第三話 黎明ノ岸 中編
本作は史実を踏まえたフィクションです。
軍事・歴史描写を含みます。
その夜、司つかさは父の机の前に立った。
造船所から持ち帰った図面に赤鉛筆を走らせる音は、海霧と同じように家の空気に染みついていた。線が引かれ、寸法が訂正されるたび、紙が微かに擦れる。その音が止むのを待ち、司は深く息を整えた。
「父さん。……俺は、海軍兵学校を受けたい」
父はすぐには顔を上げなかった。
視線だけが図面の線を追い、沈黙は思ったよりも長く続いた。
その静けさの奥で、造船場に生きる者特有の、慎重で、確かめるような気配があった。
「理由は」
短い問いだった。
だが、司の胸にはその数語が重く響く。
「……あの桟橋を見ていると、思うんだ。
迎える人も、海に出る人も、どっちも大事だって。
だから……俺は、そのどっちにも恥ずかしくない人になりたい」
言葉を置いたあと、司は自分の指先がわずかに強張っているのに気づいた。
父の前に立つとき特有の緊張――叱られる恐れではなく、言葉の軽さを見透かされる恐れに近いものだった。
父の手が図面の上で止まり、赤鉛筆の先がわずかに揺れる。
眼鏡を外す仕草は、急かすでも責め立てるでもなく、むしろゆっくりとしたものだった。
だがその静けさの奥に、息子の本心を量ろうとする重みが、確かにあった。
父の口から反対の言葉は、一つたりとも出なかった。だがその沈黙の代わりに、一つだけ、深いところから引き上げるような問いが落ちる。
「……戻ってこられなかった時は、誰が迎える」
父の声は低く、抑揚がほとんどない。
しかし、その問いの意味だけは重く沈んでいた。海に生きる大人だけが知っている現実。その一端を、父は僅かに開けて見せていたのだ。
司は息を呑み、胸の奥で言葉を探した。
逃げ道のある答えを言うことはできた。
けれど、父の視線がそれを許さないことも、少年なりに理解していた。
「……帰ってこない日があるなら、
その時は……俺が、あの桟橋に立つ人になりたい」
言葉は震えなかったが、喉の奥に小さな痛みが走った。
自分が言ったことを、自分が一番よく理解していない――その曖昧な痛みだった。
父はすぐには何も言わなかった。
司の返答を、まるで図面の線の一本一本をなぞるように、黙って受け止めている。
そして、ようやく視線を上げると、その目には怒りも失望もなく――
ただ「覚悟がどこから来て、どこへ向かうか」を確かめる親の目だけがあった。
「……覚悟の在り処だけは、教え違いにするな」
短く落ちる父の声は低い。
だが確かに、承認にも似た響きがあった。
司は小さく息を吐いた。
安堵とも違う――胸の奥に静かに重みが座るような感覚だった。
父の前で初めて、自分の進みたい道を言葉にしたのだと、その時ようやく実感した。
工廠の槌音が、戸棚の茶碗を揺らし続けている。
その響きは、いつもと変わらない。
けれど司には、胸の内側で鳴っている音だけが、確かに違って聞こえた。
◇
数日後の夕方、父の机に、見慣れない紙束がひっそりと増えていた。
――海軍兵学校 募集規程
――身上書の見本
――戸籍謄本請求の覚え書き
紙の角が、作業灯の下で白く光っている。
司が覗き込まなくても、それらが何を意味するのかは分かった。
父が黙って集めた書類の一つひとつが、「本気で来る気か」と問いかけているようで、父に問われたあの夜と同じ様に、喉の奥に小さな痛みが生まれた気がした。
母は台所から湯気の立つ椀を運んできて、机の上の紙束にちらりと視線を落とした。
驚きも反対も口にしない。ただ、小さく息をつき、「あなたの決めたことなら」と言いたげに、そっと机の端を整えただけだった。
その動作の静けさが、かえって司の胸を締めつける。
その晩、身上書を書くよう促されたとき、
父は硯に水を落としながら、ぽつりと一言だけ言った。
「字は、丁寧に書け」
その声音には叱責も激励もなかった。
ただ、逃げ道を許さない硬さだけがあった。
「達筆である必要はない。だが……急いだ字は嘘をつく」
司は膝を揃え、毛筆を握った。
手元に落ちる灯りが白い半紙の上に円を描き、わずかな緊張のせいか、墨の香りがいつもより濃く鼻に届く。
まず、司は名前を書いた。
乾きかけた墨が紙に沁みていくたびに、
「本当に行くんだぞ」という現実が、自分の字の形となって残っていくようだった。
生年月日を書く。
父が横から覗き込む気配がする。
視線は向けられていないのに、肩が自然と固くなった。
そして、志望理由の欄に筆を置いた瞬間、
半紙の白さが急に広く感じられた。
どんな言葉を書けば嘘にならず、
どんな言葉なら父に、母に、そして自分に恥ずかしくないのか――。
それが分からず、しばらく空白が続いた。
台所では、母の茶碗を洗う音がかすかに響く。
その生活音の温かさが、逆に背中を押すようでもあり、揺らすようでもあった。
やがて司は、迷いを置いて筆を取った。
震えてはいけない、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと書いた。
――海に立つ者として、國と艦を支えることを願う。
書き終えた瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、墨となって紙の上に確かに形を持ったように感じられた。
