったと思う。そんなわけないのにね。こんな幸せそうなのに……」


 夏蓮はアルバムの写真を指でなぞった。


「ごめん」


「気にしなくていい」


 調子が狂う。

 この少女が素直に謝るなんて。

 やめてくれと思った。

 生意気なままでいてくれと。

 いずれは殺すかもしれない子だ。


「ふたりはどうしていなくなったの?」


 夏蓮は訊いた。


「おまえに話す必要はない」


「あっそ」


 夏蓮は立ち上がると、俺の胸にアルバムを押し付けてから廊下に出る。

「おなか減ったー」と階段を降りていった。


 朝食にはトーストにベーコンエッグを乗せたものを与えた。


「わお! 本格的……!」


「そうでもない」


「そう? わたしの朝ごはんはいつも菓子パンだったよ? あのチョコスティックのやつ」


 おいしい、おいしい。

 と言いながら夏蓮はトーストをかじる。


「今度さ、わたしに料理教えてよ!」


「馬鹿言うな。包丁を握らせたくもない」


 呑気なものだ。

 自分が明日もゾンビにならない保証なんてないのに、未来のことを語るなんて。


 俺はリモコンを手に取り、リビングのテレビをつけた。

 ダイニングからだと遠くて映像はしっかり見えないが、音は聞こえる。

 キャスターがニュースを読み上げる声が届いてきた。


「おまえ、携帯は持っているか?」


 我ながら遅すぎる問いだ。

 昨日は疲弊のせいで、まともに思考できていなかったことがよく分かる。


「捨ててきたに決まってるじゃん。川にポイって」


 夏蓮はコップを取り、牛乳をグビグビと飲んだ。


「GPSで追跡されちゃうんでしょ? そのくらいのこと知ってるってば」


「おまえは一昨日の夜から昨日の朝にかけてここにいた」


「だから?」


「もし履歴をたどられたら、一晩おまえがここにいたことも分かる」


「え」


 夏蓮の顔にひとすじの暗い線が入った。


 彼女の存在はどのように警察に伝わっただろうか。

 少女はゾンビだと断定されたのだろうか。


 だとすれば、もう逃げ場はない。

 まだ疑惑の範疇だとしたら救いはあるかもしれないが、警察がどれだけ、確証もないゾンビの操作に本腰を入れるかによるだろう。


「そっか……。履歴……」夏蓮は食べかけのパンを皿に戻した。「どうしよう……」


 その顔は青ざめていて、先ほどまでの余裕は消え失せていた。


『××区にてのゾンビウイルス感染者の通報があり、警察は近隣住民の方々に注意喚起を呼びかけています』


 ニュースを読む男のキャスターの声。

 ふたりはそろってテレビのモニターを見た。


『通報があったのは昨日の十三時過ぎでした。都内××区××町に住む四十代女性から「同居人である姪がゾンビウイルスに感染した」と110番通報が寄せられました。自衛隊が現場に駆けつけましたが、そこには感染者の姿はなく、「自衛隊が駆けつけてくる間に逃げてしまった」と通報者の女性は述べたとのことです。その後、近辺での通報はないものの、女性の姪が現在も行方不明であることから、警察は信憑性を否定できないとの見解を示し、近隣地域の捜索を実施すると共に、近隣住民への強い警戒を呼びかけています』


 次のニュースです。

 キャスターのその言葉が、停止したふたりの時間を動かした。


「いまの……。わたしのこと……だよね?」夏蓮は力なくつぶやく。


「だろうな」


「まるで犯罪者みたいに……」


 ニュースの内容には心当たりしかない。

 夏蓮のことを言っているのは火を見るより明らかだ。


 ついに全国ニュースに流れてしまうとは。

 事態は思っていた以上に大事になっているようだ。


 ただの少女の家出だとすまされなかった。

 ゾンビ化した疑いがあれば、こうなるのは当然だったのかもしれない。


 昨日からの、自分の思慮の甘さに辟易とする。

 肝心なところに気づくのは、全て手遅れになってからだ。


 もうこれ以上は決断を先延ばしにできない。

 半端なままでは誤魔化せない。

 決断が必要だ。本当に取り返しがつかなくなる前に。


「おい」


 ヒッ、と夏蓮は萎縮した声を発した。

 自分の置かれた状況をよく理解できているようだった。


 ゾンビを匿えば重犯罪になる。

 このままでは彼女の携帯の位置情報の履歴から、この家まで警察の捜索の手が及ぶことは明らかだ。


 そんな状況でもまだ、匿え、だなんていう図々しさは、さすがのこの少女も持ち合わせていないようだ。


「おまえには酷なことを言うが……」


 夏蓮は青ざめた顔で俺を見つめる。


 今の自分はこの少女にどのように見えているだろうか。

 悪魔にでも見えているのだろうか。


 まさか、こんな残酷な言葉を自分が使う日がくるなんて。


「悪いが、やっぱり死んでくれ」


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