第二話 海ノ記憶
__南へ。
重巡「妙高」は、静かに海を割って進む。
鋼の船体を焼く陽光が、海面を白く照り返していた。
潮と油の匂いが交じる艦橋の空気は、どこか鉄の味を帯びている。
南洋へと延びる航路の先、かすかな靄の中に、雲の腹が鈍く光った。
マカッサルへ向けての航行、三日目。
その空の下で、妙高副長、鳴海司少佐は手摺を軽く握りしめ、前方を見つめていた。
「針路一五度、維持。速力二〇ノット」
航海長・加藤真之大尉の声が響く。
短く、明確に。風と波を読んでいる者の声だった。
すぐ後ろで、砲術長・村瀬誠一少佐が淡々と告げる。
「砲側整備完了、射界異常なし」
艦橋は整然としており、誰の声にも無駄がない。
その中央――双眼鏡を掲げた妙高艦長、新條芙乃中佐が、ゆるやかに口を開いた。
「よろしい。南の海は気紛れだ。油断するな」
その声音は冷ややかで、澄んでいる。
だが鳴海には、その静けさの奥に、かすかな熱が見えた。
風が艦橋を抜けるたびに、黒髪の一房が肩に落ちる。
その背を見つめながら、鳴海は記憶の底で波の音を聞いた。
――あの声を、いつかどこかで聞いたことがある。
そう思った瞬間、十五年前の光景が、潮の匂いとともに甦った。
* * *
横須賀。
鳴海司の原点だった。
家の裏には造船所があり、父は監督として朝から晩まで現場に立っていた。
「海を知らぬ者に、船は造れん」
父はそう言って、油にまみれた手を洗いながら笑った。
その言葉の意味を、少年の鳴海は深く理解してはいなかった。
だが、海風に混じる鉄の匂いとともに、その言葉だけが心に残った。
潮騒の音が、彼にとっての子守唄だった。
海軍兵学校への入学は十九歳の春。
父の反対を押し切っての決断だった。
鳴海は理想を信じていた。
“海軍とは理性の国である”と。
知と規律をもって混沌を制する場所――そう信じていた。
しかし、現実は違った。
階級と派閥、嫉妬と驕り。理性は名目でしかなく、人間の業がそのまま海のように渦巻いていた。
それでも鳴海は折れなかった。
海の理法だけは、信じるに値したからだ。
――その年、一人の“異物”が入った。
嶋村芙乃。
女でありながら兵学校に入るという前代未聞の存在だった。
「嶋村」と聞いた瞬間、鳴海は悟った。
あの嶋村直実の孫娘。誰もが知る帝国海軍創世期の英雄の名。
鳴海は心の中で冷ややかに笑った。
七光りの道楽か。
血筋に守られてここへ来たのだと。
努力も汗も知らぬ者が、理想の場を汚す――そう思っていた。
だが、その先入観は、一度の荒天で崩れた。
演習用の小型艦が、突風を受けて傾いた。
風速十五メートル。
舵が切れず、甲板に候補生たちの悲鳴が上がる。
その中でただ一人、嶋村が前に出た。
「転舵! 舵角十五、維持!」
濡れた髪を振り、舵輪を握る。
指導官の指示より速く、確信をもって。
船体が悲鳴を上げながらも、波の中を突き抜けた。
轟音の中、鳴海は見た。
嶋村の目が、まるで海そのものの色をしていた。
理屈ではなく、海を“感じて”動く者の目。
その瞬間、鳴海は自分の胸に小さな裂け目が入る音を聞いた。
女ではない。士官の声だ。
傍らで索を締めていた後輩が、息を吐きながら呟いた。
村瀬誠一。嶋村と同期の、あの男。
「……すげぇな、あの人」
鳴海は何も言わなかった。
ただ、波に濡れたデッキの上で、その声の余韻を聞いていた。
嶋村芙乃――名も、姿も、もう忘れられなかった。
* * *
それからの日々、鳴海は彼女を遠目で見続けた。
講堂の端、桟橋の影。
目を凝らせば、いつもそこにいる。
報告書の文字は美しく、指導の場でも一歩も退かぬ。
周囲は陰口を叩いた。
「女狐」「飾りの士官」「嶋村の庇護者」――。
鳴海もまた、そう思い込もうとした。
だが、嶋村の横顔はそれを許さなかった。
誰よりも冷静で、誰よりも孤独な背中だった。
上級生として声をかけることもできたが、鳴海はしなかった。
掛けても言葉を選びすぎてしまうだろう。
そして――何より、目を合わせることが怖かった。
その瞳に、自分の“理性”が見透かされそうで。
* * *
現在。
艦橋の窓を南風が叩く。気圧が落ち始め、遠くの雲が濁った。
「鳴海。気圧変化、逐次報告を」
新條艦長の声が響く。
「了解。測候班に指示済みです」
鳴海は短く応じた。
その声を聞くだけで、あの頃の潮の匂いが蘇る。
嶋村芙乃――否、今は新條芙乃。
名を変え、責を負い、海を統べる者として立つ姿。
その背に、十五年前の彼女が確かに重なっていた。
「……副長、何か?」
「いえ。風向きを見ておりました」
「そうか。ならよい」
短いやり取り。
それで十分だった。
鳴海は息を整え、胸中で言葉にならぬ想いを押し込めた。
――自分は、あのとき蔑んだ眼を、今こうして恥じている。
通信兵の声が落ちた。
「気圧一〇〇八、下降中。雲底、南西より流入」
鳴海は即座に応答する。
「了解、針路を〇・五度修正、速力二ノット減」
「実施せよ」
指示が伝達され、艦がわずかに傾く。
足裏に鉄の響き。
鳴海は手帳を取り出し、短く記した。
__昭和十七年三月二十六日 南方海上
__ 我々は今、再び“海”に試されている。
__この果てのない青の下で、信じられるのは己と艦と、共に立つ者たちだけだ。
書き終え、手帳を閉じると、指先に微かな震えが残った。
鳴海は窓越しに艦長を見る。
風に髪を揺らし、双眼鏡を掲げたまま動かない。
その眼差しには、兵学校のあの日と同じ光が宿っていた。
強く、静かで、触れれば切れるほど鋭い光。
――嶋村の血を継ぎながら、それを超えて立つ者。
鳴海は静かに頷いた。
「副長、波高は?」
「一・八メートル。まだ持ちます」
「了解。なら、もう少しだけ南を掴もう」
「了解です、艦長」
短い応答。
言葉は少ないが、呼吸は揃っていた。
彼女の声が風に消える。
それだけで十分だった。
背後から、村瀬が笑い混じりに言う。
「上等じゃねぇか、副長。荒れるほど燃えるってもんだ」
「お前は昔から変わらんな」
「あぁ…艦長も、な」
鳴海は小さく笑った。
それは戦場に似つかわしくない、穏やかな笑みだった。
艦は南へ。
波を割り、陽炎の中を進む。
鳴海の胸に、古い潮騒が蘇る。
横須賀の海、父の声、そして――嶋村芙乃の瞳。
海は記憶を消さない。
沈んでも、底からまた浮かび上がる。
鳴海は知っていた。
この果てのない青こそ、人の心を映す鏡だと。
「鳴海、副長――この海は、静かな顔で人を試す」
艦長の声が風に乗って届く。
「心得ています、艦長」
鳴海は静かに目を閉じた。
遠くで波が砕ける音。
それは過去と現在を繋ぐ、蒼の残響だった。
海は、今も鳴っている。
そして――その音を聴く者は、もう孤独ではなかった。