父はその一行を、無言のまま読んだ。
灯りが眼鏡のレンズに反射し、表情はよく見えない。
ただ、紙の端に軽く触れた指先が、ほんのわずかに止まった。
「……そうか」
小さな声だった。
肯定にも否定にも聞こえる。
けれど、書き直せと言われることはなかった。
母は廊下からそっと覗き込み、司と目が合うと、静かに微笑んで引き下がった。
言葉よりも温かい「分かっているよ」という気配だけを残して。
その夜、机の上の半紙は、家族の静かな覚悟を一枚に纏めていたのだった。
◇
願書の提出から試験当日まで、約一か月。
司は、これまでの人生で最も長い時間を机と向き合って過ごした。
放課後になると、真っ先に足は自然と父の会社へ向かった。
艤装倉庫に隣接した小さな休憩室――木製の机が一つ置かれただけの質素な空間だが、司には家よりも落ち着いた。鉄と油の匂い、金属を叩く乾いた響き。幼い頃から肌に染みついた“生活の音”が、かえって心を静かにする。
壁の向こうでは、溶接の火花が弾け、鋼板を運ぶ台車の軋みが、いつもの息遣いのように続く。
そのどれもが、司にとっては雑音ではなかった。
むしろ、机に向かう身体の芯を整えてくれるように感じられるのだ。
教科書の頁をめくるたび、知らない言葉や記号が静かに並び替わっていく。
文章を解きほぐし、図形の線を追い、英語の短い文を口の中でそっとなぞる。
どれも海軍兵学校が求める力であり、司が積み上げねばならない“基礎”だった。
どの科目も合格を左右する。
司の筆は決して速くなかったが、書くたびに確かに積み重なっていく実感があった。
机の上に増えていく小さな消しゴムの屑でさえ、自分の歩みの証のように思えた。
「司坊、そんな難しいところばかり読んで……頭、こんがらがらねぇか?」
昼休みに工員が声を掛けてくることもあった。
火の消えた溶接面を片手で持ち、少しだけ笑みを含んだ眼差しで。
「面白いとか、得意とか……そういうのじゃなくて。
……どうしてこう解くのか、知りたいだけなんです」
司が言うと、工員は煙草を咥え直し、わざとらしく肩を竦めた。
「そりゃあ海軍向きだ。
上に立つ奴は、理由を間違えちゃいけねぇからな。
“なんとなく”で判断されたら、船は沈む」
軽口に聞こえるが、そこに込められた真剣味は司にだけ分かった。
――この人たちこそ、あの桟橋で艦を迎える者たちだ。
海に出る者も、迎える者も、同じ一本の線で繋がっている。
司はそれを毎日、少しずつ理解していった。
休憩室の灯りは、よく工員たちが気まぐれに点けてくれた。
「暗くれぇと目が悪くなるぞ」
そう言って去って行きながら、誰もそれ以上の手助けはしない。
それがかえって、司を強くした。
家に戻れば、母が湯を沸かし、父は新聞を広げながらも、息子の筆記具が机を擦るかすかな音に耳を傾けていた。
誰も励まさない。
誰も急かさない。
――けれど司は、一人ではなかった。
夜、家の中で机に向かうたび、桟橋に立つ士官の背中がふと浮かび、迎える工員の姿がその隣に重なる。
自分も、あの“一本の線”の上に立ちたい。
まだ未来がどのようなものか知らない少年にとって、その思いは暗い海を照らす灯のようだった。
海軍兵学校の入試に先立ち、まず身体検査があった。
場所は横須賀鎮守府の医務室。まだ朝の冷気が残る廊下に、志願者たちの足音が続いていた。
少年たちは襦袢と袴を脱ぎ、下着姿で番号順に並んでいる。
胸囲、肺活量、視力、骨格の検査――軍医の淡々とした指示が続いた。
「鳴海司」
名を呼ばれた瞬間、司は背筋を伸ばした。
返事は、これまでの人生で最も澄んだ声だった。
数日後、ようやく迎えた学科試験の日。
横須賀の講堂に、全国から集まった志願者たちがずらりと並んだ。
海軍兵学校は広い範囲から志願者を集めており、年によっては倍率二十倍を超えることもある――そんな噂を耳にしていても、司の胸は不思議と静かだった。
国語。
数学。
英語。
科目名が読み上げられるたび、講堂の空気がわずかに張りつめる。
問題用紙が配られる音のあと、一旦の静寂が落ち、次の瞬間には鉛筆の音が一斉に走り出した。
窓の外から工廠の汽笛が低く響き、司はそれを「いつもの朝」と変わらないものとして受け止めた。
作文の題は――
「将来いかなる人間たらんと欲するか」。
司は短く息を吸い、筆を走らせた。
――傷ついても帰ってくる艦がある。
迎える者がいる。
そのどちらにも恥じぬ者でありたい。
筆を置いた途端、窓の外の汽笛がはっきりと耳に戻ってきた。
その音に応じるように、迷いはひとつ、胸の底で静かに落ち着いた。
そして迎えた、合格発表の日。
横須賀鎮守府の掲示板には、受験番号がずらりと書かれた紙が貼り出された。
少年たちが押し寄せ、名前を叫ぶ声と、肩を落とす気配が入り混じる。
司は、人波の後ろで自分の番号を探した。
――あった。
胸の奥が、静かに熱を帯びた。
叫びたい気持ちではなかった。
ただ、長い道の先に灯が点ったのを確認しただけだった。
家に戻ると、父は新聞を畳んで司を見た。
「……受かったか」
「うん」
「そうか」
それだけの会話だった。
だが、その短さの奥にある重さは、家族全員が理解していた。




