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『国民に銃とワクチンを。ゾンビに弾丸と救済を。世界に冥福と安寧を。』

 






 死が未来をかすめた。

 それは大衆が混乱するには十分過ぎる理由になる。


 ワクチン接種の会場となった医療センター二階の大広間は、阿鼻叫喚や地獄絵図とまではいかないまでも、間違いなく混乱の渦中であると言えるだろう。

 ざわめく群衆の中から、ぽつぽつと降り出した雨のように怒鳴り声が生まれていく。

 となりの人間の息遣いが生暖かい温度のまま聞こえてくる。


 会場内を警備する自衛隊員が「落ち着いてください!」と呼びかけている。

「ここは安全です!」と何度も。

 それでも嵐となった喧騒はやまない。

「ここから出せ!」だとか「早くワクチンを打て!」だなんて自分勝手な声まで飛びかうほどだった。


 まるでそういう映画の中にいるみたいだった。

 思えば、やつらが世界に現れてから、ずっとそういう感覚が肌にねばりついている。


 ゾンビだ。


 ことの発端は医療センターの外で、誰かが声を張り上げた、そのたったひと声だった。

 俺も外でゾンビを見た。

 もうセンター内に入っている。

 一体だけじゃない。

 感染したやつがいる。

 いくつもの確証の無い情報が瞬く間に錯綜した。

 そして恐怖と不安ほど伝染力の高いものはない。

 会場はあっという間にパニックになった。


 あとひとつのきっかけで、もしもどこかで悲鳴がひとつ上がるだけで、ここは本物の地獄絵図に変わるのだろう。

 そう確信できるほどの緊張感がここにはある。


「わたしたち、死んじゃうの?」


 娘の花恋(かれん)はおびえていた。

 目をうるうるさせ、すがるように俺のズボンをつかむ。


「大丈夫だ」


 花恋の頭を撫でてやると、サファイアブルーの星形のヘアピンに指が触れた。

 それはひと月前の誕生日に妻がプレゼントしたものだった。

 花恋はひどく気に入っていて、風呂に入るときですら、外したくないと泣きわめいて困ったほどだ。

 俺は胡蝶蘭の模様でデザインされたレターセットをプレゼントした。

 最近の花恋は文通にはまっていて、直接話せばいいものを、妻と何度も手紙でやりとりをくり返していた。

 俺も花恋の熱量に負かされて付き合わされたことがある。


「でも……」


 今にも泣き出しそうな声でつぶやく。

 花恋の手は震えていた。

 周りには泣きわめく子供もいる中で、必死に我慢している姿は、わが娘ながらとてもたくましい。


「花恋」


 妻の美央は言った。

 しゃがんで花恋と目線を合わせると、震える娘の手を握った。


「大丈夫だよ……!」


 真面目な顔で力強く言った。

 そのあとに、とっておきの笑顔でニカッと笑う。


「だいじょーぶ!」


 こんなときでも思う。

 美央の笑顔は魅力的だと。

 栗色のショートヘアに、見開けば光を放ちそうな大きな瞳。

 天真爛漫を絵に描いたようなその容姿と佇まいには『大丈夫』のような前向きな言葉がよく似合う。

 その笑顔は温かく、人に勇気と安堵を同時に与える不思議な魅力に満ちている。

 どんな状況にいたとしても、今、自分は笑っていいのだと、相手に思わせる力がある。

 自分自身が笑顔をつくるのが苦手だという自覚がある分、よりいっそう美央の笑顔は魅力的に思える。


「わかった」


 花恋は妻の笑顔につられるように、小さく笑みをつくった。


「手、はなさないで。このままがいい」


「もちろん」


 美央は再び笑った。

 その笑顔を見て、俺も冷静さをひとつ取り戻す。


 俺たち家族はまだワクチンを打てていない。

 ゾンビに噛まれてしまえば感染は免れない。

 ならば考えておく必要がある。

 一番生存率の高い選択を。

 妻と娘を確実に守ることができる選択を。


 会場の出入口は東西にひとつずつあった。

 ゾンビが現れたと会場がパニックになってから、両方の扉は閉じられた。

 その付近では会場に常駐していた自衛隊員が列をつくり、外を警戒している。

 どうやら彼らは会場の外にいる別の部隊と交信しているようで、外の安全確保ができるまで扉を開けるつもりはないようだった。

 対応は完璧に思えた。

 自衛隊の人間が言うとおり、ここが一番安全なのはそのとおりなのだろう。


 そして重要なのは、ここからの思考になる。

 大きな失敗が起こるときは必ず、イレギュラーが起こり、それに対処できなかったときなのだから。


 もし、なにかの間違いで会場の中にゾンビが入ってきてしまったら?

 考えなければいけないのは、そういう最悪の想定だ。


 ゾンビが中に現れれば、会場はついに地獄絵図に変わるだろう。

 そうなれば自衛隊のコントールなんて、少しも効かなくなるだろう。

 ゾンビのいない出口の方へ、我先にと皆が駆けていくだろう。

 会場には百を超えるだけの人数がいる。

 これだけの数の人が全員走り抜けられるほど、通路は広くない。

 後続の人たちは前を行く人達に通路を塞がれ、出口の前で立ち往生することになるだろう。

 ゾンビは人が密集している場所に向かいやすい習性があるそうだ。


 つまり、大感染に繋がっていく未来が容易に想像できた。


 辺りを丁寧に見渡すと、ワクチン接種のために設置されたブースの向こう側にある非常口の看板が目についた。


「すこし移動しよう」


 俺は美央と花恋に呼びかけて、非常口看板の近くまで移動した。

 看板の下には、人ひとりが通れる白い非常扉がある。

 その目の前には白衣を纏った初老の男が立っていた。

 おそらくワクチン接種を担当していた医師のひとりなのだろう。

 医師は爪を嚙みながら、周囲を注意深く観察していた。


 医師と目が合った。

 なにか言われるのかと思ったが、彼は眼を細めて皺を目立たせただけで、とくに何も言わなかった。


 この非常出口の近くにいたのは、この医師と、他に青年がふたりだけだった。

 自衛隊ですら、ブースの奥に隠れたこの出口を見落としているようだ。


「どうしてここなの?」


 花恋が不安そうに俺を見上げる。


 俺は花恋の頭をもう一度撫でた。

 また、サファイアブルーのヘアピンに指が触れる。


「大丈夫」美央は言う。力強い瞳で。温かい微笑みで。「私はパパを信じるよ。花恋は?」


「うん」花恋は頷いた。そして俺を見上げる。俺の目を見つめる。「信じる」


 確実なものなんてこの世に存在しない。

 しかし今だけは、それを見つけ出さないといけない。

 その決断に二人分の命を背負わなければいけない。


「ああ。信じろ」


 腰に取り付けた拳銃に手を触れた。

 冷たい鉄の感触は、まだ手に馴染んでいない。


 突然、東側の扉が何者かによって叩かれた。

 何かが衝突したような音で、まったく穏やかな音ではなかった。


 会場はいっきに静まり返り、全員が息をのんでその扉に注目した。

 両開き型のドアには鍵がかけられているが、鍵ごと破壊してしまいそうな勢いで再び扉が叩かれる。

 そして次の衝撃で、金具が砕ける音が響いて、扉は内側に向かって開かれた。


 扉の向こうから現れたのは、一体のゾンビだった。

 フィクションの中で、画面の向こう側で、何度だって見てきた姿。

 直面すると、こんなにも恐ろしい。

 現代の恐怖の象徴。


 絶句して、だれもが言葉を失っていた中で、花恋がつぶやいた。


「ゾンビ……?」


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